35 皇国の事情
近場にあった大木の影へ、オリヴィエの身体を横たわせる。
上気した胸の甲冑を外せば、その下にあった衣服がべっとりと血に濡れていることに、思わずフェイは眉を寄せた。
「……っ、」
短刀を手に持ち、頑丈な布で出来た衣服と巻かれた包帯を一気に切り裂く。露わとなった胸囲には、無数の鞭痕と、鋭利な何かで抉られたような痕が、白くきめ細やかな肌に残されていた。
「ひどい……なによこれ」
「フェイ、魔力の痕跡を感じる」
「魔力? まさか、」
そのとき、オリヴィエが苦しそうにうめき声を発する。
「……もう、お許し……ください、いやだ、もう……救世主様……ッ!」
苦痛に歪むオリヴィエの顔を見つめ、フェイは絶句した。
救世主様、許して、救世主様、と繰り返し呟くオリヴィエは、以前出会ったときに感じた凛々しさなど影も形もない。そこにはただ、凶悪たる力にひれ伏すか弱い少女がいるだけだ。
まるで、かつての自分のようだとフェイは思った。
「っ……」
脳裏によぎるあの日の情景を振り払うように、頭を左右に振って、荷物から薬と包帯を取り出す。
そしてリゲルが以前、自分に手当をした際に使用した強力な睡眠薬を手に取ると、オリヴィエの口元からそっと流し込んだ。抵抗もせずすんなりと喉を動かしたオリヴィエは、徐々に苦痛の表情を緩め、すうっと呼気を安定させる。
フェイは彼女の血に濡れた衣服を脱がせ、柔らかな身体に血止めの薬を塗りつけていった。
***
手当てを行っている大木から少し離れ、呆けたように遠くを見つめるリゲル、そんな彼の背を睨むエリック、そして腕組みしたまま何かを思案するアレットの三人の間には、居心地の悪い空気が漂っていた。
誰かが口を開く気配もない。
ただ沈黙し、オリヴィエの手当てが終わるのをひたすらに待っている。
不安に顔を曇らせるエリックは、狼狽する気持ちを堪え必死に祈っていた。どうか無事であるように、と。正気に戻ってくれと。だがそんな気持ちを汲み取って地面に捨てるような、心無いリゲルの一言がエリックの我慢を打ち壊す。
「死ぬかもなー、オリヴィエ」
その言葉にエリックは目の色を変え、勢いのままにリゲルの胸倉を掴み上げた。
「なにを……っ、! 昔からの馴染みだろ!? なんでそんな冷静なんだよ! 僕は、僕は……っ」
「落ち着けよ、エリック。『らしくない』ぞ」
「っ、!」
腕を振り払われたエリックは、怒りに滾った眼を細め、泣きそうに歪める。歯を食いしばる姿は、絶望しか抱いていないように見えた。
リゲルは肩をすくめると、どこへともなく歩き出す。立ち去る彼を引き留める者など誰も居らず、リゲルはその場を悠然と立ち去った。
「……皇国の騎士。奴が変わった、と言っていたな。どういう意味だ」
「―――」
顔を俯かせていたエリックは、それまで黙っていたアレットの言葉に視線を向ける。
その瞳には猜疑心、不信感が隠すことなく現れており、似たような目をアレットも返した。
「ずっとおかしいと思っていた。自然豊かな優しきイヴァール皇国……そう言われていた国の、突然の変貌に」
「……」
「使者の首を刎ねた皇帝の虚ろな目、ひどく不安定に揺れる情勢、刻印という不可思議なもの、そしてあの女の狂い様……この国に一体、なにが起きている」
「……」
「俺が帝国の騎士だから話せないか」
鋭い口調で問うたアレットに、「いや……」と小さく首を振ると、エリックは躊躇いがちに口を開いた。
「……君が二人となぜ一緒にいるのか……そもそも、正気なのかも分からない」
「なんだと?」
突然の罵倒とも取れる言葉に、眉間の皺を深める。
その心情を察してか、アレットは慌てて言葉を続けた。
「気が狂っているのでは……という意味ではなく、君が『侵されている』のではと。……ああでも、フェリス殿はまだ正気の筈……それとも、もう……」
「意味が理解できないんだが」
ぶつぶつと小さく呟き出した彼へ、アレットは気味悪く思いながらも話を続けようとする。
やがて結論でも導き出したのか、決心でもついたのか、真剣な顔で向き合ったエリックは厳かにひとつの質問をした。
「―――君は、我が国の救世主を心から『神の御使い』だと崇めるか?」
その問いに、アレットは唖然と目を瞬かせる。
突然何を言い出すのだと思考が一瞬停止するも、まっすぐに見上げてくる彼の真摯な瞳に、アレットは困ったように視線を彷徨わせ―――そして溜息交じりに応えた。
「……俺の信仰神は、お前にとって聞き慣れぬ神だ。きっと言っても分からんだろうが……そうだな、そちらの国にいる救世主がまこと神の御使いであるならば、心から崇めていただろう。だが、」
一度フェイへ視線をやり、意を決して続きを口にする。
「……どうにも、その救世主は受け入れ難い」
先の町で起きた一件。
救世主たる神の恩寵にあるはずの国内で起きた、心無い『常識』の数々。刻印の者などいない帝国からすれば、それは異様な光景にしか見えなかった。そして、それを享受している『救世主』とやらも。
そうだ。
両国を案じ、心を砕く者こそが『救世主』と名乗るに相応しい。―――たとえ、彼女が違う者であったとしても。
理解はしている。フェイは召喚された救世主ではない。だがしかし、この荒れた時代をなんとかしようと立ち上がる姿が、希望そのものに見えたのだ。
皇国、帝国関係なく照らそうとする―――その心こそが救世主と呼ぶに値するものだと、アレットはフェイに向けていた目を細める。
「それを聞いて安心したよ」
さきほどの緊迫した声とは打って変わって、安堵した息を吐いたエリックは穏やかな表情をみせる。
そして、救世主に『憑りつかれている』のか否か、見極めるために問うたのだと彼は言った。
「……どういうことだ?」
「この国に召喚された『救世主』は、どうやら人を操る能力があるみたいだ。それが分かったのは、皇帝と皇子の変わりようと、救世主の意のままとなっている城内……決定打は、フェリス=ブランシャールの追放だった」




