9 片鱗
「な……」
驚愕の声を上げたのは、男の腹目掛けて蹴り上げたフェイだった。自身の持つ素早さと、ブーツの底に仕込んだ鉄の重みで、大抵の境地は切り抜けてきた。だというのに―――。
腹へ到達するより先に、男は両手でフェイの足を掴んだのだ。
慌てて引けば、なんなく手は離れる。それに屈辱を覚え、再び踏ん張りを効かせながら蹴りつけようとするも、結果は同じだった。
「っ……!」
「あれ? もういいの?」
男の挑発に、思わず感情が先に出てしまう。
掴まれたままの左足を支えに飛び上がり、男の顔面めがけて踵を振り下ろした。だがそれすらも掴まれ、両足を捻り、急いで男から距離を取る。
睨み上げれば、男は余裕の笑みで近づいてきた。
その笑みに恐ろしさを抱いたフェイは、今度は男と偽ることなく声を荒げる。
「来ないで! なに、なんなの!? なんで私につきまとうのよ!」
だが意外にも、男はフェイの口調に違和感を抱いていない様子だ。
最初っから女と分かっていたのだろう。そう思うと、更に屈辱は増すばかりだった。
「なんでって……」
フェイの叩きつけるような問いにきょとんとする男は、至極当たり前だと言わんばかりに、高らかに言い放った。
「君と俺との出逢いが、運命だったからッ!」
「エルっ! エル出てきて、いますぐに!」
必死に助力を叫んだフェイの言葉に応えるように、ベッドがもぞもぞと動き出す。
ぴょこん、と飛び出たエルだったが、何かをする様子はない。ただ状況を見守っているだけだ。
『人間相手なんぞに我が関与するか。大体貴様さっき我にしたことを思い出してみろ』みたいな目を送ってくる。傍観すると徹した姿勢に、心の中で泣き叫び、助けを請うが届かない。
そうしている内に男の顔はフェイの目前にまで迫る。滲み寄られる距離があまりに近いことに、顔が青ざめていく。
息遣いの荒さに全身が鳥肌立った。
「フェイ……俺は、ずっと君に、」
「やめて、やめてそれ以上近づかないで……っ!」
情けない声を出すフェイは、両肩を掴まれ身体を固定される。一体何をされるのか―――いや、なんとなく想像はできるが受け入れ難い。考えたくない。しかし、徐々に狭まる顔の距離と、男の息遣いに、フェイの頭の中はかつてないほどに混乱を極めた。
だが、唐突に男の動きが止まる。
ぎゅっと目を瞑っていたフェイは、訪れた静寂に怪訝に思いながら、恐る恐る目を開けた。
男は自身の右手を広げ、じっと何かを凝視している。強張った顔から、なにかに焦る顔へと移り変わり、フェイをまじまじと見つめてくる。
「……怪我を」
「え?」
「怪我を、してるのか?」
呆然と、男の言葉を心の中で復唱する。とりあえず頷いた。
見れば、彼の手にはフェイの血がついている。いや、怪我をしているからなんだと言うのか。関係ない。そう口に出そうとした時だった。
「え、ちょっ!? なに、なに!?」
がばり、と突然に担ぎ上げられ、近くのベッドへ下ろされる。そして乱雑に巻いた肩口の包帯を見ると、男は険しい顔でフェイを怒鳴った。
「阿呆っ! こんな適当な処置で、痕が残ったらどうするんだ!」
「……」
男の叱咤に、目を丸くして身を固くする。
なぜに突然怒ったのか、その理由に至るまでまったく理解できなかったのだ。
「ああ……俺のものに、なんてことを……」
―――なにも聞こえない。
血だらけの包帯を解き、男は近場にあった薬と、自分の荷物の中から液体薬を取り出す。
それを見てフェイははっと我に返り、男の手を払い除けた。
「勝手に身体に触らないで!」
「治療をするだけだ」
子供をあやすような口調で諭しながら、男はフェイの左腕を握る。左腕の刻印が、男の目に晒されている。
「っ、!」
腕を払い除け、慌ててベッドから降り立つ。
しかしそれより早く男の腕が伸び、再びフェイの左腕に触れた。
「やめてッ! 腕に触らないでッ!」
刻印が見られている。刻印を刻まれた腕が触れられている。
それは、フェイが最も耐え難い苦痛だった。
―――逃げなければ。
次に思ったのは、男の視界から消えることだ。そうでなければ、油断した隙に捕らわれてしまうかもしれない。殺されるかもしれない。あの液体だって、本当は毒かもしれない。そうだ、そうに違いない。
『他人』がフェイに優しく接することはない。同じ人として扱うわけがない。
いつだってそうだった。
気を許せば、殺される恐怖が常にあったのだ。この男だけが例外なんて、そんな都合の良いことはない。
「待って、血が出てる」
「やめて……!」
言って、変わらず男は腕を握り続けている。
今度は簡単に振りほどけない力を込められ、フェイは縋るようにエルを見た。
「エル……っ! 奇宝石を、早く……!」
語りかけるフェイに、しかしエルは応えない。じっと事の成り行きを見守るつもりだ。
男はエルをようやくその目に映すと、驚きで目を見開いた。
「この、生き物は……?」
エルは、フェイの姿をただ丸い瞳に映すだけだ。この状況下でエルが助けをしないことは、フェイにとって絶望的だった。
奇宝石は脱ぎ捨てた上着の中。味方はいない。男に取り押さえられ、どうすることもできない。そのことに恐怖を抱いたフェイは、震えだす身体を止めることもできずに、頭を振った。
「や、やだ! お願い離して、やめて!」
「何言ってるんだ、フェイ? 俺はただ怪我の治療を―――」
「腕に、刻印に触らないでッ!」
動かされた肩は血を流し、白いシーツを徐々に赤で染めていく。それを見た男は焦りの色を浮かべ、声を荒げた。
「動くなっ! いいか、無理に矢を抜いたせいで傷口が広がってるんだ! 決して浅くない傷だ! 早く止血しなきゃ―――」
「はなして―――ッ!」
男の言葉を頑なに聞き入れないフェイは、悲鳴混じりの声を上げ、力の限り暴れる。
「っ、!」
男は再び自身の荷物から別の薬を取り出すと、フェイの顎を抑え口を開かせた。
抵抗空しく、男の力に抗いきれないフェイは怯えた表情で男を見上げる。
「な……にを、」
「大丈夫、殺さない。俺はあんたを守るために追いかけてきたんだ。ちょっと眠るだけだ、怖い事はない」
まじないのように呟きながら、液体をフェイの口へ流し込む。
決して飲み込まんと堪えていたフェイは、口の端から薬を零す。それを見た男は、躊躇いなくフェイの口を塞いだ―――己の、唇で。
驚愕の色を目に浮かばせたフェイは、押し込まれた薬をこくん、と喉を鳴らして飲み込んでしまう。
押し倒す男の腕を引っ掻いていた指が力を失くし、ぱたん、とベッドの上へ落ちた。
身体の筋肉が、徐々に弛緩していくのが分かる。
―――ああ、しぬのか。
それだけを思い、フェイは、強制的に暗闇へと引きずり込まれた。




