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記憶を食む地下都市で、声なき地図師は恋をする 副題(カッパドキア4126、追放医師と奪われた歌の真実)  作者: 百花繚乱


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第六章 総督の理屈

中央塔へ向かう途中、サーヒルに捕まった。


回廊の灯りの下、彼の顔は一晩で十歳老けたみたいに見えた。発作患者が各区画で増え、警備隊は対応に追われているのだろう。秩序を守る人間ほど、崩壊の兆しに敏感だ。


「戻れ、ミオ」


その声は怒鳴りではなく、疲れた懇願に近かった。

「いま都市を揺らせば、本当に死ぬのはただの市民だ」


ミオは帳面を突きつける。


“もう死んでる。少しずつ奪われてる”


サーヒルの顎が強張る。

「知っている」


ミオは目を見開いた。


「……全部じゃない。だが薄々はな。患者の回復報告と、戻らない表情の数が合わなかった」


それでも彼は止める側にいる。

守る立場の人間だからだ。


そこへ総督セリムが姿を現した。落ち着いた歩幅。周囲の兵たちまで静かになるような、訓練された声。


「朝霧ミオ。君の勇気は認めよう」


ミオは彼を睨む。


「だが勇気と正しさは別だ。都市には猶予がない。オルフェを完全停止すれば、風路循環は二時間で崩れる。換気が止まれば老人と子どもから死ぬ。君はそれを選べるか」


彼の言葉は脅しではない。現実だった。だから厄介なのだ。


セリムは続ける。

「私は秩序のない地獄を見た。地上避難のとき、奪い合いで何万人も死んだ。あのとき学んだのはひとつだ。全員を救う方法がないなら、最大数を生かす方法を選べ。為政者とは、その汚れ役を引き受ける者だ」


サーヒルがわずかに目を伏せる。

彼もまた、この理屈の重さを知っているのだろう。


ミオは帳面を開く。手が震える。けれど字は乱さない。


“妹は切り捨てる数じゃない”


セリムが答える。

「誰一人として数のつもりではない」


“じゃあ名前を呼んで”


一拍。


ミオはさらに書く。


“空喪いの患者、みんなの名前を、あなたはいくつ言えるの”


回廊が静まった。


その沈黙で十分だった。

誰かを救うために犠牲を選ぶ人間が、その犠牲の顔を忘れてはいけない。忘れた瞬間、守るはずのものは概念になる。


セリムの目が初めて揺れる。ほんの一瞬だけ。


ミオは最後の一行を書く。


“必要な犠牲って言う人は、自分をその数に入れない”


その言葉が、サーヒルの胸にも届いたのがわかった。彼の拳が震えている。


長い沈黙のあと、サーヒルが一歩、わずかに身体をずらした。

兵たちの視界に入らない、半歩ぶんの逃げ道。


「行け」


ミオは目を見張る。


「俺は秩序を守る」

彼は前を向いたまま言う。

「だが、守る対象が人の顔を失ったなら、それはもう秩序じゃない」


ミオは深く頭を下げた。


走り出す背中に、セリムの声が飛ぶ。

「失敗すれば都市は終わるぞ!」


ミオは振り返らない。

終わらせないために行くのだ。

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