39 エル
「だからってそう簡単に―――喰われてたまるものか」
憎悪に満たされ刻印に蝕まれながらも、フェイは吐き捨てた。
メフィストフェレスの嗤いが止まる。
フェイは奇宝石を取り出すと、悪魔へ向けて掲げた。
「最期に足掻いてやるわ……っ!」
絶望に涙を流しながら、フェイは奇宝石へ念じる。
せめて、渾身の力をもって傷つけてやろうと願う。祈る。
―――だが、何も起こらなかった。
そよ風すら吹かず。
静寂な空気の中で、雨が落ちるだけだ。
「え―――……」
唖然としたフェイの一声の後、遅れてメフィストフェレスが耐えきれず噴き出した。
「やだ、おかしい……っ! あははは! ふふ……あはは!」
「なんで……なんで、『liaison≪結合≫―――circulation≪巡る≫ 四大の精霊、侍るは理、我に栄華の導きを』!」
精霊に対し呼びかけても、応えはない。
エルすらも驚きにフェイを見上げている。
「なんで……!? どうして、」
「わっかんないのお!?」
メフィストフェレスの愉快で仕方ないといった声が、場に亀裂を走らせた。
「あんた自身が拒絶してんのよ! この世界の真実を知って、あんたはルシファー様もこの世界も拒絶しちゃってんの!」
「……っ」
身体が震えだす。必死に奇宝石へ念じ続けるが、何も起きない。何もない。
拒絶したからなんだというのだ。
なんで応えてくれない。なんで―――。
その足掻きすら、悪魔は可笑しくてたまらないと嘲笑した。
「まだ分かんない? 貴女は特別なのよ、ええ『特別』。貴女のためにこの世界は創られた。貴女が『魂』から願ったことが反映される世界! 貴女にとって都合良く動く世界!」
ひとりは嫌だと願えば友≪エル≫ができ、
戦争を止めたいと祈れば協力者≪アレット≫と出逢い、
町を助けたいと思えば理解者≪カトリーヌ≫ができる―――。
―――ただ唯一のイレギュラーは、悪魔メフィストフェレスの存在だった。
「この世界の理を知ってしまった貴女は今、こう思ってしまってるんでしょう!? 『こんな世界、もう終わっちゃえばいい』ってッ!」
「……」
その言葉に、フェイは奇宝石を取りこぼす。
地面に落ちたそれは転がっていき、エルの前足にあたって動きを止めた。
そうか、だから『真実』を話したのか。気づいたところで、もう遅い。
何もすることができない。
メフィストフェレスの言った通りだった。
世界を阻めば阻むほど、呪いのようにこの身体が刻印に浸食されていく。
「―――……」
もうやめてほしいと思っても、異端者である彼女の声は止むことが無い。
「では仕上げといきましょうか。貴女に選ばせてあげる」
悪魔が告げた瞬間、隣にいたレオ皇子が剣を引き抜き歩き出す。
同時にリゲルの身体が動き、フェイの前に佇んだ。
ゆっくりと剣を掲げる彼らの動きを、昏い瞳が捉える。
「さあ、フェリス。どっちに殺されたい?」
「……」
「―――フェイッ!」
勢いよく振り下ろされた剣に、抗う気力は、フェイに残されていなかった。
迫る白刃を、茫然と見上げる。
しかし肉が裂かれる寸前、身体が引かれ剣が地面を抉った。
視線を落とせば、服の裾を咥え、渾身の力でフェイの身体を引きずるエルがいる。
「エ、ル……?」
「フェイ、逃げるのだ……っ、早く!」
すぐさま反応しフェイへ追撃したのはリゲルだった。
エルは空気の破裂と共に巨大化して逃げようとするが、先回りしたレオ皇子に蹴り飛ばされる。
「く、っ……あ……、!」
ぬかるんだ地面に倒れたエルは、同じように地面へ転がったフェイの下へ急いで起き上がり、駆け寄った。
フェイの服を口に咥え、背に生えた羽を小刻みに動かす。
ゆっくりと浮いた身体は、しかしリゲルの跳躍を前には逃げることができなかった。
「っ、!」
薙いだ剣先にエルの身体が裂け、再び響いた空気の破裂と共にエルの身体が、元の大きさへと戻る。
水しぶきを上げて落ちたフェイへ、ゆっくりとレオ皇子が近づいてきた。
剣を突き刺そうと持ち方を変えた皇子を、鬱蒼とした顔で見上げる。
それを少し離れた場所から視界に収めたエルは、傷口を考慮することなく駆け出した。
「フェイ―――ッ!」
―――まるで『あの日』の再現だ。
フェイは久方ぶりに見た彼の顔に、ああ、と目を細めた。
