5 フェリスの偽名
地下から這い出たフェリスは、ローブを引っ張り顔を隠す。
先程の彼らは、フェリスを捜索してた割には口調がやや丁寧過ぎていた。ならば、やはり目前の男が目当てだったのだろう。
「……巻き込んだな」
「あれ、ばれた?」
フェリスの咎める声に対して、男のそれは軽快だ。
なぜ、どんな目的で巻き込んだかは分からないが、フェリスが逃げる理由以上のものはないだろう。離れるに越したことはない。
無言で踵を返したフェリスだったが、それより早く男の手が肩を掴む。
「まあまあ、ゆっくりしてこうよ」
「……」
肩に置かれた手を今度こそ払い除け、扉へと直進する。
しかし、男はしつこく食い下がってきた。目の前に回り込み、行く手を邪魔する彼をフェリスは睨み上げる。
「退いてくれないか。『僕』に関わらないでくれ」
「―――……え、『僕』? 男?」
「何を意外そうに。正真正銘、男にしか見えないだろう」
極力低い声をつくり、男と偽る。
胸もサラシで潰してあるし、更に上からローブを身に纏っているのだから、すぐには分からないはずだ。
手配書では、フェリスの似顔絵と性別が書かれてしまっている。人を欺くには、性別を偽るのが一番手っ取り早い。不安もあったが、それは予想外に上手くいって、何度か窮地を救われたこともある。
しかし、何度も触られては流石に女だとばれてしまうだろう。
線の細さ、華奢な体つきは、どうあがいたところで女にしか見えないのだから。
「男? え、あれ? ねえ、人違いだったら申し訳ないんだけどさ、君ってあの『フェリス=ブランシャール侯爵令嬢』じゃないの?」
「……違う」
ローブの下で、エルがばっしんばっしんと胸を叩く。
危険だ、と忠告しているのだ。だが言われずとも、フェリスは警戒を高めていた。
自身をフェリス=ブランシャールと理解した上で巻き込んだのなら、余計にこの男から離れるべきだ。
目的も、意図も全く分からない。
―――いや、想像はできる。
『刻印の者』として懸賞金が跳ね上がっているフェリスだ。その懸賞金目当てで騙そうとしてきた者は、今まで何人もいた。
中には恨みを抱く者もいたし、命を狙われたこともある。
皆、人の良い仮面を被って近づいてくるのだ。水と偽って痺れ薬を盛られたことだってある。
ならばこの男もまた、懸賞金目当てだろうか。それとも刻印の者に対して恨みを持つ者だろうか。
どちらであれ、エル以外に心を許してはいけない。
それはフェリスが城を追われたあの日から、身に染みついた教訓だった。
「僕はこれで失礼する」
「ああ、ちょっと待った。ほら、えーと、名前! 名前教えてよ。君がフェリス=ブランシャール侯爵令嬢じゃないってんなら、名前」
「……男だと言ってる」
「でもさ、ほら、男に成りすますってのは常套手段じゃない? まずは、君の名前を聞かせてよ」
名乗るつもりはない、と暗に目線で訴えるが、男は引くつもりがないようだ。
「名乗れないってんなら、君はフェリスってことになる」
「強引な……」
「いや、だって君追われてるでしょ。んでもってさっきから町を駆けずり回ってる憲兵がさ……」
言葉を途切れさせ、耳を澄ませろと無言で促す。
すると小屋の外から「フェリス=ブランシャール! どこだ!」等と口々に叫ぶ声が聞こえてきた。
ああもう。とフェリスはがっくりと肩を落とす。
「……フェイ」
観念して、仕方なしに偽名を名乗った。
「フェイ……フェイ、ねえ」
渋々と答えたフェリス、改めフェイは、探るような男の視線から目を逸らし、彼方遠くを見つめる。
なんだか面倒な奴に捕まってしまった―――そう心の中で呟いたときだった。
「隙ありっ!」
「あ、」
深く被っていたローブを後ろに引かれ、フェイの翠の髪が曝けだされてしまう。
手で隠そうともしたが、それは無駄でしかなかった。
見開いた男の瞳が、鮮やかな翠で埋められる。
長髪であることを重んじる女特有の習慣を無視し、首筋辺りで短く切られている髪は、2年前のあの日から変わらない。
少しでも男と見られるように、一切伸ばすことはしてこなかったのだ。
「……髪」
「うるさい、見るなっ!」
男の呟きに、心臓が早鐘を打つ。
慌ててローブを被り直し、ぎゅっと裾を握り締めた。
だがいくら短く切ろうと、翠の髪を持った人間などそう滅多にはいない。『フェリス』だとばれてしまう―――不安に、身体が震えた。
「……」
「……」
しかし男から何か言葉が出てくることはない。
怪訝に思いローブの隙間から男を横目で見れば、思わずぎょっとしてしまった。
「っ……」
(な、泣いてる)
男の蒼い瞳から大粒の水がボロボロと零れ、しゃくり声まで上げている。
(なんで!? 言い方きつかった!?)
―――唖然と見上げたフェイの視線に気付いてか、男は顔面を手で覆うと涙を拭った。
「あ、ええと……大丈夫、か?」
「俺は……っ、ああ、うん……大丈夫……いや、俺は……っ!」
よく分からない男の言葉に、なぜかフェイも動揺する。
なぜ泣く。なぜ捨てられた犬のような瞳で見つめてくる。なぜ腕を広げる。
近づく男に言い知れない恐怖感を覚え、一歩後退する。
だが抵抗空しく、あっという間に距離を詰められ、フェイは男に羽交い絞め―――もとい、抱きつかれた。
ローブの下で、エルがじたばたと暴れている。
何をされているのか理解するのに数秒を要したフェイは、徐々に目を丸くすると、ぎゅっと拳に力を込める。
そのまま怒りにまかせて、全力で拳を振り上げた。
「あっ」
左頬を力の限り殴りつけられた男は、そのまま情けない恰好で床へ転がってみせる。
殴った瞬間に発した、ちょっと甘い声に、フェイは全身を逆毛立たせた。
「……この、変態野郎っ!」
口からついて出た罵りの言葉は、誰が聞いても女の声にしか聞こえないことに、フェイ自身気が付いていないだろう。
男を置き去りにし、フェイは今度こそ小屋の扉をくぐった。
変態野郎!