2 悪魔メフィストフェレス
フェリスは握りしめていた奇宝石へ、力を込める。
発動させる寸前―――それを目視したメフィストの魔力により、奇宝石は粉々に砕け散った。
「っ、」
美しい宝石の輝きを残したまま、塵と化す奇宝石にフェリスの顔が歪む。
「あはは……っ! 嗤っちゃう、もうやだ、嗤っちゃう! 神を殺すって、すごい発想だわ! ルシファー様から命を与えられ、ルシファー様の力を使って、どう殺すっていうのよ!」
「不可能なことではない」
厳かな声が、メシアの嗤いを消し去る。
答えたのはエルだった。
「この力は、お前達の最も忌み嫌うものだろう? なあ、悪魔メフィストフェレスよ」
「……お前の主が、誰だか分かってるの? ルシファー様を裏切るつもり……?」
底冷えする声は、最早人間のそれではない。
脳髄にまで無遠慮に侵入してくるような低い音は、まさしく悪魔という証明に他ならない。
しかし、エルは怯えることもなく勇敢に咆える。
「我らはこの世界の『善』! 悪魔とは相容れぬ存在よ―――っ!」
「この、駄犬風情が……!」
直後、メシアの眼光が鋭く燿りを放つ。
展開する魔術はひとつ、ふたつ、みっつ……五つに渡り、どれもが強大たる禍々しさを持って牙を剥こうとしている。
フェリスは懐から奇宝石を二つ取り出すと、内ひとつに、力を引き出すがために詠唱を込めはじめた。
「―――accompli≪完了≫、
一に元素、循環し廻る空気の源。
司りし精霊の賜物、恩寵を仰ぎ祈りを捧ぐ」
「行けッ!」
迫る牙を前に高密度の風が衝突し、爆ぜる。
同時に五つ。
すべての影を相殺したフェリスは、メシアが新たに影を作りだしたのを確認して、地を這うように駆け出した。
「liaison≪結合≫―――circulation≪巡る≫、
素は偉大なる息吹、統べる万物の根源。
万難を排し、求めに応えを」
フェリスの前後から、影が速度を上げて喰らいつこうとする。
再び懐から奇宝石を取り出し念じれば、途端、突風が巻き起こり影を飲み込んで粉砕する。
「次から次へと……」
メシアの魔力に、貯蔵は無い。
限られた奇宝石が無くなれば、それはフェリスの敗北を意味する。
残るは2つ。それが尽きるまでに、片を付けなければならない。
奇宝石と繋がった伝導回路が、大気の流れを汲み力へと変換していく。
フェリスは力を溜めこんだ奇宝石を宙へ放り投げると、声高に叫んだ。
「四大の精霊、侍るは理、我に栄華の導きを―――!」
奇宝石を核として、風が集束していく。
圧縮される風の唸りに、メフィストは焦燥の顔色を浮かべ目を見開いた。
「な……っ!」
―――そして高密度に圧縮された力が、メフィスト目掛けて放たれた。
衝撃に耐えきれず、床や壁に亀裂が走り瓦礫を撒き散らす。
渾身の力で放った力は室内を半壊させ、メフィストのいた場所に大穴を開けた。それだけでは収まらず、大穴から見える彼方の別塔をも砕いてしまっている。
突風が静まった後、フェリスは痺れる腕を摩りながら顔を上げた。
「……」
そこには。
「―――これほどだなんてね、貴女を侮ってたわ」
影に覆われた殻が、あった。
「けれど『ファウストの魔神』と呼ばれたあたしが、膝をつくとでも……?」
卵が割れるように、殻に無数のヒビが入る。
ピシッ、ピシッ、と砕けていく音は、まるで終焉を予期する時計の音のようにも聞こえた。
「……っ、」
やはり、簡単には倒れないか―――。
ならばもう一発見舞ってやろうと、奇宝石へ手を伸ばしたときだ。
唐突に、恐怖が身体中を這いずりまわった。
ひび割れた殻の隙間から見えたメフィストの瞳は、この世のものとは思えない形を見せ、そこにははっきりとした憤りをみせる。
蛇のような瞳。異臭のする身体。捻じ曲がった骨格。
これこそが、悪魔メフィストフェレスが持つ本来の姿なのだろう。
異様な姿に、ただ絶句してしまう。
「何度やったって無駄よ。あたしを殺せるのはルシファー様ただ一人だけ」
「人間の皮を被るために、魔力を隠していたか……っ!」
エルの悔しげな声が、フェリスの次の手を断念させる。
殻を破り、奇怪な形状をした三本の手が、フェリスへと掲げられた。
集う魔力の源に、エルが焦りの表情を浮かべる。
「安心して。『まだ』殺してあげない」
「っ、……」
「たっぷり絶望と恐怖を味わわせて、たっぷり悪意を染み込ませてあげる。そういう魂って、たまらなく美味しいの」
「逃げろフェリス!」
草食動物にとって、肉食動物に睨まれれば逃げることを最優先する。
捕食対象となったものは、狩る側に対して圧倒的な力の差と、恐怖を覚える。
それが、いわば人間と悪魔の関係であるといえよう。
にたあ、と蛇のような瞳が孤を描く。
その笑いすら不気味でしかなく、フェリスは喉をひくつかせ、駆け出した。
「くそ……っ!」
奇宝石に念じて風に乗る。
だが窓から飛び降りる寸前―――振り向いたフェリスは悪魔の全身を目に入れた。
それは、この世で最も醜い化物としか思えなかった。