002話
寝顔に直射日光が当たり、いい加減眠りから覚めなければならないと思いつつも夢と現実のまどろみは気持ちよかった。しかし、と考える。そもそも私の部屋に日光が当たるはずがないのだ。日の当たらないなんとも陰険な空間であり、縦しんば日が当たるとしてもカーテンという日の光を阻害するものが常時展開中であるはずなのだ。
はっと目を覚ますと、一面の蒼空が私を哂っていた。
まだ酔っているのかと頭を振ってみるが、効果はない。それどころかあまりの空の蒼さに目が障害を起こしてしまいそうである。とは言え、この状態を確認せぬわけにはいかぬ為、身を起こす必要があった。
名残惜しく布団を横にどけ、周囲に目を凝らしてみると森であった。
泉に面した開けた芝地で周りは鬱蒼と生い茂った木々に囲まれている。場違いな感じで私の部屋の荷物が芝の上に散乱していた。そのまま部屋の中身を移したようである。卓袱台に本棚、布団に洗濯物。それと脱ぎ捨てられた履物、雑品がいくつか。
はて、と考える。幾分かエチルアルコールの存在している頭を働かせてみるが、どうして私がこのような場所にいるのかは理解できない。
ともあれこのままではいくまいと、散乱した洗濯物をたたんで布団の上に置いた。地面や卓袱台の上に散乱した本は本棚に戻した。それだけで少しは綺麗になったように感じられる。愛の逃避行ならともかくとしてそろそろ現実からの逃避はそろそろ止めなければならぬ。よもやこれで私は寝ているなどと曰う程耄碌はしていない。
胡座を解き緩慢な動きで起き上がる。柔らかな日差しにもかかわらず一瞬ふらりとしてしまう。頭を振ってはみるが一向に改善する様子はしない。ふらふらと水辺によって水を掬う。とても冷たい。一口飲んでみる。そしてもう一口。一息ついてからよく見ると、水はとても澄んでいた。黒髪の乙女、という言葉が似合うくらいに。今まで見た水で――超純水は除くが――一番綺麗かもしれない。鮮やかな水草がゆらゆらと水面とともに揺れている。小さなエビがおり、魚の姿も見える。
少し歩いてわかったことだが、泉というよりは池であった。川から伸びた水路のようなものが見て取れる。しかしもう随分と手入れされていないようだ。水路の始まりは石で作られてはいるが、角は風化し丸みを帯びているし、苔も全体を覆わんと精力的に活動をしている。そもそもここら一帯からは人の匂いがしない。
ぼーっとしていても時間は流れる。
幸いにも腕時計と現在流れている時間というものは合っているようなので、これを元に生活を成り立てねばならぬ。だが一番の問題としてあげられることは住処であろう。雨が降ったりしたら布団はもとより本棚に入っている書籍達も危ぶまれる。
そこから十分ほど歩いた場所に奥行のない洞窟があった。
よくもまあ都合よく洞窟なんかがと思われるかもしれないが、その実それは洞窟というよりは窪みであった。そこを拠点とするということは、目の前にある巨壁をも移動させなければならないということである。人には言えないような桃色遊戯な書籍も含めて五十冊ほどはあろうか。
箱という便利なものはなく、改めて文明の利器の便利さを思い知らされたのだが遅すぎた。やはりあるべき時には気づかずに、手から零れおちてからその大切さを知るというのが人間なのだろう。そう思わざるを得ない。不条理すぎて目から心の汗が滴り落ちてしまいそうになるほどには肉体労働をしてしまった。時計に目をやればすでに二時間。疲れはするし腹は減るし。
布団に踏ん反り返りながら考える。考えたところで腹が満たされるどころか考えれば考えるほど腹は減ってくる。手元には安い日本酒があるだけである。今ならば炊きたての白米茶碗一杯に諭吉さんですら払ってしまいそうである。もちろん平時ですらそのような現金は持ち合わせていない。
重い腰を上げて水辺を目指す。
起きて池の水を飲んだが腹は壊さなかったようなので、好きなだけ水は飲めるということである。ただ腹は減っている。水で空腹を誤魔化し、起きれば風情のあるあのアパートに戻っていますようにと願いながら布団に包まった。
自分の鼾で目を覚ましてしまうなど久しいことであった。しかし、目が覚めて一番最初に嗅いだものが土のにほいだということで一気に目が覚めてしまった。何故私にこのような仕打ちを。
一晩寝てみたものの昨日のことは夢ではなかったらしく、以前状況は好転しないままである。
「まあ待て」
私は自分の胃袋に言い聞かせる。反抗期というやつであろうか、私の言葉では宥める事はできない。しばし考えた後に昨日と同じ方法を用いて腹を宥める事とした。
