第20話 胸の核
歌が止んだあとも、しばらく都市は鳴っていた。
細い余韻が柱を伝い、床の奥へ沈み、遠い下層で幾重にも折り返してくる。
それは、さっきまで二人を殺そうとしていた石の巨体が、ようやく眠りへ戻っていく息のようにも聞こえた。
ミオはその場に立ち尽くしていた。
喉が熱い。
痛い。
けれど、嫌な痛みではなかった。
三年前からずっと、自分の声を出そうとすると胸の奥に泥が詰まるような感覚があった。
声を出した瞬間、あの日の土埃と崩落音が喉の内側をこすって、息をすることさえ怖くなる。
なのに今は違う。苦しいのに、苦しさの奥に、確かに“通った”感じが残っていた。
わたしは歌った。
ちゃんと、歌えた。
その実感が遅れて押し寄せてきて、足元が少し揺れる。
「ミオ」
エミルの声が、すぐそばでした。
彼はいつのまにかミオの前へ回り込み、顔を覗き込んでいた。
いつもより近い。薄暗い広間の青い灯りの中で、その黒い瞳だけが妙にはっきり見える。
「息、苦しいか」
ミオは小さく首を振る。
喉を押さえ、掠れた声で答えようとして、やめた。代わりに一度だけ頷いてみせる。
苦しくない、とは言えない。けれど壊れそうでもない。
エミルはその反応だけで察したらしい。
彼の手がそっとミオの首もとへ伸び、喉の外側に触れないぎりぎりのところで止まる。
「熱を持ってる。無茶をしたな」
叱る口調のくせに、指先はひどく慎重だった。
ミオはなぜかその手つきに胸が詰まり、視線を逸らした。
都市の守り手より、この距離のほうが少しだけ怖い。
少し離れた場所で、少女の声がくすりと笑う。
「仲いいね」
二人とも、同時に顔を上げた。
停止した守り手は、まだ階段の途中に立っていた。
石の腕を半ば振り下ろしかけた姿勢のまま、完全に沈黙している。胸の円形石だけが、さっきまでの不穏な共鳴を失って、淡い脈のような微振動を返していた。
エミルは守り手を見たまま訊く。
「お前、この状態を知っていたのか」
少女は少し考えるように黙った。
「知ってた、というより……見たことある、に近いかな」
「誰が?」
「前の地図師」
その答えに、広間の空気がわずかに変わった。
ミオは守り手へ目を向けた。
前の地図師。
その言葉は、妙に重かった。自分の前にも、この都市に選ばれた誰かがいたということだ。
彼女はゆっくり守り手に近づく。
エミルがすぐ横につく。
「待て。完全停止とは限らない」
ミオは頷いた。
それでも耳を澄ませる。守り手の内部に流れていた複雑な共鳴は、ほとんど止まっている。だが、胸の中心だけ、かすかな反射がある。
「……ここ」
ミオが胸部の円形石を指差す。
守り手の胸は、近くで見るとさらに異様だった。
単なる岩の塊ではない。何重もの石環が組み合わさり、その中心に、掌より少し大きい青灰色の核が埋め込まれている。核の表面には文字とも紋様ともつかない線が走り、微かな光を内部に抱え込んでいた。
エミルが息を潜める。
「制御核か」
少女が言う。
「記録核、かも」
ミオは眉を寄せる。
記録。
その言葉と同時に、なぜか胸の奥でユラの録音晶板を聞いたときの感覚が蘇る。
エミルは工具袋から細い金具を取り出した。
「外せるか試す。危険を感じたらすぐ離れろ」
守り手の胸部の外環に金具を差し込む。
石同士が擦れ合い、乾いた音が広間に散った。
一度、二度、角度を変え、エミルが低く舌打ちする。
「固定が深いな」
ミオは守り手の胸へそっと手を当てた。
冷たいはずの石が、中心だけかすかに温かい。
その温度に耳を澄ますように集中すると、核の奥に、小さな“声になりきらない音”があるのがわかった。
記憶の反響。
言葉の前の、感情の残り火。
ミオは思わず囁く。
「……開いて」
声は掠れていた。けれど、その一言に核が応えた。
かちり、と小さな音。
外環がひとりでに緩み、石の花弁のように左右へ開いた。
エミルが目を見開く。
「……今の、認証か」
少女は少し嬉しそうだった。
「だから言ったでしょ。地図師の声は鍵なんだよ」
露出した核は、予想よりずっと繊細だった。
薄い鉱石の板が幾層にも重なり、その間を微細な導線のような光が走っている。まるで鉱物でできた心臓だった。
エミルが慎重に取り外し、布の上に載せる。
その瞬間、核の表面に淡い波紋が広がった。
音だ、とミオは直感した。
核は喋ろうとしている。
「下がって」とエミルが言うより早く、核の内部から掠れた声が漏れた。
『――きこえる、か』
