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記憶を食む地下都市で、声なき地図師は恋をする 副題(カッパドキア4126、追放医師と奪われた歌の真実)  作者: 百花繚乱


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第一章 朝焼けの断崖で、死者の声を聞いた

朝のカッパドキアは、石の海に火が灯るみたいに始まる。


夜の冷えをまだ残した奇岩が、東から差す光で少しずつ赤金に変わっていく。尖塔みたいな岩のあいだを、薄い発電膜を張った熱気球が、静かに、祈るように昇っていく。地上で働けるのは灼熱が本格化するまでの短い時間だけ。だから地下都市デルインクユ・ノヴァの人々は、朝にすべてを詰め込んだ。祈りも、商売も、恋も、希望も。


ミオは断崖通路の縁にしゃがみ、耳を石へ当てた。


ひやりとした岩肌の向こうで、都市が鳴っている。


水路の細い震え。風路の空洞が吸う息。支柱の内側に走る小さな罅。石は喋らない。けれど嘘もつかない。喉を壊してからの三年間、ミオは人よりずっと石の声を信じて生きてきた。


右側の坑道は安定。左奥の梁は微細な剥離。下層三番路、継ぎ目に空洞化。

彼女は手早く帳面に線を引き、危険印をつける。


「また当てたのか」


上から影が落ちた。警備隊長サーヒルだ。灰色の外套を着た長身の男で、眉間の皺が常に消えない。褒めているのか警戒しているのかわからない口調で、ミオの手元を覗き込む。


ミオは鉛筆を走らせる。


“当てたんじゃない。鳴ってる”


サーヒルは鼻で笑った。「便利な耳だ」


便利。

その言葉にミオは何も返さない。便利になった代わりに失くしたものを、彼は知らない。


祭礼の鐘が、乾いた朝の空気を揺らした。熱気球祭の始まりだ。子どもたちが石段を駆け上がっていく。小さな靴音がぱたぱたと谷に響く。ミオの胸の奥がきりりと痛んだ。三年前まで、あの先頭を走るのは妹のユラだった。


ユラは朝の光が好きだった。

「世界でいちばん最初に今日を見つけた人みたいだから」と笑っていた。


風が吹いた。


乾いた砂の匂いと、焼ける前の岩の匂いを運ぶ風。その中に、ありえない音が混じる。


――お姉ちゃん。


ミオの背中が凍った。


心臓が一拍遅れ、次の瞬間には喉の古傷が熱を持つ。幻聴。そう思おうとした。でもその一瞬の遅れを、石は許さなかった。


低い、嫌な唸り。


崩落前の音だ。


ミオは顔を上げる。通路の先、小さな男の子が柵の外へ身を乗り出していた。気球の影を掴もうとしている。足もとの石が、もう割れかけていた。


ミオは走った。


サーヒルの制止を振り切り、斜面を蹴る。腰の命綱を岩角へ一巻きし、そのまま子どもへ飛びついた。石片がばらばらと落ちる。男の子の身体が宙へ傾く。ミオは片腕でその細い胴を抱え、もう片手を柵の残骸へ引っかけた。


肩に衝撃。皮膚が裂けるような痛み。


下は深い裂け目だった。朝日が射しても底が見えない。冷たい空気だけが口を開けている。


「離すな!」とサーヒルの怒鳴り声。


ミオは頷く。歯を食いしばり、子どもを胸に引き寄せる。男の子は泣きじゃくり、ミオの服をしがみついた。土と血の匂いが鼻に入る。


そのとき。


裂け目の奥から、はっきりと聞こえた。


――お姉ちゃん、まだ来ないで。


ユラの声だった。


鼓膜じゃない。骨に直接触れるみたいな声。忘れられるはずのない、幼くて、少し上ずった音。


ありえない。

ユラは死んだ。三年前、この地下で。ミオの地図のせいで。


頭ではそうわかっているのに、身体のほうが先に震えた。視界の端で、裂け目の奥に青い灯がまたたく。事故の日にも見た色だ。土埃の中で、誰かの叫びと一緒に、青く。


サーヒルが綱を引き、二人を引き上げる。男の子は母親の腕へ戻され、広場は安堵と騒ぎで満ちた。だがミオだけが裂け目から目を離せない。


――地図を見て。真ん中の塔を止めて。


二度目の声。


ミオの指先が震える。帳面を開く。けれど何も書けない。喉が、叫べない代わりに焼けつくみたいに痛い。


そのとき祭礼広場で悲鳴が上がった。


少年が一人、石畳に倒れる。目を見開いたまま口だけが動いている。声が出ていない。周囲の大人が後ずさりする。誰かが叫んだ。


「空喪いだ!」


空喪い。

名前から順に人を空っぽにしていく病。


群衆の輪を割って、一人の青年が膝をついた。黒髪、青い外套、余計な飾りのない長い指。彼は患者の顎を支え、呼吸を確かめ、腰の薬筒から吸入薬を取り出す。


「布を濡らして。喉を冷やす。急げ」


よく通る声だった。高くも低くもないのに、なぜか逆らえない。母親が泣きながら布を運ぶ。青年は少年の胸を軽く叩き、呼吸の間隔を整える。数秒後、痙攣が和らいだ。


サーヒルの顔が険しくなる。「エミル……なぜここにいる」


青年は立ち上がり、唇の端だけで笑った。


「死にかけを見捨てるほど、追放先で性格は悪くならなかった」


その視線がミオを捉える。彼はミオの喉の傷、肩の土、裂け目の奥を順に見て、静かに言った。


「君も、聞こえたのか」


ミオの息が止まる。


空では熱気球が揺れていた。地の底では何かが目を覚ましていた。


そして石壁の向こうから、亡き妹の声が、確かにまた囁いた。


――お姉ちゃん。まだ、わたしは終わってない。

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