第六章 総督の理屈
中央塔へ向かう途中、サーヒルに捕まった。
回廊の灯りの下、彼の顔は一晩で十歳老けたみたいに見えた。発作患者が各区画で増え、警備隊は対応に追われているのだろう。秩序を守る人間ほど、崩壊の兆しに敏感だ。
「戻れ、ミオ」
その声は怒鳴りではなく、疲れた懇願に近かった。
「いま都市を揺らせば、本当に死ぬのはただの市民だ」
ミオは帳面を突きつける。
“もう死んでる。少しずつ奪われてる”
サーヒルの顎が強張る。
「知っている」
ミオは目を見開いた。
「……全部じゃない。だが薄々はな。患者の回復報告と、戻らない表情の数が合わなかった」
それでも彼は止める側にいる。
守る立場の人間だからだ。
そこへ総督セリムが姿を現した。落ち着いた歩幅。周囲の兵たちまで静かになるような、訓練された声。
「朝霧ミオ。君の勇気は認めよう」
ミオは彼を睨む。
「だが勇気と正しさは別だ。都市には猶予がない。オルフェを完全停止すれば、風路循環は二時間で崩れる。換気が止まれば老人と子どもから死ぬ。君はそれを選べるか」
彼の言葉は脅しではない。現実だった。だから厄介なのだ。
セリムは続ける。
「私は秩序のない地獄を見た。地上避難のとき、奪い合いで何万人も死んだ。あのとき学んだのはひとつだ。全員を救う方法がないなら、最大数を生かす方法を選べ。為政者とは、その汚れ役を引き受ける者だ」
サーヒルがわずかに目を伏せる。
彼もまた、この理屈の重さを知っているのだろう。
ミオは帳面を開く。手が震える。けれど字は乱さない。
“妹は切り捨てる数じゃない”
セリムが答える。
「誰一人として数のつもりではない」
“じゃあ名前を呼んで”
一拍。
ミオはさらに書く。
“空喪いの患者、みんなの名前を、あなたはいくつ言えるの”
回廊が静まった。
その沈黙で十分だった。
誰かを救うために犠牲を選ぶ人間が、その犠牲の顔を忘れてはいけない。忘れた瞬間、守るはずのものは概念になる。
セリムの目が初めて揺れる。ほんの一瞬だけ。
ミオは最後の一行を書く。
“必要な犠牲って言う人は、自分をその数に入れない”
その言葉が、サーヒルの胸にも届いたのがわかった。彼の拳が震えている。
長い沈黙のあと、サーヒルが一歩、わずかに身体をずらした。
兵たちの視界に入らない、半歩ぶんの逃げ道。
「行け」
ミオは目を見張る。
「俺は秩序を守る」
彼は前を向いたまま言う。
「だが、守る対象が人の顔を失ったなら、それはもう秩序じゃない」
ミオは深く頭を下げた。
走り出す背中に、セリムの声が飛ぶ。
「失敗すれば都市は終わるぞ!」
ミオは振り返らない。
終わらせないために行くのだ。




