008話
妖精の不可思議な力、魔法らしいがそれを用いて走るが、結局アシストしてもらうだけなので疲れる。
「近いです、気を付けて」
次の日には筋肉痛にると思われるほど走った頃、開けた場所に出た。開けたというよりは、木々がなぎ倒され、空が見えている土地といったほうが正しい。そして、気が倒れて重なっているせいで恐ろしく進み難い。なんせ一本一本の幹の直径は1 m程はありそうなものばかりである。
同行していたホルン、ノランなどは倒れている木々もなんのその。まるで平地を走るように飛び出し、ほかのエルフのところへ行ってしまった。情報の共有だろうか。
視界に飛び込んでくるのは、その木々がまるで破裂しているのかのように千切上がり、粉塵をふりまいている。それが移動しているというから驚きである。その煙から垣間見えるのはダンプカーのような巨体。焦げ茶の毛並みが震える。一度唸りを上げれば鼓膜が破れるかの如き咆哮。身もすくみ上がるというものだ。
「ジロウ殿!!」
誰の声だったか。
振り向いた先にもう一声、大きな声で呼ばれた。その声のほとんどは地響きによって遮られていた。目の前には巨大な影。大きな牙。その牙で貫かれなくとも、その巨体に接触すれば怪我なんぞでは済まない。それくらいはすぐにわかった。しかし、動けず。足は鋼鉄のように硬い。
「次郎!」
目の前には巨大すぎる猪。
死ぬかも、と考えたがそう考えたとしても不思議ではなかろう。
接触する、その瞬間目の前の空間が撓んだ。そう思える程の音がした。その巨体が何にぶつかったのか、それを確認することはできない。目の前の空間で止まっている、その表現は適切ではない。進行を阻まれているというのが正しい。
「なんだ、これ」
「次郎、大丈夫ですか」
その障壁とも言えるものの前に立ち、こちらを心配そうに見てくるアリス。尻餅を付いた状態で、ああ、なんて言葉が零れた。
猪はなおも唸りを上げながらこちらへこようとするが、それは叶わなかった。そうして方向を転換させほかの場所へ走っていった。恐ろしい速度で。
「いつまで座っているんですか?」
「す、すまない」
「誰に対して言ってるんですか? それに謝ったりして」
「そうだな」
漏らしていなかっただけ上出来なのではないだろうか。あんな死ぬ思いまでしたんだぞ。立ち上がって周りを見ると悲惨なことになっていた。
「とんでもない運動エネルギーだな」
あの巨体なので質量も相当なものであろう。
「それで、さっきの魔法は何なんだ?」
「空間を圧縮しただけですよ」
こいつぁ何でもないように言っているが、とんでもないことなんじゃないだろうか。だがこれで、私の生存確率は飛躍的に上昇する。そして頭の上にいた妖精はいつの間にかいなくなっていた。
そんなことを考えながら怪物を見ると、矢が殺到しているの見て取れた。
「焼け石に水って感じだな」
「暖簾に腕押し?」
あの猪の化物の体毛は矢を滑らせ、仮に肉まで届いたとしてもあの体格だ。脂肪で阻まれているようにしか見えない。
「あそこに行っても足でまといなだけだな」
「次郎はそうですね、私は違いますけど」
ぐ、アリスの言うことももっともである。私にはない不思議な魔法の力を使えばあるいは葬りさることもできるのではないだろうか。
「でも、お祭りって言ってましたよね」
「そんなこと言ってたよな。だけど、これ見る限りだと死亡者がでても不思議ではないのだが」
魔法的な何かで負傷しても大丈夫なんだろうか。
「とりあえず、私も加勢してきます」
「待て、俺をここにおいていく気か?」
「次郎も行きますよ」
「無理だ死ぬぞ、俺が」
「ふふん、私の魔法でイチコロですよ?」
嫌な予感しかしない。
「やはり部外者である俺たちができるのはそっと見守ることだけだろう。あまり邪魔をするのも悪いしな」
「義を重んじるんじゃないですか?」
「命あっての」
「さあさあ、行きますよ」
人の話を聞け。
頑として譲らないアリスに恨み言を垂らしながら歩いていく。
エルフのみなさんはこんな足場でも跳ねたり飛んだりしながら場所を変え矢を放ったりなんやかんやしてらっしゃる。
「おい、どうするんだよ」
「いいアイデアがあります。まず、ここ一体に火を放ちます。焼け死ぬか窒息で死にます」
「エルフに殺されるぞ」
「いい考えだと思ったのになー」
