第二章 追放医師エミル
ナザル婆の茶屋は、岩をくりぬいた小さな洞穴にある。
入口には干した杏。中には林檎茶と焦がし蜂蜜の匂い。外の世界が崩れそうな日に、ここだけは妙に静かだった。ナザル婆は昔、風路機関の技師だったという。だからか、この店には壊れた計器も古い設計図も、乾いた薬草と同じ顔をして棚に並んでいる。
ミオは丸椅子に座り、両手で帳面を握っていた。向かいにはエミル。祭礼のあとすぐに彼がここへ来いと目配せしたのだ。サーヒルの目を盗んで。
「空喪いの発作はこの二週間で三倍に増えた」
エミルは机に記録板を広げる。そこには患者名、発作時間、居住区画、回復の有無が整然と並んでいた。
「共通点は中央塔区画に近いこと。それと、発作前に“耳鳴り”や“誰かの声を聞く”症状が出ている」
ミオはすぐに書く。
“妹の声”
エミルは頷いた。驚かなかった。
「やはり」
“信じるの”
「全部は信じない。だが切り捨てもしない。医者がやるべきなのは、ありえない症状を笑うことじゃなく、なぜ起きたか調べることだ」
その答え方が妙にまっすぐで、ミオは少しだけ目を瞬いた。
ナザル婆が茶を置く。「この子は嘘が下手なんだよ。そこだけは王族っぽくない」
「元、だ」とエミルが言う。
追放医師。旧支配家系の末裔。中央塔の医療部門にいたが、総督府と対立して追放された男。噂はいろいろ聞いていた。傲慢だ、危険思想だ、余計な情で患者選別に従わなかった、など。
目の前の彼は、少なくとも患者を見捨てる人間には見えなかった。
エミルは記録板の一部を指で示した。
「君の事故の日と、空喪いの初期実験ログが重なっている」
ミオの指が止まる。
「つまり、三年前の崩落は単なる事故じゃない可能性がある。君の喉も、崩落の粉塵だけで失われたのではないかもしれない」
喉の奥がひりついた。
思い出そうとすると、いつもそこから先が白くなる。青い光。ユラの手。誰かの怒鳴り声。自分が叫んだはずなのに、そこだけ無音。
ミオは帳面に強く書いた。
“記憶が抜けてる”
「抜けているんじゃない。削られたのかもしれない」
ナザル婆が、まるで天気の話みたいに言った。
「忘れたんじゃなく、忘れさせられた記憶はね、石の割れ目に残るよ。残ったものは、いつか声になる」
ミオはその言葉を飲み込む。
エミルは低く息を吐いた。「中央塔下層の病棟を見ればわかる」
“行く”
「危険だ」
“行く”
「見張りがいる」
“じゃあ、あなたも来る”
一拍。
ナザル婆が吹き出した。
「負けたね、先生」
エミルは額を押さえて笑った。「君は喋れないのに強引だな」
ミオはそこで初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
その夜、二人は中央塔へ忍び込むことになる。
茶屋を出る前、エミルがふと立ち止まった。
「祭礼のとき、君は落ちるとわかって飛んだのか」
ミオは首を傾げる。
「怖くなかったのか」
彼女は少し考えてから、帳面に一行だけ書く。
“怖いままだと、助けたい人のほうが先に落ちるから”
エミルはその字をしばらく見つめていた。
それから、ひどく静かな声で言った。
「……そういうところを、俺は信用したい」




