表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
精霊は科学の夢を見るか  作者: ごんけ
プロローグ
1/23

001話


 廃墟と呼んでもいいような木造二階建てのアパートは嘘か真か戦前から建っているという噂があった。そのアパートの一階、北端の部屋が私の部屋である。年季の入った窓から見える外界は物干し竿に干された色褪せた洗濯物たちと、敷地を囲む木製の囲いと縦横無尽に走る電線の隙間から見える空のみである。冬にはストーブを炊いても隙間から冷風は入ってくるし、暖気は隙間を通して限りなく上へ行ってしまいあまり部屋で過ごすということが少なくなる。それに比べて今の季節は暑いが、冬に比べればましだろう。


 長方形の卓袱台と本棚、万年床と乱雑に置かれた洗濯物によって四畳半の王国は私以外の侵入者を拒んでいる。畳も何十年も変えていないかのように変色してしまっているし、土壁も今にも剥がれ落ちてきそうになっている。つまり住居としてはあまり適していないのではないかと考えるときもある。しかし、自転車を南に走らせること5分ほどで大学構内に入れてしまう立地と価格的な条件故にこのアパートから離れられないということをすぐに思い出してしまう。

 私は毎夜、それこそ一般の人が丑三つ時と呼ばれる時間になってからアパートに帰ることが常となっている。いや、そもそも最近ではアパートに帰らずに研究室かロビーの椅子の上で寝ることもある。特に研究室では冷暖房完備なので生活する上では大変によろしいだが、成果の出ない博士課程やポスドクの諸先輩方が血走った目をしながら実験を繰り返す姿は精神衛生上よろしくない。


 この時期は日の出ている時間帯に外に出るという蛮行は起こす気もないが、さすがに大学に向かわないわけには行かない。朝食というには些か遅く昼食というには早すぎる時間帯の食事を如何にすべきかと悩んで、結局大学内の食堂で食事を済ませるのはいつものことである。その考えに至ると、今まで悩まされていたのが嘘のように心が晴れやかになった。

 太陽も登っているのに薄暗いアパートの廊下を抜けて玄関へと至る。申し訳程度に置かれている巣箱の如き並んだ郵便受けに目を向けたのは偶然であった。目の端で郵便物を捉えていたのかもしれない。私以外の郵便受け以外には何も入っていないので、それが私宛のものだということはわかる。この郵便受けが活躍する場など年に三度とないであろう。しかし、その一度がこの度やってきたことに若干の感動を覚えながらも今年はこれ以降使われることはないであろう。同情さえしてしまいそうであるが、数瞬後には忘れてしまっていた。

 茶封筒は大学からのもので先日の大学院入試の結果であるらしかった。モラトリアムの延長というべき大学院の修士課程。留年と休学を駆使してモラトリアムを享受している友人からは阿呆の如き所業だと蔑まれ、就職が決まり大学から去る友人からはそのまま白痴課程へ進む気かと心配された。教授からは合格していることが既に伝えられていたが、実際にこうしてモラトリアムへの切符を手にするまでは安心することはできなかった。感慨深いわけでもないが、一応の安心が得られたことで腸の扇動運動が始まったのか空腹を訴えかけてきたので再び部屋を出た。


 名ばかりの自転車小屋から薄汚れた自転車を出し、跨る。走らせて大学北部にある食堂前の駐輪場に駐車する。秋にはイチョウの葉と銀杏特有のにほいで埋め尽くされるこの場も、夏のこの期間に限っては夏休みというものが関係ない者と部活と一握りの変人を除くそれ以外には足が遠のく。秋には私も銀杏を拾ってはレンジ内で爆発させて酒の肴として非常に好んで食べている。その銀杏よりも味は劣るが、大学内の食堂ではおいしいという飯を腹に納めて時間を見るといい時間になっていた。

 エレベーターを使って6階まで上がり研究室に着くといつもよりも人が少なかった。それも同期のみ。同じ実験台を使う同期も本日は休みのようだった。別の同期に話を聞くと、どうやら試験結果が届いたので仲間内やら恋人やらにうつつを抜かしているようである。それでは私と目の前にいる男が寂しい奴のように見えるではないか。断じてそのようなことはない。

 めでたいことはめでたいということで、担当の助教と教授、それと諸先輩方からお祝いの言葉をもらった。そしてこんな状況であるから本日は早目に上がれとのお達しを頂いた為に、意味もなく実験台の整理と実験ノートを見直して気になる論文を印刷するだけにした。


 日はまだ高く、アパートの中もまだまだ暑そうであるので一旦図書館へと避難をしていた。ここで勉学に励むのは司法試験を控えた阿呆学部こと法学部の学生だけと相場は決まっているのだが、何を血迷ったか行き場をなくした学生も偶に現れることもある。それが私なのだが。


 焼け石に水程も効いていない空調に文句の一つも言ってやろうかと思いつつ論文を広げ、然も勉強している風を装いアピールしたつもりであったが、気がつけば窓から覗く空は茜色となっていた。ここ数時間の記憶はなく、読まれた論文も数行である。もはやここに居る必然性を感じなくなり、そそくさと図書館から脱した。図書館前の騒然と並べられた自転車群から愛車を四苦八苦しながら救出した。「反自転車にこやか整理軍」なる私設組織が昼夜問わずに放置された自転車を整頓させているということだ。全くもって不愉快な組織である。そして以前、タイヤに画鋲が刺さっておりパンクさせられた苦い経験をもつ私は念入りに愛車の状態を確認した。パンクさせられたと断言できるのは、側面に画鋲が刺さっていたためである。加えるならその時の私の怒気は暗雲立ち込める空を割り、天を揺るがすほどであったと言っておく。


 アパート近くにある酒屋で安い日本酒を一升瓶で二本と500 mlの発泡酒の缶を三本購入し、一旦アパートに帰る。共用の冷蔵庫に発泡酒を投げ込み、腹が減ったと鳴きじゃくるので宥める為にスーパーでツバスのブロックとプロセスチーズとスナック菓子を購入した。

 アパートの共同の調理室で包丁とまな板、醤油と山葵を調達し、部屋で刺身を造った。刺身を作りながら酒を飲み、論文を読む。こうするといつもはなかなか頭に入ってこない論文の内容がすらすらと頭に叩き込まれるような気がするのだ。もちろん、翌日には内容なんてすっかり抜け落ちてしまっているわけである。発泡酒を早々に飲み終わり、日本酒をほんの二合くらいだろうか。それくらいを飲んだところで私はその意識を手放した。


 ひんやりとした空気が頬を撫でるので、かなりエチルアルコールの分解されていない体に鞭打ち目を開ける。そこは見知った汚いしみだらけの天井などではなく、星が爛々と輝く満天の夜空であった。もちろん夢であろう。ならば見た目は悪いが気持ちのよい布団でまだまどろむのも吝かではない。そして再び眠りについた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