第九章 風の塔は歌でひらく
最初に鳴ったのは、遠くの一本だった。
高く細い、笛みたいな音。
次に二本、三本。やがて都市のあちこちで、風の塔が一斉に歌い出す。古代の技師たちは、換気と同時に“異常を音で知らせる”ため、塔を楽器みたいに作っていたのだ。人の記憶を燃やさなくても、この都市は本来、自分の肺で呼吸できた。
上層からセリムの声が落ちてくる。
「止めろ! 流量が安定するまで市民が保たない!」
彼の焦りは本物だ。そこに嘘はない。だが、だからといって正しいわけでもない。
エミルが制御盤を叩き、補助ログを走らせる。
「移行時間を稼げば足りる!」
だがオルフェは最後の抵抗として吸い上げを強めた。広場では人々が次々倒れ、名前を失いかけている。ここで止めなければ、旧風路が完全に回る前に多くが空っぽになる。
制御盤に最後の選択肢が浮かぶ。
残存記憶核を全解放しますか。
ミオは凍りつく。
記憶核には、市民から奪われた声が蓄えられている。解放すれば皆に返る。
でもそこには、ユラの残響もある。石に残った最後の声さえ、風へほどけて消える。
エミルは何も言わない。
彼の沈黙は、選べと言っていた。逃げるなと。
ミオは涙で滲んだ制御盤を見る。
ユラならどうするかなんて、もうわかっている。あの子は最初から、自分だけ残る未来なんて望まなかった。
「……っ」
声が出る。かすれて、痛くて、それでも。
「……みんなに、返す」
エミルの目が柔らかく揺れた。
ミオは解放を実行する。
青い光が、制御核から爆ぜた。
管を走り、塔へ昇り、石壁へ滲み、都市中へ広がる。閉じ込められていた声たちが、一斉に持ち主を探し始める。広場で倒れていた母親が、突然わが子の名を叫ぶ。老人が忘れていた妻の愛称を泣きながら口にする。恋人たちが互いの名前を抱きしめるように呼ぶ。
誰かの歌いさしが、別の誰かの胸で続きを見つける。
その光景は、都市全体が長い息を吐く瞬間みたいだった。
そして最後に、ミオの耳元へ、たったひとつの声が届く。
――やっと、自分のことも助けられたね、お姉ちゃん。
ユラの声だった。
ミオは笑いながら泣いた。
今度はちゃんと、喉から音が出た。綺麗じゃない。ひどく掠れて、ところどころ嗚咽に潰れる。けれどそれは三年ぶりに彼女自身のものだった。
青い光は風にほどけるように消え、代わりに風の塔の歌が強くなる。旧風路が完全接続し、都市の循環表示が安定域へ入る。
セリムは上層で立ち尽くしていた。
彼が見ているのは敗北ではなく、おそらく、自分が守ろうとしたものの別の形だ。
サーヒルが静かに彼の剣を取り上げる。
誰も歓声を上げない。
泣き声と、名前を呼ぶ声と、塔の歌があるだけだった。
でも、それで十分だった。




