第四章 青い湖の底
逃げ込んだ先は、古い水没坑道だった。
カッパドキアの地下は迷宮だ。居住区、貯蔵庫、礼拝室、風路、旧水路。何千年も増改築を繰り返し、人の都合と地形の癖が重なって、最後には“都市そのものが生き物の巣穴”みたいになる。
この旧坑道は、その中でも捨てられた場所だ。
水は膝下まであり、冷たかった。光藻が青く揺れ、天井から落ちる滴が輪を作る。湿った石灰の匂いに、遠くで追手の灯りが混ざる。
エミルが言う。
「右へ」
ミオは首を振った。壁へ手を当て、反響を探る。右は浅くて死んでいる。左のほうが音が生きている。彼女は帳面に書く。
“左。向こうに空洞”
エミルは数秒だけ迷い、それから頷いた。
「わかった。君を信じる」
その一言が、妙に深く落ちてきた。
二人は左へ折れる。狭い通路を抜けると、行き止まりのように見える青い壁に出た。だがミオにはわかった。石の向こう側で音が一度だけやわらかく返る。薄い。ここだ。
彼女は小槌で壁を叩く。ひびが入り、石板が外れた。隠し部屋。
中央に古い録音晶板があった。風化した文字。
ASAGIRI YURA
ミオの膝が抜けそうになる。
エミルがそっと起動する。ざらついた雑音のあと、少女の声が流れた。
『お姉ちゃんへ。これが残ってたら、わたしの勝ちね』
ミオの胸が潰れそうになる。
ユラだ。明るく笑うとき、語尾が少し跳ねる声。
『いま、お姉ちゃん絶対泣きそうな顔してるでしょ。だめ。最後まで聞いて』
ミオは口元を押さえた。
『あの日の崩落、事故じゃなかった。中央塔の暴走を隠すために、上から壁を落としたの。お姉ちゃんは悪くない。地図も間違ってなかった』
言葉がひとつひとつ、胸の深いところへ刺さっていく。
三年間、自分を責めて積み上げた石が、内側から崩れ始める。
『わたし、残るって言った。だってお姉ちゃんが生きてるほうが、いっぱい人を助けられるから』
違う。そんな選び方、妹にさせていいわけがない。ミオは首を振り続ける。けれど録音の中のユラは、まるで見えているみたいに笑った。
『あーあ、また否定してる。お姉ちゃんってほんとそういうとこ面倒くさい。でも好き』
隣でエミルが目を伏せた。彼も、きっとこの姉妹の時間に踏み込みすぎないようにしている。
『たぶん、わたしの記憶はオルフェに食べられる。でも全部は食べられないよ。だって歌は、石の中に残るから。風の塔は歌でひらく。真ん中の塔を止めて、新しい風路を通して。お姉ちゃんの耳ならわかる』
一拍の沈黙。
『それとね。ちゃんと誰かを好きになって。お姉ちゃん、自分のこと後回しにしすぎるから』
ミオが涙の向こうでエミルを見てしまって、すぐに視線を逸らした。
『じゃあね。先に朝を見つけてる』
録音はそこで途切れた。
小部屋に、水音だけが残る。
ミオはその場に膝をつき、声のない嗚咽を零した。肩が大きく震える。三年ぶんの後悔が、熱を持って外へ出ようとしていた。
エミルは何も慰めの言葉を言わなかった。代わりに隣へ座り、ただ手の届く距離にいてくれた。
しばらくしてから、彼は低く言う。
「君は誰も殺していない」
ミオは目を閉じる。
その言葉を信じるには、まだ少し時間が要った。でも、初めて“信じてみたい”と思った。
そのとき、追手の足音が近づく。現実は、悲しむ時間を長くはくれない。




