30 勝者
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駆けるアレットの軌跡を辿るように、鋭利な針が地面を穿っていく。
立ち止まれば、その瞬間に身体に穴があく。アレットは水膜の中をひたすらに逃げ回っていた。
「どうしたのです? ちっとも反撃してはこないじゃないですか! これではつまらない。ええ、つまらなさすぎます」
「……」
飛び交う水の針を避け、すぐに地面から離れる。アレットの居た場所に無数に突き刺す刃達は、的確に、迅速にアレットの動きを封じてきている。
しかし更にその先を読むアレットに、なかなか攻撃が当たらない。かと言って反撃する素振りもない。そのことにシェルは苛立ち始めていた。
一体なにをするつもりか、何を考えているのかと―――。
「帝国の騎士とは、なんたる腑抜けでしょう。ああ、だから『あの時』貴方はお仲間を置いて逃げ出したのですね」
「―――なんだと」
シェルの煽りに、アレットが反応を示す。
ある種洗練されていた回避動作に、濁りが生じる。その隙を見逃すほど、シェルは迂闊ではない。
「逃げ出したではないですかぁ! 首を刎ねられた使者と、もう一人の護衛を置いて、貴方は命惜しさに逃げ出したではないですかぁ!」
「違うッ!」
水膜の上を滑りながら、アレットの足が止まる。
すかさず彼目掛けて放った水泡の群れを、アレットは魔力の塊である影を用いて防ぐ。弾けた水泡から、雨のように水滴が落ちていく中、アレットの殺気に満ちた眼光がシェルをまっすぐに捉えていた。
「違う……っ! 俺は、俺は託されたのだ!」
「なにを託されたっていうんです? 貴方を逃がそうとしたもう一人は、死に際こう言ってましたよ。『この命は帝国の為』と。貴方もそれに順じたらどうです! 見習ってあの場で剣を抜けば、誉れ高い帝国の騎士として首を刎ねて差し上げたのに!」
シェルの物言いに、アレットの紅い瞳が見開かれる。
高笑いする彼の姿を鮮明に刻み、言葉を脳内で復唱する。
「まさか……」
「ええ、そのまさかです! 私が殺して差し上げたんです! だってあの人帝国、帝国と五月蠅かったものですから!」
「……ッ、貴様あああぁぁぁぁ!」
アレットのこめかみに筋が浮かび、呼応するかのように剣を染めていた影が膨大な魔力を放つ。
瞳孔開いたアレットは勢いよく水膜を蹴ると、一気にシェルとの間合いを詰めた。
渾身の一撃を振り被る。
「お馬鹿さんですねえッ!」
だが見計らっていたようにシェルは手を翳すと、アレットの目前に水泡を生み出した。避け切れずに腕で顔を防ぐも、直後、水泡がけたたましい音を立て破裂する。
「っ、!」
衝撃で吹き飛んだアレットの身体が水膜の上を滑り、近場の煉瓦で出来た壁へ激突する。
背から伝わる痛みに、アレットの口から朱いものが迸った。
咳込むアレットへ、シェルがゆっくりと近づいていく。気配を察して起き上がろうとしたアレットだったが、感覚の無かった水膜が凝り固まり、触れている箇所を拘束していることに気付いた。
「な……」
「貴方はもう動けません。この術は、元は相手を拘束するためのものなのですよ」
にんまりと嗤ったシェルは、剣先をゆっくり空へと向ける。
見上げるアレットの目に、今から真紅に染まるだろう刀身が映った。
「最期になにか言いたいことは?」
「―――……」
問われ、アレットの唇が小さく動く。
「彼女は……どうなる」
「彼女? ああ、刻印の者ですか。殺されるに決まっているでしょう、なにを分かりきったことを」
当然だとばかりに彼女の結末を平然と言い放ったシェルへ、眉を寄せ見上げた。
信じられないものを見るような目に、シェルの顔が訝しいものへと変わる。
「俺の国に、刻印の者はいない……」
「そうですか」
「これが、この国の普通のことなのか? あんな一人の女を……集団で追いかけ回すことが、まかり通る国だと? おかしいと思わないのか?」
「刻印の者は見つけ次第処罰の対象となる。それは常識なんですよ」
常識、と口にはせず反復したアレットは、いまだ脳裏に残るフェイの悲痛な表情を思い浮かべた。
大多数から追われ、罪らしい罪を犯してもいないのに悪だと決めつけられる。それがこの国の、常識だと。
彼女は言った。
『戦争を止めたい』のだと。救世主だの関係なく、身の危険を顧みないその純粋な動機に、単純に心が動かされた。
もし救世主が別にいるとするならば、なぜ彼女に罪人の証が浮かび上がるのだ。
戦争を止めようと、両国の和平を取り持とうと動く彼女に、なぜ。
本物がいるというのなら、その救世主は一体なにをしているのだ。
