歪みは非情と臨場と 起
先週忘れてたので、今週は続けて二つしてみたり
その日、ここ数年では初めてと言ってもいいことだけど、僕は心に何も告げずに外出した。
昨日、電話があったからだ。
『知りたいことを教えよう。何のリスクもなく危険も代償も必要ない。君に危機感と解決欲が有るなれば指定の場所へ足を運び給え』
という如何にも怪しげな言葉だったが、僕は動いた。
場所は街外れの廃墟。かつて発電所だったが今やコンクリート壁しか残っていないという建物の残響とも言える場所だ。
硝子窓の消えた楕円の枠が早朝の澄んだ空気に霞んであたかも神殿にいるかのような感覚を覚える。
僕はその壁に囲まれた中心に置かれた、この場にそぐわない真新しいパイプ椅子に腰掛けた。
「本当に来るとは思わなんだ」
掠れた、しかしどこか奥底に芯があるような声が座ると同時に耳に響く。
声の聞こえ方から察するに、どうやら真後ろにいるようだ。
「僕も驚きましたよ。イタズラ電話じゃなかたったのか、ってね」
「嘘が好きだな少年」
「滅相もない」
「君は確信していただろう? 私の言葉に偽りも嘘も騙りすら無いことに。……実に見込みがある。私自ら出向いた甲斐があったと云うもの」
なんか過大評価されてるな……。
昔から多いんだよなこういう人。僕は過大評価しやすいのか? まあ分かりづらい人間だからかなぁ。
「しかし……君は後ろを向かないのだな。普通は背後を取られれば怯えや敵愾心から振り向くのだが君からは何の素振りも感ぜず。只管に其処に座るといった様相だ」
「何でしょうね、何だかあなたを見たら無事では済まない気がしてならないので……失礼でしたら謝ります」
「……いや、私としてもこの方が都合が良い。出来ればこの儘、噺を済ませよう」
「そうですね。僕はあなたを知りませんし、あなたとはここで会ってすらない。それでいいでしょうか」
「結構。さて、挨拶はこの程度で好かろう。君を取り巻く演場は実に急速に迫っている」
「火急のようですね。僕にはさっぱりですけど」
「落ちるよりも疾く事態は忽然と我々を取り巻く。把握出来る危機など危機ではない」
一理ある。
危険というのは予測出来てしまえばそれでもう半分減ったようなものだ。
事故をすると分かれば安全運転するだろうし、恨みを買うと思えば人に優しくする。そうすれば危険は訪れない。
本当の危機はいつも突然に現れ、理不尽に進行する。
「しかしだ。君はこの私という掟破り(ローブレイク)の権利がある」
「出来ればテレフォンを使いたいところですね」
「生憎だがフィフティー・フィフティーも無いぞ。君は私の回り口説いヒントを聞くか聞かないか。その選択しか無い」
妙に圧力のある喋り方をする。
その割には内容には冗談が過分に混ざっていた。
「なら、聞かせてもらいましょうか」
「可かろう。では質問だ」
陽はまだ登らず、されど空は暗からず。
吐く息は白く曇って消えた。
寒い。
僕以外の体温をまるで感じない。
「君は愛する者が死したならばどうする」
「僕も死ぬ」
背後にいる何者かは僕の返答に満足げに喉を鳴らした。
「脆いが強いな少年よ。だがな、世の人々はお前程相手に依存してもいなければ自分が死ぬのに躊躇いが無くはない。人は一人で生きられない等と嘯くものの、本当は一人になってでも生きたいのだよ」
「まるで僕が死にたがりみたいな言い方ですね」
「違うかね。君はあの娘がいるから生きているだけだろう?」
「…………」
「自分に愛着もなく、彼女が嫌うからこそ安寧に無傷に平穏に生きているだけだろうに」
「……知ったふうなことを」
「だがな少年。そこで一つ条件を追加してみよう。死人が生き返るのならば嘆く事も死ぬ事も無いとは思わないか?」
「死人は死んでもう生き返らない。ファンタジーやメルヘンはこの世界に起きないでしょう。少しは現実を見たらどうですか?」
「全くその通りだ、返す言葉もありはしないよ。たた、愛する者を失った人がそのような思考を受け入れる事を考慮に入れないのか、縋るように不可逆を憎む事が本当にないと、そう信じているのならばこの噺はもう終わりだ」
ざあざあと風に揺れた若葉の森が控えめな潮騒のような音を立てる。
僕の瞳は風景を写したまま漠然と開いている。
「あるとでも?」
「どうだろうかな。私個人としては蘇りは不可能な事態だと認識している。身体的な問題――心臓の再始動や内臓器官の総取り換えが出来たとしても一度臥した人間はもう起き上がりはせんよ」
「何故、そう言えるのですか」
「死せば人の魂は抜けて天へと降る。一度出てしまった人の心はもう二度とは沈み込まん。どうしてだと思う?」
「……人生は重労働だから」
「そう、うんざりなのだろうな。世界は面倒が過ぎる。人間は社会にも人間に対しても死ぬ迄しか堪えられん筈さ」
何を話したいのか全く分からない話術だ。
論点が右往左往してまるで着地点が読めない。
「本当に回りくどいですね。あなたのヒントは」
「そうだろう? 私の最たる短所の一つだ。歳を経る度に拍車が掛かる厄介な特技だよ」
「結局のところあなたは僕に何を言いたかったんですか?」
「人はそれがあまりにも不都合たれば現実を信じない。それを君の脳に置く事が今回の私の目的だ」
「なるほど」
「理解して頂けたかね?」
「一応は」
「それは重畳」
同時にざりざりと落ち葉を擦る音が近くから遠くへと動いた。
「また会おう少年。暴君が山海に沈む頃、私は再び君の影と成り変わろう」
「お達者で、知らない人」
陽は登った。
夜は既に開けた。
まるで夢から醒めたような気持ちで後ろを向くと、そこには大きな足跡だけが点々と続いていた。