第三章 空喪い病棟の秘密
中央塔下層は、いつ来ても息苦しい。
都市の中枢に近いせいか、空気が乾いているのに重い。壁に埋め込まれた灯りは青白く、夜の海みたいに人の顔色を奪う。ミオはエミルの後ろを歩きながら、壁の反響を探った。見張りは三人。奥の扉の先に、妙な脈動音。
病棟のカーテンの向こうでは、空喪い患者たちが静かに眠っていた。静かすぎる眠りだった。息はあるのに、夢の気配がない。
一人の若い母親が、ベッドのそばで泣いている。
「この子、わたしのことを“知らない女の人”って……」
その声を聞いて、ミオの胸がぎゅっと縮んだ。
エミルが短く目を伏せる。
「先へ」
奥の扉は旧認証式だった。彼が手慣れた動きで封を外し、二人は中へ入る。
そこは病棟ではなかった。
透明管。記録筒。揺れる青い液体。患者の頭部へ接続された細い端子。感情波形の一覧。名前。年齢。抽出率。
人の記憶が、鉱物のように並べられている。
ミオは息をのんだ。
エミルの声が低くなる。
「空喪いは病気じゃない。収奪だ」
彼がひとつの端末を起動すると、抽出記録が表示された。患者名の列。その中に、見覚えのある名前がある。
YURA ASAGIRI
世界が止まった。
ミオはふらつき、冷たい台に手をついた。妹の名。事故のあとに消えたはずの妹の名が、ここにある。しかも日時は事故後三か月ぶん残っている。死んでいない。あるいは、死んだあとも利用された。
喉から何かがせり上がる。叫びたいのに音にならない。
「落ち着け」とエミルが腕を支える。
その瞬間、背後で扉が閉まった。
「感心しないな」
総督セリムだった。整えられた髭、穏やかな目。祭礼で希望を語る顔のまま、彼は青い装置群を見渡した。
「ここは医療管理区画だ。見学は申請してくれたまえ」
エミルが前へ出る。「人の記憶を抜き取るのが医療か」
「都市維持のための補助処置だ」
セリムは少しも揺らがない。
「地上はすでに死んだ。地下都市は限界で、風路機関は老朽化している。オルフェの補助演算を止めれば、換気も循環水も数日で落ちる」
「だから人を燃料にするのか」
「数万人が生きるために、数百人の一部を借りる」
ミオの指が震える。
借りる。なんて綺麗な言い方だろう。
セリムの視線が彼女へ向く。
「君の妹は勇敢だった。都市のために協力した」
違う、とミオは首を振る。涙がにじむ。
「彼女は選んだのだよ。君を生かすことを」
その一言はあまりにも残酷で、真実かもしれないからこそ、余計に残酷だった。
エミルの目が冷える。
「選ばされたんだろう。代わりに誰かが死ぬ状況での選択を、自由とは呼ばない」
セリムの声もわずかに硬くなった。
「理想論だ。統治とは不自由の配分だよ、エミル」
その瞬間、エミルは配線を引きちぎった。警報が轟く。青い液体が飛び散り、床に甘い金属臭が広がった。
「走れ!」
ミオは反射でユラの記録筒を掴む。二人は警報の赤い灯に照らされながら通路を駆けた。背後でセリムの声が追う。
「君たちが真実を暴けば、都市はパニックで先に死ぬぞ!」
ミオは振り返らない。
石の中で、無数の声がざわめき始めていた。