「あの化物が動かないでくれるならそれもできるだろうが、あの移動速度を考えると難しいな。あと、火を放ったらエルフにボコボコにされる。大事なことなので二回言ったが、その小さなお頭には入ったか」
「もう、どうすればいいのよ」
「考えなしに突っ込むのが悪い。今からでも遅くない、留まって様子を見よう」
「次郎ー」
「ってちょっと待て、こっちに向かってきてないか?」
「本当ですねー」
悠長なことはしていられない。またアリスに障壁っぽいのをはってもらわなければならない。そう考えていた。
一陣の風が吹き抜け、怪物の前足が風と共に舞った。文字通り。バランスを崩しながらもその勢いはほとんど収まらずに激しい音と共にこちらへ近づいてくる。アリスに声をかけるとあの障壁を出してくれた。それに衝突したと思ったらその化物の首がとんでいた。
「えっ」
目を疑うような光景だった。飛んだわけではなかった。ずるり落ちた。ゆっくりと。
落ちきる前に首から血が溢れ、障壁を真紅に濡らした。
横から見ていたら、鼓動に合わせて血液が飛び出ていることが確認できたのだろう。しかし、目の前の空間は赤で覆われてそれすら見えなかった。一歩交代すると足元からぱしゃりと湿った音がした。見ると、すでに地面は血を吸ってぬかるんでいた。
ばしゃんと一際大きな音がした。目の前の真紅の壁が取り払われていて、大きな猪だったものが視界に現れた。びゅっびゅっと鼓動に合わせているのだろう、血があふれ出ているのが見て取れた。
充満する濃い血のミストは肺臓を犯し、思わずその場に蹲り昼に食べたものを森の栄養分として口から吐きでていた。
「次郎、大丈夫?」
「なに、心配いらん。森に養分を与えていただけだ」
その言葉のあとに、もう一度盛大に養分を撒き散らせて胃の中身は空っぽになった。
その酸っぱな匂いも血の臭いに紛れるだろう。
顔を上げると、獲物にエルフが群がっていた。
「顔色悪いけど、調子悪いなら休んでて」
ティアさんの優しさが痛いです。強がってもいいことはないだろう。私はことわって離れた場所で休ませてもらうことにした。
解体作業はあまり見ていて気持ちがいいものではない。
二刻ほどで猪は解体し尽くされた。私も手伝って村まで解体されたものを運んでいった。村の人総出での作業のようだった。手際がよろしいようで骨すらも残らなかった。
「いえ、あの魔法はグランさんの魔法ですか?」
「ええ。しかし、私よりはこのウィンディですかね」
私は今グランさんとお話をしている。魔物の討伐も終わり、出て行く日取りを決めるためだ。なのに、話はは先程の魔物との話題になっていた。主に私が気になったので。
魔物に止めを刺したのはグランさんだった。長自らが討伐をするようなことはあまりないそうだ。村人の団結の強化とかそういった意味合いの一種の行事のようなものだからだ。今回に限っては、あまりにも強い魔物だったために弓矢や、村人の魔法ではあまり効果がなかったようだ。時間をかければ倒せたかもしれないが、それよりも時間経過に伴う森の損失を考えて長が討伐したそうだ。グランさんが長になってから3回目のことらしい。あの魔物の毛皮が相当に強靭だったそうだ。風の魔法に対しても耐性があったらしい。それを何もないかの如く倒してしまうグランさんの魔法の力量に感服してしまう。
「それで、旅立ちの日でしたね」
「はい。できれば数日はまだここに滞在したいと思うのですが」
「いいですよ。ちょうど本日から祭りになりますから。これほどの大物ですから一週間くらいはお祭りでしょうね。終わるまでいてもらってもよろしいのですよ」
「ありがとうございます。しかし、そこまでお世話になるわけにはいきません」
話し合いにより、三日後にここを発つこととなった。
「街へ行けば魔物の素材も売れるでしょう。幾らか都合つけますので持って行ってください」
その申し出は非常にありがたかった。しかし、何もしていないで施しをもらうなんていうのは厚顔無恥もすぎるというものだ。
「いいえ、次郎殿が囮となってくれたおかげで打ち取ることができたのです」
それこそ、立っていてアリスの後ろにいただけだ。私は何もしていない。
「それに先立つものも必要でしょう。ここでは物物交換が主流と言いますか、それしかないのですが、街へ行けば貨幣が必要となるでしょう。私共もある程度は蓄えがありますがそれはこの集落のため。都合をつけるのも少し……」
「いえいえ、ここまで良くしていただいただけで」
