雨と傘
しばらくの間、雨が続いていました。寒くなったり暑くなったりすることは相変わらずでしたが、雨だけは降り続いていました。川が氾濫しそうなくらいの滝のような雨だったり、草を湿らせるくらいの霧のような雨だったり、様々でした。外に出るときは雨具と傘が必要になり荷物が増えました。ですからハールは外に出るのが億劫でした。
その日も雨でした。外に出ると雨具に雨が纏わりついてきました。いくら、雨具の素材がいいからと言っても重くなった雨具を着続けるのは堪えました。
畑に向かう途中、道端で何かが飛び跳ねたのが見えました。ハールは注意して屈みこみました。すると、傘のような大きな葉っぱをつけた植物の下でカエルが鳴いていました。頬を膨らませたりへこませたりしながら踊るように鳴いている姿がまるでからかっているように思えて可笑くなりました。
ハールはふと、誰かと一緒にこうして屈みこんで、花を見ていたことを思い出しました。その花はとても小さく、普段から自然の世界への関心と繊細な感情がなければ見ることはできないものでした。動きのある動物とは違い、植物は自らその姿を人間に見せることは少ないからです。ハールはその「誰か」にそんな関心とちょっとした嫉妬の感情を持っていました。ですから大事な記憶のはずなのですが、その誰かは黒いままの影で、色が鮮明になることはなく、何も思い出せませんでした。
靄のかかったその記憶を思考の片隅に置きながら、歩き回りました。頭に手を当て、目に移る景色をただぼんやりと眺めました。そうすれば、ふっと思い出せるんじゃないか、という期待を込めて。
けれどもどこまでいっても頭の中に見えるのはこの変わった季節の世界だけでした。甲高い鳴き声の蝉に、地表を粉砂糖をまぶしたように白く覆いつくす霜柱。温かい風に暢気な声で鳴く薄緑色の小鳥たちに、本体の養分を蓄える役目を終え、瑞々しい緑色から枯れながらも威厳と風情を持った赤や黄色に色を変え、抜け落ちていく葉っぱたち。
やがて日が落ちて辺りが暗くなってきました。ハールは、思い出せないならたいしたことじゃない、と諦めてしまいした。
家に戻ったハールはセンセイに聞きました。
「センセイは森から出たいと思ったことはないの?」
「どうしてまた、そんなこと聞くの」
「いいから」
「出たいって思ったことはないかなあ。それにいつ、どこからこの森に来たのかとっくに忘れちゃった。だから自分の季節はもうわからないんだ」
「……そう」
「……あ、それじゃあ、ハールの住んでいる世界のことを教えてよ。どんなところなの?」
「どんなところって……」
ハールは何から話していいのか分からず困りました。
「じゃあさ、私につけた名前のセンセイってどんな人なの?」
「学校でいろんなことを教えてくれる人で、優しい人だよ。でも、僕らが悪さやいけないことをすると厳しく怒るんだ。でも、大声で怒鳴ったりなしないんだ。それが返って怖いんだ」
「にゃははは、君はよく怒られていそうだね。あ、ごめん。ごめん。冷やかす気はないんだ。それで、ガッコウってどんなところ?」
「僕の住んでいる家から少し離れたところにあって、ちょっと歩かなくちゃいけない。それで村のこどもたちがみんなそこに集まって、一緒に勉強するんだ」
「へえ、ハールだけじゃないんだ。どのくらい集まるの」
「うーん。数えたことないけど、二十人くらいいるかなあ」
「そんなにいるんだ」
「うん。でももっと大きな街とかだったら百人とか集まるんだ」
「百人もいたらここは騒がしいだろうね。それでハールのガッコウにはどんな子がいるの?」
「僕より年上の人もいれば、小さい子もいるよ。それで先生がいないとみんな好き勝手に騒いでしまうんだ」
「センセイも大変だねえ」
「まあね。でも先生がやって来るとみんな静かになるんだ」
「怖いから?」
「ううん。それもあるけど僕たちが騒いでても先生は静かに言うんだ。さあ授業を始めますよって。その声が僕たちの大声より学校に響くんだ。それがとても不思議なんだよ」
「すごい人だね。会ってみたいなあ。それでどんなことを勉強するの?」
「文字の書き方や読み方から化学のこと世界のこととかいろいろ。たまに学校を出て外で授業をすることだってあるんだ」
「楽しいだろうねえ」
「うん……でも……」
「でも?」
「僕のことをからかってくる子たちがいて、いつも嫌な気持ちにさせられるんだ」
「どんなふうにからかうの?」
「授業で失敗したこととかを持ち出して僕の悪口を言うんだ。まぁ、僕だって笑われるようなことをしてるから、仕方ないんだけどね」
「それじゃあ、ここでたくさん勉強して強くなればいいんじゃない。時間はあるんだしさ」
「そうだね。強くなれたらいいね」
「ハールもいろいろ大変だね。でも、いいこともあったんじゃない?」
「いいこと……いいこと……えっとね、身寄りのない僕を引き取ってくれた叔母さんがいい人で僕の面倒を見てくれるんだ。ほら、やっぱり、普通はさ、自分の子の面倒だけでも大変なのに他所の子の面倒まで見るのは嫌だと思うんだけど優しくしてくれる。だから叔母さんには感謝しているんだ。あ、あと……」
「ん? どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。僕の勘違いかもしれないし」
ハールの瞳が涙で滲んできました。
「いいから言ってごらん」
「さっきからそうなんだけど、屈みこんで何かを見ている僕の姿が浮かぶんだ。それが実際にあったことかどうかすらわからないんだけど……でも、でも、それがどうしても大事なことのように思えて……」
ハールの瞳にはうっすらと涙がこぼれていました。
「にゃはは、それが思い出せるといいね」
センセイはハールの肩を優しく叩きました。
ありがとうございました。