31 最強の精霊術師
追手を振り切り、鐘楼の鐘がある部分へ舞い降りる。
「っと、ここまで辿り着くのに奇宝石一個使い切っちゃったな」
風が霧散し、翠の髪がたなびく。フェイは床にわずか散らばった白い粉を見て、確信を抱いた。
大きな鐘の中を覗けば、そこには小さな穴の開いた袋が張り付けられ、穴から少量の粉末が零れ落ちている。
「なんだこれは?」
「風の向きを考慮して、少しずつ町に行き渡るように細工したんだと思う。よいせっと」
鐘の内側へと身体を潜り込ませ、袋を引き剥がす。
重量のあるそれは、まるで米袋のようだ。床へ落ちたそれを引き摺り、腰から短刀を取り出して布を切り裂く。
途端、ふわりと香ってきた花の匂いに、フェイは間違いないと確信を抱いた。
「うん、あの香油の匂いがする」
立ち上がったフェイは、周囲を見渡す。
四方は隔てるものもなく、解放された空間になっている。なにせ、町で一番高い鐘楼だ。
「さて―――やりますか」
意気揚々とした声を上げながらエルを見下ろしたフェイは、奇宝石を取り出した。
―――『最強の精霊術師』。その称号を持つフェイの実力を知る者はいない。
なぜなら試す場がないのだ。
得意とする四大精霊術は、『風』。それを操ることは即ち、世界を循環する大気を意のままにできるということ。
風は気候を変化させ、命を運び、時に大きな渦となって人々に牙を向ける。
世界を巡る素は、どのような場所であろうと発生する。火口でも、大洋でも、荒廃した大地にも。
すべてを知り、万物を識る―――。
素の精霊に加護を受け、大いなる息吹の力を引き出すフェイは、この世界の中で未だ力を出し切ったことがない。
『最強』と謳われるのは、それが理由だった。
すべての風を操れば、大気を我が物とすれば、世界がどうなるのか誰も想像できないからだ。
フェイにはその力がある。
その可能性がある。
故に、人々は畏怖を以て彼女をこう呼ぶのだ。
『最強の精霊術師』―――だと。
「―――accompli≪完了≫」
奇宝石を右手に握り締め、伝導回路を繋げる。
まるで自身に融合したかのような感覚。
宝石に全神経を集中させ、フェイは流暢に唱える。
「一に元素、循環し廻る空気の源
司りし精霊の賜物、恩寵を仰ぎ祈りを捧ぐ」
―――風よ。
心の内で唱えれば、呼応するかのようにフェイの足もとから小さな風が巻き起こる。
この町全域に行き渡る風を、運ぶこと。それを祈り、願う。
「liaison≪結合≫―――circulation≪巡る≫」
自身の伝導回路から、奇宝石へと流れ、逆流し、循環する。
一体となった、完全な伝導回路を精霊の力が巡っていく。
やがて集束する力に合わせ、足元の風がうねりを上げてフェイの身体を包み込む。
「素は偉大なる息吹、統べる万物の根源。
万難を排し、求めに応えを」
カトリーヌの父が、救いを求めて作成した薬が、粉塵となってフェイを中心に散乱してゆく。
一粒も逃さない。欠片だって手放さない。
風の動きによって粉末の存在をしかと把握したフェイは、それらへ意識を集中させる。
「四大の精霊、侍るは理、我に栄華の導きを―――!」
力を解放した瞬間。
フェイを中心に荒れ狂う風が円を描き、瞬時に彼方まで広がった。
風へ意識を乗せるフェイは、粉末状となったそれを零さぬよう、すこしずつ風の束縛を解いてゆく。
広域に分布し、確実に町の外れまで運んだことを確認してから―――フェイは更に奇宝石へ力を込めた。
「まだ……っ!」
―――薬を空気と混じらせただけでは、解決にはならない。
フェイの支配下にある風は舞い戻り、高速で町を駆け抜け、感知した花の香りを漏らすことなく捕えていく。
彼方まで吹き荒れる風に見えぬものなどない。この町全ての香油を見つけ―――そして破壊する。
握る奇宝石が耐えかね、ヒビがひとつ、ふたつと入った。しかしそれでも、フェイは力を緩めない。
点在する花の香りを捕え、鋭い風の刃で容器を壊す。
簡単なことに見えるが、その実、霧散する意識を繋ぎ止めるのに相当な精神力を要していた。
広大な円が徐々に集束していき、フェイの下へと戻ってくる。
―――あと少し。ほんの僅か。
「っ……」
汗がこめかみを流れ、床へ落ちていく。
奇宝石の耐久が限界に近づいてきた。亀裂は深くなり、あとわずか力を注げば砕けてしまうだろう。そうすれば、そこで力は途絶えてしまう。まだだ。まだ、すべて壊しきれていない。
円が狭まって、フェイへ近づいてくる。
家をすり抜け、香油を壊し、驚く人や唖然とする人を掠めて―――主の下へと、戻ってくる。
東西南北。四方八方。及ばぬ場所はない。風が威力を弱め、フェイを一周取り囲み自然のそれへと還る。
瞬間、奇宝石は宙に砕け粉々と化した。
これで、大丈夫だ。
「……っ、はー! 疲れた!」
ようやく息を吐いたフェイは、支えきれなくなった足が崩れ床へ倒れ込む。
冷たい石の感触が、火照った体には気持ちいい。疲労感満載の身体は、当分動く事すら叶わないだろう。
だがこれでこの町は一時救済できたはずだ。
カトリーヌの父の悲願。死しても尚守りたかった町。夜が明けはじめた町並みは、その気持ちが分かるほどにとても美しかった。