幾分か満足した胃袋に文句を垂れつつ、すべき事の優先順位を考えてみた。考えるまでもなく食料の調達が不可欠であった。だがしかし、私にはどれが食べてよい植物なのかわかるはずもない、況や光合成もできぬ菌類ならなおさらである。動物なんぞ狩ったことはないし、絶望してしまいそうな状況である。
分け入っても分け入っても森の中、ばい私。と、このような感想も漏らしたくなるほどである。あまりに寝床から離れすぎると迷って戻れなくなってしまうかもしれないと思うこと事態がもどかしい。人は水分だけを摂取していれば二週間は生きることができるとか何とか聞いたりはしたが、それは間違っていると断言しよう。この空腹にいったいどれだけの人が耐えられることができるというのだ。これまでの人生において彼女を作ったこともなく敢えて友人から誘われる娯楽に身を投じなかった賢者に最も近い人間と称されるに至った私が耐えることができないのだ。常人が耐えられるはずもない。
昼を過ぎてまたしても水だけを腹に収めた私が穴に戻る。誰も出迎えてくれることはない。それは高校を卒業してからそうであったようにこれからも続いていくのだろう。思っていたのだがそれはどうやら違うらし。昨日までは気がつかなかったが、一番奥の、なんというかちょっと整えてあるかなーと思った場所には人為的に石が置かれているようであった。この界隈には人が入った形跡がないので随分と昔に作られたものであろう。
「なむなむ」
若干の苔に覆われたそれに、ここからの脱出を図るべく拝む。
御利益があるかどうかわからぬがやらぬよりはましだろう、そう思った。
さて、水だけでの生活も四日目に達し、限界であった。
空腹に空腹が重なり猫炒飯の幻覚を見るほどでもあった。大学のサークルで一つ下の異性が何故にか腹を空かせた者に食べさせるとそれは無類の味と称すべき炒飯を提供をしていたことを発端とする。出汁に猫を使っているという噂が耐えないのが特徴である。だが味は無類なのだ。
よもや中毒性があったのではないかと今更ながらに思うほどに猫炒飯が食べたいのだ。日本人たる者白米というが、ラーメンも炒飯ももはや中華風日本食といってもいいだろう。
さすがに何も食べないわけにも行かず、近くに生えている若干太そうな草の茎をかんでみる。渋い、酸っぱい、苦い。特に酸っぱ過ぎる。だがこれ以外に食べるものはなく。それを幾つか胃袋に収めて布団に潜り込んだ。腹を壊すようなことがあれば、この植物は生で食するのには適していなかったというわけだ。
残念ながら翌日目が覚めたときには空腹以外の異常を察知できなかった。
昨日食べた雑草で腹を下すということは実際において非常に危険なことである。だが現時点の私にはそれを気にすることもなくまたもや雑草を胃袋に収めていった。
寝るだけでもエネルギーを使うのだから歩けばどうなるかなど自明の理である。しかし、食べ物を探さないわけにもいかない。今日も今日とてふらふらと歩いた。
およそ昼を回ったであろう時間に池を経由して住処へと向かう。
何か得体の知れないものがいるのだが。
大きさにして手の平ほど。所在無げに中空に漂っていたかと思うとふよふよと本棚へと向かうではないか。それは私の汗と涙と男汁の結晶ぞ。飛び出しかけて思う。書籍が浮いている、と。まるで重力なんぞ知らないかのように、というなればその得体の知れない何かも浮いているというわけだが。
「何やつ」
声を荒げて問う。
本がぱたりと落ちる。私の大切な本が。
元々保存状態もそれほど良いという訳でもないのだが、落ちた場所が布団の上でよかった。これが地面の上であれば角が潰れていたやもしれん。
「何やつかと問うている。
そこに直れ」
と言葉を発するも、こちらの言葉を解していないようである。
むんず、とその物体を掴み取りよくよく見るとそれは本に出てくるような、所謂妖精のようなやつであった。
透き通るような、水か水晶でできたかのような羽が背中に浮いているし、人間を小さくしたかのようなものであった。頭髪は黒で、腰くらいまで。まさに黒髪の乙女像を実体化させたかのようである。
「この言語を話す者はここ最近ではいなかったはずですが」
おお、なんと話すことができるのか。
いろいろと興味はそそられるが、数日間誰とも話さないというのはなかなかに堪えるものであった。例え、私が数日間引き篭もって誰とも話さないであってもそれは問題なかった。ここではもう二度と誰とも話さないかもしれないという思いもあった。それに、人の気配がするというのは存外にありがたいものなのかもしれぬ。
「何ですか?
