27 父親の遺した手記
だがその後、カトリーヌの別の意図にリゲルは勘付いてしまったそうだ。
彼に真実を話して嫌われてしまうことを恐れたカトリーヌは、つい逃げ出してしまったのだと、顔を曇らせながら言い足した。
「それに……気の所為ならいいのですけど、彼……」
言いにくそうに言葉を濁すカトリーヌは、なかなかその先を続けようとはしない。
焦れたフェイが促そうとしたとき―――不意に、店の外で何かが爆発したような音が聞こえてきた。
地が揺れ、棚から薬瓶が次々と倒れていく。
「きゃあ!」
「なに!?」
咄嗟にエルを抱えたフェイは、近場の窓からそっと外の様子を覗き見る。
幸いにして人影はない。いないが、想像を絶する光景が広がっていた。
―――大通りの道は深く地面が抉れ、路上に出ていた店が炎上していたのだ。まるで『災害』が通った爪痕のような、凄惨な状況に、フェイは息を呑んだ。
「……なに、これ……」
「あの、フェイさん? 一体何が……」
カトリーヌの方を向いたフェイは、ふと、鼻を掠めた香りに思考が止まった。
どこかでこの香りを嗅いだことがある。
周囲を見渡せば瓶が散乱し、中の薬が地面に零れてしまっていた。どこかから香る異臭は、密度を濃くしてフェイの思考を遮ってくる。
「……っ、カトリーヌ。この……匂いは……?」
「今流行りの『香油』ですわ。倒れた拍子に、中身が飛び散ってしまったのかも……」
「香油……?」
まるで酒を飲んだ後のような、気持ち悪さ、倦怠感が身体を襲う。『気持ち悪い』? 違う、身体になじんでいないからそう思うだけだ。嗅いだこともないような香り。けれど一度香りを知れば、とてつもなく良い香りと思えてくる。
徐々に体の奥底が熱くなり、感情が溢れてくるようだ。
今まで遭遇したこともない香りと身体の変化に、彼女が話していた『父の研究』を思い出した。まさか―――これが。
「カトリーヌ、貴女のお父さんは……一体何の発見を?」
くらくらとする頭を抑えながら、フェイは問いをなげかける。
「わたくし……なにも教えてもらえてませんの。父の研究になにかありますの?」
「……っ、資料は、」
問おうとして、途中で言葉を切る。
さきほどの話を思い起こせば、研究資料は町に訪れた騎士とやらが持っていってしまったと言っていた。
手詰まりだ。フェイが下唇を噛み締めたときだった。
「資料はありませんが、父の手記ならば……」
カトリーヌの言葉に、顔を上げる。
言わずとも理解したのか、慌てて立ち上がったカトリーヌは店の奥から分厚い手帳を持ってきた。受け取った手にずっしりとした重量を感じるつつ、すぐさま開いたフェイは、一頁目を見た瞬間に「えっ」と思わず声に出した。
「ごめんなさい、別の言語で書かれてあって……なにが書かれているのかすら、わたくしには分かりませんの」
カトリーヌの言う通り、そこにはページを埋め尽くさんばかりに文字が書かれている。だがそれら全て、見慣れた母国語ではなく―――別の言語によって記されていた。その上、一部の文字を絵のようなものに見立てて、暗号化までしている。
フェイの膝の上に乗るエルが、手記を覗き込んで軽く息を吐いた。
「……これでは読めたものではないな。よっぽど隠したい何かを記したのだろうが、読めぬのであれば記す意味もない」
「しゃ、しゃべ……っ!?」
エルの話す姿に、カトリーヌは今さらながらにして仰天している。しかしそんな姿を横目に、フェイは怪我と花の香りで朦朧とする頭を振り、深く息を吐き出した。
「カトリーヌ、紙とペンを」
「え? あ―――は、はい」
再び、言われた通りに店の奥から一枚の用紙とインク、ペンの一式を持ってきたカトリーヌは、狼狽しながらもフェイへと渡す。
床へそれらを広げたフェイは、その勢いのままに用紙へなにやら文字を書き写しはじめた。
「……『サダム』……の実……粉末状に……」
「フェイさん―――?」
手記の言語は、密文書でしか取り扱われない言語だ。これだけならば読めないことはない。なにせ、皇子の職務補佐で幾度もこの言語と対峙してきたのだから。
しかし暗号がやっかいだ。
各文字を別の文字として組み換え、それらが脈絡もなく文体に収まっている。一見すればただの『落書き』としか思わないだろう。
資料を持っていったという騎士が、この手記を持っていかなかったのも納得できる。
―――だがそれは、失敗だった。いいや、浅はかだとでもいうべきか。
フェイは……いや、フェリス=ブランシャールという人物は、侯爵令嬢として蝶よ花よと寵愛されてきただけの女ではない。
皇子を、如いては国を支えるための一本の柱となるべく、幼い頃から鍛えられてきたのだ。無論、それについていくだけの器量がフェリスにはあった。
その能力の高さ故に、早くから皇子の傍で『補佐』という名目で内政に携わってきたのだ。
もちろん、そこには公に出来ぬ文書の確認も含まれている。フェリスはそういった文書を解析し、新たに暗号化した文書を作成していた。
つまりは、『誰かに読んでもらいたい』という目的が根底にある手記の暗号など―――フェイにとって、法則を読み取ってしまえば解読など容易いということだ。
解読すれば分かる。この手記には―――彼女の父が成してきたすべてが記されていることに。
「あの……フェイさん、この手記が……なにか?」
次々と読み取れる言語として紙に抜粋していくフェイへ、カトリーヌはおずおずと問いを投げる。
フェイは目を走らせながら、ページをめくり、その問いに答えた。
「貴女のお父さんが発見した、『危険』と言われている研究……それに、この町の人達の狂暴性。時期から察するに、たぶんこの『花の香り』が原因なんだと思うの」
「で、でもわたくしは別になんとも……」
「そう、『カトリーヌだけ』はなんともない。耐性があるのか、それとも別のなにかがあるのか……それを探してるんだけど……」
「……もしフェイさんのおっしゃっている通りなのだとすれば、やはり父は……刻印のお告げ通り、悪いことをしてしまったのでしょうか……」
眉を下げたカトリーヌの言葉に、フェイの淀みなく進んでいた手が、不意に止まる。
だがそれは、父の悪事を暴く罪悪感からなどでは、決してない。そんなこと、手記を読んでいたフェイは既に理解していることだ。彼女の父親は、悪魔の『囁き』に屈したのではない。
「―――これだ」
ようやく求めていた記述を発見したのだろうか。そう思いカトリーヌは手記を覗き込むけれど、やはり書いてあることが全く読み取れない。思わずエルと目を合わせ首を傾げる彼女をおいて、フェイはおもむろに立ち上がった。
「全部わかった。解読できた」
「うそ……本当に? あの奇怪な文面を?」
唖然とするカトリーヌへ目を向けたフェイは、笑みを浮かべ告げた。
「―――誇りなさい、カトリーヌ。貴女のお父さんはたった一人で立ち上がった、町の英雄よ」