結局押し切られる形で魔物の売買できそうな部位をいただくこととなった。
その話も重要だったが、私の視線はある一点に釘付けとなっている。
「な、何かおかしいところありますか?」
「いいえ、ウィンディは別におかしなところはないですよ」
よかったー、と不安げな顔をしていた小さな少女、それこそアリスと同じ背丈の精霊は胸を撫で下ろした。
「次郎殿は貴方なような存在を見ることがなかったのですよ。なので、精霊という稀有の存在である貴方を好奇の目で見てしまったのでしょう」
「あっ、すみません」
凝視しすぎたのは失礼だった。
「でもでも、ジロウドノ? にも精霊がいますよね」
「はい。本の精霊と本人は言っていますが。隠れてないでアリスも出ておいで」
そーっとアリスはポケットから顔を覗かした。
エルフと話すときは別にこんなになることはないのに。
「同じ種類の精霊、近しい種類の精霊ならばある程度は面識があるようですが。ウィンディは自然精霊ですが、アリスさんは違うようですからね。あまりこうしてお互いが面と向かうということは少ないのではないでしょう」
「私、本の精霊以外の精霊に会ったことなかったから」
生息域というか、生態を考えるとそうだよな。風の精霊とか土の精霊とかは聞くところによると共存していたりという話も聞けた。本の精霊なんぞは書籍が大量に保管してあるところにしかわかないからな。
「ウィンディさん、アリスと仲良くしてくださいね」
ウィンディと呼ばれる風の精霊は、はい、と微笑んでくれた。ほら、アリスも出て挨拶しなさい。
「グラン、アリスに村のこととか案内してきてもいいですか?」
「あんまり無茶なことしちゃダメですよ」
「次郎」
「迷惑かけちゃだぞ」
アリスはちらりと笑顔をこちらに向けてアリスと一緒に窓から飛び出していった。
夕飯時には戻ってくるだろうか。
「ウィンディもあまり他の精霊と触れ合うことがないですからね。私の代に入ってからは他の精霊と顔を合わせていませんでした。アリスさんには感謝します。次郎殿にも」
「こちらこそありがとうございます。アリスにもいい刺激になったと思います」
「でね、ウィンディがね!」
「はいはい、食べるときはあまり騒ぐな」
口を開けば何かを食べるか話すか。途切れることがない。それくらい楽しかったのだろう。
「でね、グランの書斎にも入れてくれて片っ端から複製して収納したの」
「おい」
まぁウィンディがいて許可してくれたんだろう。複製しただけだし、実害はない。問題ない、はず。
「で、正直なところ、俺たちが恩返しではないけどここでできることってあるか?」
「どうですかね。私は本を複製するかちょーっと魔法を使うことができるくらいですし、次郎に至っては」
「みなまで言うな」
そう、俺が何もできないのだ。
「んじゃ、あの倒れた木を全部本にしてこの村に寄贈するか?」
「グランに話したほうがいいんじゃない?」
「そうだな。それなら今日話しておけばよかった」
話したところ、この村所有の本をいくつか複製して欲しいということだった。
あと、ノートというものがなく、それも大量に複製してあげることとした。紙という物自体が高価だそうだ。むらでの交易品の一つに羊皮紙というものがあるくらいだからそれは推して知るべし。
次の日の朝には森へ入って行った。
手前の倒された木々は木材として村に運ぶらしい。なので、奥からやってしまおうと考えた。
「ここら辺でいいたろう。アリスお願い」
よっしゃーという掛け声の下、大木が一瞬にしてノートの山になり、消えていった。コピー用紙、これもできないかと聞いたところ、形状とか聞かれた。そしてコピー用紙、つまり上質紙が山のようにできて消えていった。一応、本というくくりなのだろう。よくわからない。
昼にさしかかろうというところ、どんどん木を消していっていたら低く、唸るような動物の鳴き声がした。しかしそれはあまりにも弱々しかったために、私は躊躇せずにそのまま魔法を行使させた。同行したノルンは少し緊張した面持ちであったが特に何を言ってくることもなかった。更に魔法をかけ続けると、野犬だろうか、それにしては大きな犬が大木の下から現れた。胴体部分は抉られ、その上から大木がかぶさっていたのだろう。死んでいないのが不思議なほどの傷だった。
「ウィンドウルフですね。もう長くはないでしょう」
木を退けたことで新たに血が溢れてきていた。