古い声だった。
少女でもなく、ユラでもなく、エミルでもない。
若い女性の声。けれど疲れ切っていて、それでもなお誰かへ道を残そうとする意志だけが異様にはっきりしている声。
ミオの背筋が震えた。
『もし、これをひらいたのが次の地図師なら……どうか、下へ行って』
核の光が明滅する。
広間の空気まで、記録に合わせて昔へ戻るような錯覚がした。
『第一層は、もう保たない。共鳴獣は増えた。都市は、歌を失って眠り方を忘れている』
エミルが核へ顔を寄せる。
その横顔から、医師としての冷静さと、研究者めいた鋭さが同時に覗いていた。
『第二層の門は、継承の歌でしか開かない。ひとりの声では足りない。記憶を奪う歌ではなく、つなぐ歌が必要だ』
ミオは息を呑む。
つなぐ歌。
その言葉は、今の自分の胸の奥にまっすぐ落ちた。
第1部で止めたのは、奪うための仕組みだった。
この都市が待っているのは、逆のものなのかもしれない。
記録音声はまだ続く。
『わたしは門を越えられなかった。だから託す。継承者よ――』
そこで一度、声がひどく乱れた。
ノイズが走る。遠い風のような音。
そして、最後の一文だけが異様なほど鮮明に響いた。
『次の門で、待つ』
核の光が静かに落ちた。
しばらく、誰も喋らなかった。
広間の柱のあいだを通る風だけが細く鳴っている。
停止した守り手は沈黙したまま、まるで巨大な墓標みたいに立っていた。
最初に口を開いたのは、珍しく少女のほうだった。
「……その声、知ってる」
ミオとエミルが同時に反応する。
「知ってるのか」とエミル。
少女は少し黙る。
いつも軽い彼女の声が、初めて迷っているように聞こえた。
「たぶん。でも、全部は思い出せない」
「前の地図師か?」
「うん。たぶん、そう」
ミオは記録核を見つめる。
前の地図師。越えられなかった門。継承の歌。
自分は、何を継ぐのだろう。
歌だけではない。
たぶん、誰かが果たせなかった願いも。
エミルが布ごと核を包み、慎重に持ち上げた。
「これを持ち帰る。解析できれば、少女の正体にも、第二層にも近づける」
ミオは頷いた。
だがそのとき、喉の奥がずきりと痛んだ。
エミルはすぐに気づく。
「もう喋るな。今日は十分だ」
ミオは不服そうに眉を寄せたが、反論しようとした瞬間、彼の視線がやけに真剣で、結局口を閉じた。
エミルは少しだけ息を抜く。
「そうやって無茶を我慢する顔、初めて見たかもしれないな」
ミオはむっとして、彼の袖を軽く引いた。
言い返したい。けれど声を使うと本当に叱られそうだ。
その仕草に、エミルが笑う。
短く、でも自然に。
「……悪い。嬉しかったんだ」
何が、と目で問う前に、彼は少し視線を逸らして続けた。
「お前が歌えたこと」
その一言が、思いがけず深く刺さった。
ミオは喉元に手を当てる。
ここにまだ痛みはある。完全には戻っていない。
でも、もう“失ったままの場所”じゃない。
少女の声が、少し離れたところから柔らかく響く。
「ねえ、ミオ」
ミオが顔を上げる。
「次の門、行くんでしょ?」
問いというより、確認だった。
ミオは停止した守り手、その胸から取り出された記録核、闇へ続く螺旋階段を順に見た。
怖い。
もちろん怖い。
でも、第11話のときとは違う。あの頃の自分は、未知に引っ張られていただけだった。今は少し違う。自分から知りたいと思っている。
この都市が何のために作られたのか。
少女は誰なのか。
前の地図師は何を越えられなかったのか。
そして、自分の声は何を開くのか。
ミオはゆっくり頷いた。
エミルもそれを見て、迷いなく言った。
「なら準備がいる。喉の保護、記録核の解析、下層地図の仮設計。サーヒルにどこまで話すかも決めないとな」
現実的な言葉ばかりなのに、不思議と心が落ち着く。
彼がいると、未知が未知のままでも、前へ進める形に変わる。
二人は踵を返し、来た通路へ向かう。
その背中へ、少女の声が追いかけてきた。
「ミオ」
振り返る。
見えない声は、今度はひどく静かだった。
「今度はひとりで歌わなくていいからね」
ミオの足が止まる。
その言葉の意味を尋ねるより先に、少女はいつもの調子へ戻っていた。
「じゃ、また下で待ってる」
通路に入ると、広間の反響が遠ざかる。
けれどミオの耳には、まだ記録核の最後の言葉が残っていた。
継承者よ。
次の門で、待つ。
新しい地図が必要になる。
新しい歌も。
そしてたぶん、今度は本当に――
この物語の奥へ入っていく。




