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だいじょうぶの一文字

作者: 明石竜
掲載日:2026/05/01

 小学四年の葵はある日の帰り道、道端で奇妙な消しゴムを拾った。真っ白で、少し甘い匂いがした。

 家で試しに、漢字の小テストに赤ペンで書かれた「直しましょう」の「し」をこすってみた。 

 すると紙を傷つけることなくインクだけが消え「直ましょう」に変わった。

 意味はおかしくなったけど、赤ペンまで消えた。葵は目を丸くした。

 どうやらその消しゴムは、鉛筆だけではなくどんな文字でも一文字だけ消せるらしい。

 葵は面白くなった。

 お母さんがテレビ横に貼った「ゲームは一日一時間」の「一」を消した。

「ゲームは日一時間、って書いてあるもん」

 そう言い張ると、お母さんはあきれた顔をした。

 予定表の歯医者から歯を消したこともある。ただの医者なら、少しは怖くない気がした。

 ⋯⋯もちろん虫歯の治療はちゃんとあった。


 そんなある日、お母さんが風邪をひいた。

 パートから帰ってきたお母さんはいつもより顔が赤く、夕ごはんのあと早めに寝室へ行った。

テーブルの上には葵へのメモがあった。

『お弁当は冷蔵庫です。お母さんはだいじょうぶだから心配しないで』

 葵は、その字をじっと見た。

 だいじょうぶ。

 いつものお母さんの字なのに、少しだけふるえている気がした。

 葵はポケットから消しゴムを出した。どうしてそうしたのか、自分でも分からなかった。

「だいじょうぶ」の「う」を、そっとこすった。

文字が消えた。

『お母さんはだいじょぶだから』

 たった一文字なくなっただけなのに、その言葉は急に無理をして笑っているみたいに見えた。

 消しゴムのかすが机の上にぽろりと落ちた。

よく見ると、それはただの白いかすではなかった。小さな「う」の形をしていた。

葵は胸がきゅっとした。

 お母さんは、だいじょうぶじゃないのかもしれない。

そう思ったらさっきまで魔法の道具に見えていた消しゴムが、少しだけこわくなった。文字を消していたのではない。言葉の中にかくれた、本当の気持ちを見せていたのだ。

 葵は消しゴムを引き出しにしまった。

 それから冷蔵庫を開け、氷水を作った。タオルもぬらした。

 寝室の戸を少しだけ開けると、お母さんが目を開けた。

「葵? だいじょうぶよ」

 葵は首を横に振った。

「今日は、だいじょうぶって言わなくていいよ」

 お母さんは少し驚いて、それからふっと力の抜けた顔をした。

 葵はタオルを差し出した。

 消しゴムは、もう使わなかった。

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