城から動かずに、虚ろな瞳で戦ばかりを支持する王の傍にいるというのなら―――よほど、彼女の方が救世主に相応しい。
「そんな常識など……まかり通ってなるものか」
―――そうだ。
真に国を案じ、人の身を案じる彼女こそが相応しい。その答えに間違いはない。
己が信じ続けてきた神は人の可能性を、人の救済を願って止まない存在だ。
世界中どこを探しても二冊とない聖書。語られることのない絶対神。ライナス大帝が信仰する万物の創造主―――。
かの思想は誇り高く、全ての人間に対し慈愛に満ちている。
なればこそ、このような状況下で嘆く神こそが真の神であるに違いない。神は決して人を貶めない。神は決して人を見捨てない。
「そんな常識など、許されてなるものかッ!」
「……っ!?」
ぶわり、とシェルの身体が震える。
今まで経験したことも無い波動を感じるのだ。事実、アレットの身体から―――否、胸元のペンダントから莫大な魔力が放出されている。
「なにが……っ!?」
動揺するシェルは、足元の変化に息を止めた。
自身の展開した水膜に闇が浸食していく。それはどこまでも深く、どこまでも飲み込もうとするかのように際限なく広がっていくのだ。
「なんだ、なんだ!? なにが……っ!?」
その闇はやがてシェルの足元から這いずり上がり、その身体を飲み込もうと触手を伸ばしている。
剣で払おうとしても、術を展開しようとしても闇は剥がれない。シェルは慄き、必死に闇から逃れようと剣を振り回す。
「俺の魔力は『憑依』。完全に憑りつけば、剥がすことは不可能だ」
「ひょう……!? なんですかそれは! 聞いたこともない!」
シェルは焦りを露わに問いをぶつける。
それもその筈。アレットの持つ力は稀少ゆえに、扱う者は数えるほどしかいない。戦うことにのみ特化された自身の力を、アレットは時に忌み嫌い、時に心強く思っていた。
完全に憑依するのに時間を要するも、一度憑りつけばいかなる術を使ったとしても引き剥がすことはできない。
また使えるのは一度にひとつまで。
制約ばかりの力ではあるが―――シェルにとって、アレットは相性が悪かったとしか言いようがないだろう。
水膜を張り、それを基盤として力を展開するシェルにとってすれば、その基盤を乗っ取られれば無力に等しい。
「―――貴様の術、貴様自身で受けるがいい」
アレットの後方から、黒に塗りつぶされた水泡がひとつ、ふたつと浮かび上がる。
避けたくとも拘束する水が邪魔で動けない。シェルは目を見張り、アレットの冷徹な表情と、ゆっくり形状を変えこちらへ狙いを定める鋭利な針を交互に見つめることしかできなかった。
***
―――黒の炎が空気中に霧散し、煙が辺りを覆った。
そこに、リゲルの気配はない。ザドーはその場を動かず、じっと煙が晴れるのを待つ。手ごたえはあった。確かにリゲルを飲み込んだ。紅蓮の炎を飲み込み、黒炎が勝ったのだ。
「ひ、ひはは……」
歓喜に打ち震える。
ただただ、勝利の余韻を噛み締める。
叫び出したいほどの狂喜に、されどザドーはリゲルの地に伏せた姿を拝んでからだと心に決め、その時を待った。
―――だが。
「―――町が燃えたらどうしてくれるんだよ。フェイに嫌われるだろうが」
そこには、紅く輝く剣を構えた無傷のリゲルが佇んでいた。
ザドーの含み笑いが消え失せる。
そして同時に気付いてしまった。リゲルの構える剣の高密度の力に。それが一気に放出され、大きな怪物を生み出す瞬間を目の当たりにする。
輝く紅蓮の炎。
それは武勇に秀でた十二勇将の中でも、恐れる者が多いと言われる破滅の象徴。単純なことだ。純粋な炎はただ周囲を焼き尽くすのみ。破壊に特化した精霊。生み出し、壊すためにある力を畏れぬ者など居るものか。
まるで炎が実体化したかのようなリゲルは、破壊行為を厭わない。焼き尽くすことこそが正しい在り方であり、消滅させることこそが真の勝利とする。
そんなリゲルを、皇帝は『化け物』と評した―――そしてザドーは今、その『化け物』が形を成している瞬間に立ち会っている。
「そうだよ、お前以外燃えなければいいんだ。もっと早く気づいてれば」
蠢く炎はザドーを見下ろす。矮小な存在だと、取るに足らない存在だと言わんばかりに。
「手こずらずに済んだのに」
―――かつて肩を並べた仲間であったとしても、剣を交えた好敵手だったとしても、その冷徹な瞳に一切の迷いを浮かばせずに力を解放する。
ザドーは堪らず高揚した。そうだ、絶対の支配者。破壊の使者。それこそが自身に勝って当然たる者だ。正しく最強。まごうことなき強者。
「あは、ははああああぁぁっぁあああ!」
凌駕する炎を前にして、ザドーはようやく積年の戦いに終止符がついたと喜びの声を上げる。
それはまるで断末魔のように辺りに響いた。