あ、私ですね。私は見てのとおり精霊です」
にこにこという擬音が聞こえてきそうな笑顔で応えるそれは自称精霊。
「妖精ではないんだな」
「彼らと一緒にしないでください」
ぷんすか。思うところがあるようだが、私は気にしない。
「ええい、静まれ」
腹が空腹を忘れたのかと盛大に抗議をしてきたので一括した。
「あのーお腹空いているんですか?」
「見てわからぬか。一揆が勃発するほどに腹が減っている」
「んー、人種が食べられそうなものがある場所を知っていますけど」
「なんと、それを早く言え。
よく来た、歓迎するぞ。そしてそこまで案内をしてはくれないか」
渡りに船とはこの事か、それともこのような幻覚を見ているのか。どちらにせよ私にはそれの誘惑を振り切るような精神力は持っておらずいわれるがままついていくしかない。
「その後でいいのですが、ちょっとお願いを聞いてもらえますか?」
「よかろう、ただし俺が叶えられる範囲でだ」
その一言が大事である。死んで、なんて言われてもそんなことはできぬ。だが口が臭いから生命活動を停止して、なんてあの可愛らしい笑顔で言われた日には聞き届けたくもなくとも心臓が活動を停止してしまいそうである。
「ここです」
ちょっと歩いたところに柿のような物が生っていた。
「柿のようだな」
「こちらの言葉でpersimmon と呼ばれていますね」
「まんま柿ではないか。
……英語は通じるのか?」
「英語というのは貴方で言うところのenglishの事ですね。
随分と前から公用語は一つしかありませんよ」
衝撃の事実とはこの事か。しかしながらそのような些細なことは後でもいいのだ。今私の中を占めるもの、それすなわち柿である。
無心で食べ続けて、腹が膨れるまで食べてしまった。
臍から木が生えてはかなわんので種は食べはしない。腹も満足したようで当分は反乱しようとは試みないだろう。
住処に戻りながら、話をする。
「その願いというのは何だ」
「えっとですね、あそこにある本を譲ってほしいんですけど」
「なるほど無理だな」
「そ、即答ですね」
当たり前であろう、それを揃えるのにどれだけの時間と金を浪費したことか。
「見る分には構わんが」
「それはいいんですね。んー」
何かを考えているようだけど、私には関係がない。
「好きなだけ読めばいい。
だが、俺は寝る」
腹も膨れたし、ここ最近は空腹すぎて安眠できなかったからでもある。
起きたら精霊様が私の秘蔵とでも言うべき桃色な書籍を眺めていた。
お互いに無言である。
「エッチ」
「男などそういうものだ」
いっそ開き直ってしまうではないか。
「うーん、でもまあいいか」
「なにがいいのかわからんが」
「私に名前をつけてくれませんか?
ちなみにわかっているとは思いますが、私は本の精霊です」
「わかりませんでした。
で、名前?何故?」
「まぁまぁいいじゃないですか。
私も名無しだといろいろ不便なんですよ」
そういうものなのか。とはいえ、名前をつけたことなどない。次郎や三郎などとつけようものならば殴り倒されてしまいそうである。
コピー用紙を出し、とボールペンでつらつらと書き記す。
「Aliceと書いてアリスなんてどうだろうか」
「アリスですか。響きがいいですね。
ありがとうございます。では早速」
羽が光だし、本棚にあった書籍がほとんどなくなってしまった。残っているのは寂しげに佇む桃色遊戯な本のみであった。