無情に伸ばされた剣先は、フェイの心臓へと向かっていく。これが、終わり。なんてあっけない。結局、なにも変わらなかった。ただ悪魔の手の平の上で、踊っていただけ。
フェイは目を瞑って受け入れようとした瞬間―――目の前に割り込んできた小柄な身体に、閉じかけていた目を見開いた。
「―――っ、が……、!」
一瞬で突き刺された身体は、レオ皇子に薙ぎ払われる。
二転、三転と地面へ転がり、その勢いを止めたエルは、立ち上がらない。
雨に打たれるまま、ぴくりとも動かない。
それがどういうことか、徐々に理解していったフェイは咄嗟に駆け出した。
レオ皇子の脇をすり抜け、エルのもとへと急ぐ。
「エル……エル、エル」
うわ言のように繰り返し、エルの身体へ震える手を伸ばした。
エルの身体は少しずつ、少しずつ分解されていく。高エネルギー体であるエルが、発現された精霊の力へ戻ろうとしているのだ。
それはつまり、『既に発動された力』として消失するということ。
「……エ、ル」
「……フェイ……いや、フェリス……貴様と、共にいるのも……ここまでだ……」
「え……」
ゆるり、と瞳が開き、力無い前足がフェイの手に触れる。
「騙して、いて……すまなかった……あやつの言ったことは、本当……だ」
「……っ、」
エルから零れる粒子が、多くなっていく。それに伴ってエルの力が抜けていくのが分かり、フェイは嫌だと首を振った。
「我は……確かに、貴様を……貴様という存在を、悪魔退治に利用しようとした……すま、ない」
「……もう、いい、もういいよ……っ、私が、この魂が元凶だったんだから……もう、……っ!」
応えないエルに、フェイは繋ぎ止めようと必死に口を動かす。
「死んだって、また生まれるんでしょ? だったらエルがやろうとしたのは、誰も不幸にならない方法じゃない……! これで、よかったんだよ……っ、よか、ったんだよ……!」
エルの身体に、フェイの涙が落ちる。
深く息を吸い込んだエルは、その泣き顔を見上げた。
「……そう、思ってたのだがなあ……」
徐々に弱まっていく呼吸に、フェイはただ首を振る。
もう何を言っていいのか分からなかった。
消えないで、いかないでと願うのに、世界はそれを叶えてくれようとはしない。
エルの半身が粒子と変わり、空へ溶けていくのを止められない。
「泣くでない……我は精霊のひとかけら……世界が続けば、また逢える」
「……でももう、この世界は……っ!」
ルシファーの、なけなしの力で保っている世界。
悪魔の介入すら阻めず、今この時だって助けてはくれない。
そんな世界などいらないと、この瞬間までフェイは嘆いていた。
メフィストフェレスの言う通りだ。
フェイは世界を拒絶している。こんな歪んだ世界を受け入れることなんてできない。
けれど、今は縋らずにいられない。
助けてほしい―――エルを消さないで、と。
「ごめん……ごめん、エル……私のせいで、私がちゃんとできなかったから……、エルいかないで……いやだ、消えないで……っ! 神よ、お願い、エルを消さないで……なんでもするから、エルを、エル……っ!」
「……愛おしい子よ……我は、世界の一部……そして世界は、お前と共に在る……」
フェイに触れていた前足すら、粒子となっていく。
とめられない、消えてしまう。
追いすがるように粒子を掴むが、何の感触も残さず、フェイの手から零れてしまった。
「―――……ああ、良い風だ」
その言葉を最期に、エルの身体は解けるように消えた。
エルを構成していた一片へ手を伸ばすが、一瞬で見えなくなってしまう。
「エ……ル……」
呼びかけに応えることはない。
風は吹いてなどいない。
何も残さず。
―――最も心許した友は、いなくなった。
「っ、あああああああぁぁぁぁぁぁあああ―――ッ!」
フェイの悲痛な叫びが、場に轟く。
伏して泣き崩れるフェイの身体が刻印に浸食され、絶叫が空しく響き渡る。
絶望が、ただその身に満ちていく。
―――だがその悲鳴は、すぐに途切れた。
「あ、……」
自身が斬られた、と把握したのは、鋭い痛みに倒れ、雨水と混じる赤い血を見たからだ。
顔を上げれば、リゲルがいる。
冷めた瞳で見下ろし、とどめを刺そうとするリゲルが。
ああ、とフェイは涙を零し―――背中に走る痛みを抱いたまま、瞳を瞑った。




