6 北門突破
「ああ待って! フェイっ!」
小屋から出て数歩進んだところで、男が左頬を抑えながら追ってくる。
意識を失うには足りなかったか、と忌々しそうに舌打ちをするが、もう一発殴る気にはならなかった。
またあの甘い声を耳にしてしまったらと思うと、虫が全身を這うような感覚になる。
「俺、まだ君に話したいことが……っ!」
立ち止まってやる義理はない。
早足で歩きながら北門方向に目を向ければ、憲兵の高らかな笛の音が何度も聞こえてくる。
どうやら男に捕まっている間に、厳重な体制を取ってしまったらしい。
フェイは懐から奇宝石を取り出すと、はあ、と息を吐いた。残りひとつの、貴重な奇宝石だ。平均的に術の大小は関係なく使用限度は3回。フェイが渾身の力を込めれば1回。宝石が耐えきれず粉塵と化してしまうのだ。
早急に新しい奇宝石を手に入れなくては、と肩を落とした。
「……」
気持ちを切り替え、奇宝石へ念じる。
風の向き、その力、天候すら左右することが可能な力の一欠けらを、自身の体内にある伝導回路を通して奇宝石へと流し込む。
そして、フェイは膝を曲げると一気に跳び上がった。
ある程度の高さまで昇り、地上を見下ろす。上空にいるフェイを驚きの眼差しで見上げている男と、目が合った。
「あの男、最後になにか言ってなかったか?」
「いいよ、関わるつもりは毛頭ないし」
ローブの合わせ目から顔を出したエルを撫で、フェイは北門を定めて落ちる。
人は、単体では精霊術も魔術も扱う事はできない。
遺伝子に組み込まれた人間の伝導回路は完全なものではなく、欠損している。―――いや、欠損という言葉は違った。『元』から無いのだ。
しかし、奇宝石が伝導回路を補完する役割を持っていることが発見され、以来生活の部分にも軍事的にも使われるようになった。
需要が高まりつつあったが、自然から生み出される奇宝石を増やすことはできない。
やがて供給が追い付かなくなり、価格は高騰。稀少価値の高い、どんな宝石をも凌駕するものとなった。
「よっと、」
厳重に取り囲まれている北門の、左右にそびえる監視塔目掛けて落下体制を取る。
とは言っても、そのまま直撃すれば生身の身体はもたないだろう。しかし、残り2回の奇宝石を使うのはもったいない。
「ということでエル、頼んだ」
「なに!? 貴様、精霊をなんだと―――」
フェイは身体にしがみつくエルを掴むと、問答無用で落下地点に向けて投げ飛ばす。
エルは恨み事と共に遠ざかっていき、やがてボスンという軽快な音を鳴らして、巨大と化した。瞬間、あちこちから上がる悲鳴と絶叫の嵐。
門周辺が混乱となる中、大きくなったエルが落下してきたフェイを受け止め、すぐさま元の大きさへと戻る。
「貴様、我は崇高たる風の精霊だぞ! 下敷きにするとは見上げた度胸だ!」
「ごめんごめん、またよろしく」
肩にしがみつくエルの頭を撫で、フェイは着地した監視塔から地面を見下ろす。
目が合った憲兵達と、彼らが連れている馬が何頭か見えた。
「フェ、フェリスだーッ!」
「刻印の者が現れたぞー! 捕えろ、捕えろーッ!」
監視塔にいた憲兵は、巨大化したエルを間近で見てしまったからか、腰を抜かしている。この様子ではすぐに襲いかかってはこないだろう。
そう安心したのも束の間、新たな憲兵が監視塔へ上ってくる気配を察した。
剣を抜き放ち、フェイを突き刺そうと狙っている。なるべく多勢を引きつけようとしたフェイだったが、次の瞬間、地上から聞こえてきた声に焦りを浮かべた。
「矢を放てーッ!」
「え、うそ。そればっかはな、」
言葉を切り、迫ってきた矢からしゃがみ込んで、何とか回避する。
監視塔の塀がなかったら射られていただろう。危なかったと胸を撫で下ろすも、すかさず次の矢が放たれる。
「観念しろーッ!」
矢が途切れると、続け様に、塔へ辿り着いた憲兵達が剣を振り上げて襲いかかってきた。
「お、っと」
狭い塀で行われる攻防戦に、フェイは器用な足取りで一振り一振りを回避する。
ついでにひとり、ふたりを蹴り落としても、次から次へと現れ、キリが無かった。まあ、これだけの人数を引き寄せたのは自分なのだが。
「エル、もっかい大きく……」
「嫌だ、断る」
断固とした拒絶に、フェイは諦めに項垂れた。
しょうがない、と絶え間なく続けられる攻撃を避けながら、一瞬の隙をついて左右に吊るされている縦長の旗へ飛びつく。
国の象徴を描いている旗を鷲掴み、長さを利用して滑るように地面へと降り立とうとしたのだ。
だが、思いもよらず旗は途中で破けてしまい、慌てて受け身を取って着地する。
「―――っぶな。案外脆かったー」
「貴様あッ! 我が国の象徴になんということをーッ!」
立ち上がったフェリスに、怒号が迸る。
取り囲む彼らは皆一様にして憤り、各々武器を手ににじり寄っていた。彼らは憲兵―――国を愛し、国に尽くし、国を護らんとする集団。国の象徴である旗を破くなど以ての外だろう。忠義故の怒りに、フェイは「ごめん」と素直に謝る。
だが今は、その怒りを受けている場合ではない。
フェイは手身近にいた兵の一人を蹴り倒すと、そのまま駆け出し、控えていた馬を奪い取る。
跨ろうとした瞬間、憲兵数人が馬ごと斬り伏せようとするが、身の危険を察知してか、馬は鳴き声と共に前足を上げ、憲兵達を威嚇し後退させた。
彼らが怯んでいる内に、フェイは馬へ跨り、盛大に手綱を打ち鳴らす。
「せいやっ!」
砂埃を上げ、馬は勢いよく駆け出した。
憲兵達は矢を準備するも、馬の速度を前に無意味と悟り、残る馬を用いて急いで追いかける。
内、残った指揮官は憤慨する気持ちを堪えるように拳を握ると、下々の兵へ伝達を申し伝えた。
「騎士団に……十二勇将に要請をッ!」
「はっ!」
敬礼後に姿勢を正した一兵卒は、踵を返す―――そこで、町の方から尋常でない速度で近づいてくる馬を発見した。
馬車や荷馬の類ではない。しかし憲兵団の所有する馬でもない。あれは。あの有名な黒馬は―――。
「……」
呆ける一兵卒を尻目に、圧倒的な速さを誇る馬と馬上の人物は、真っ直ぐに門を潜り抜け走り去っていった。