日常は通話と徒歩と 承
ストックはあっても投稿するのを忘れかけます。
特に何もせずに忘れない方法を模索中。
僕は軽く息をついて景色を眺めた。
春の気を浴びて茂る青葉から漏れる日がきらきらと星のように湖の上を揺れる。
芝ばかりのこの公園だが、湖は思いの外に澄んでいて、鷺や烏が思い出したかのように気まぐれに水に入ってはまた飛び立つ。
脳裏に浮かぶのは昨日の光景。
切断された、湯木おじさんの抜け殻。
昔から寂しい頭だったけど、何も切り取るなんて……なんの意味があるんだか。
「あー……なんか、沈んでるなぁ。僕らしくもない」
僕は立ち上がって、少し歩いて湖の柵にもたれかかった。
初めて人間の死体を見たのは小学校の頃だった。
父と心と行った山で迷って、見つけたのは首吊り自殺。無知な僕はその人に声をかけて降ろそうとして、腐った手を握りしめた。
二度目は中学校の時。スケッチ大会とかで外に出ていたら遭遇したのは轢き逃げ被害者。飛ばされて壁にへばり付いたそれは、まるで挽肉のようで、以来僕は生肉もレアステーキも食べられなくなった。
三度目は……「まーなーぶっ!」
どすっと背中に柔らかな感触。
「おいおいどーした。黄昏るにはまだ日は高いぞ?」
心だった。
今日は警察に呼ばれたのでいつもよりフォーマルなブラウスに珍しいロングスカート姿だ。
こういう格好をすると心はまるでお嬢様みたいで、恥を忍んで用意した甲斐もあるというものだ。
「スカートは好きじゃないけど、君が着ろと言っただろう? 珍しいからってあまりジロジロ見るなよ」
心は困ったような顔で言う。
恥ずかしさはあまりないらしいがバツが悪いのかもしれない。実際セーラー服もあまり好きじゃない。
なんでも、「服はフィット感だからな!」らしい。
「明日は君がスカートだからね」
「なんでだよ」
「世の中等価交換だ。君のスカート姿も悪くないしね」
うわ、なんだその理論。
「男はスカートを履かない」
「よく言うが、その男だ女だっていうのはよく分からないな。君は人間で、ボクも人間。それだけだろ」
「また説明しなきゃいけないか……いいかい、直球で言えばだね。男女差ってのは子宮と精巣の……」
「それはただの個体差だろ? 黒人や白人みたいなものだ。ならどうして生き方や服装を違えないといけないんだ?」
「うーん……そうだねぇ……」
ジェンダー、という言葉がある。
人間のアイデンティティの根幹にあるもので、簡単に言えばその人なりの『男らしさ』や『女らしく』に相当する。
それは一度取得すれば変化することはまずない。
逆に言えば通常とは異なった認識でもそれを変えることは出来ない。
「とにかくスカートは嫌だ」
ならばそう、ゴリ押しあるのみ。
「えー。いいじゃん」
「嫌だ。僕は足を出す服装は嫌いだ」
「まぁ、確かにそうだね」
「でも心は好きだろ」
「うん。短パンとかスパッツは好きだね」
「ならスカートも良くないか?」
「んー? ああ、そう考えると悪かないね」
心は寛大である。
だがその体は華奢で小柄であった。
そして脚は輪郭のみであろうとしなやかで美しいのである。
「……なんだよ。ボクの足になにか付いてるのかい?」
「いいや、別に」
「あっそ」
そうつぶやくと心は僕の襟首を掴んで顔を寄せた。
「え、えっと……なに?」
「ん〜」
心は無言無表情で顔をグイグイ近付ける。
肌が綺麗だ。
心臓のバクバクが頭に響く。顔赤くなってないよな。
「君、誰かとあってただろ」
ほぼ零距離で心が言った。
温かな吐息がふわりと僕の頬を撫ぜる。
「知らない匂いがする。誰だい?」
すんすんと可愛らしく鼻を鳴らす心の仕草はまるっきり犬のそれだ。
「よく分かるね。ちょっとした知り合いとばったり会って話してたんだ」僕は心に息がかかるのを気にしながら言った。
「ふ〜ん。どんな奴?」
「気さくで貧乏な物知り」
「あっそ」
心はどこか不機嫌そうに僕から離れた。
何でだろう……息が臭かったのかな。
「さて、じゃあ帰ろうか。学がまたいつ酷い目に鉢合わせるとも限らない」
「でも学校が……」
「大丈夫さ。お巡りさんに連絡してもらった。大事を取って明後日まではお休みだよ」
「心はしっかりしてるなぁ」
「ふふふ、褒めたって嬉しいだけだぞ」
「なら良いじゃん」
「あっはっは」
心は僕を導くように手を引いて歩く。
「君は本当にあれだね、不幸だ」
「不幸ね……くじ運はいいよ」
「そうじゃないさ。一生のうち数えられるくらいに死体を見ることなんて、そうそうない」
「ああ、それか」
いつだったか医者の三木先生に言われたことがある。『君が来た時は必ず危篤患者が死ぬ』『それに、話を聞くと君の学校君の住む地域、君の行く先々全てに何らかの死が付き纏ってる』『もしかすると君は、我々医者の最大の壁である“死”に愛されているのかもね』と。
死は僕と会いたくて会いたくて仕方がないから得てして僕の行く先に現れる。そんな突飛な理論だがそう笑えるものでもない。
「でもそうするとボクが生きてるのが変じゃないか」
口に出していたのか、心が返事をした。
「君の隣にいつもいて、それでいてそんなに強くもないボクが生きてるのならその考えはおかしい」
「それは……」
それは多分、心の代わりに彼が。
彼が死に成ったから。
僕の大親友だった彼が、心を庇って、そうして消えたから。
「なんだよ。ボクの言葉を返そうなんて生意気だぞ」
「……ああ、うん……そうだね」