第5話(最終話) 電池切れの、その先で
……ジャリッ。
鼓膜の裏側を錆びたヤスリで直接削り取られるような、不快な高周波のノイズが響いた。
鼻腔を支配していた花の香油と、シルフィの体温が混ざり合った「生の匂い」は、一瞬で、高熱のハンダが焼けるような鼻を突く異臭に塗り替えられる。
代わりに、喉の奥からせり上がってきたのは、古い鉄錆を煮詰めたような、どろりと重く、粘つく「不快」の味だ。
(あ……)
背中の感触が、瞬時に変貌する。
吸い付くような獣皮の快感は消え失せ、自分自身の汗と皮脂を吸ってゴワついた、じっとりと湿り気を帯びた煎餅布団の不快な質感が、皮膚をなぞる。
瞼の裏側で、寿命を迎えた蛍光灯が「ジィー……ジィー……」と、鼓膜の奥に響く低い耳鳴りを立てて明滅を繰り返している。
「……っ、ハァッ、ハァッ……!」
肺が痛い。
高山の澄み切った空気に慣れた肺にとって、この六畳一間の淀んだ、埃っぽい空気は、吸い込むたびに気管支を逆撫でする毒のようだ。
掌にあった「伝説の聖剣」の質量は、どこにもない。
指先にあるのは、内部のガスが膨張し、今にも弾けそうなほど熱を帯びたスマートフォンの、安っぽいプラスチックの感触だけだ。
[ 警告:電力が不足しています ]
[ システムを終了します…… ]
液晶から青白い光が消失し、暗転した画面がただの黒い硝子板へと戻る。
そこに映るのは、かつての「異世界の英雄」ではない。パジャマの襟元をヨレさせ、顔を土色に変えて震える、ただの惨めな男の輪郭が、暗闇にぼんやりと浮いている。
「シルフィ……?」
掠れた声を出してみるが、声帯がこわばって、自分の声さえ自分のものではないように低く、掠れている。
返ってくるのは、埃の詰まった換気扇が回る力ない摩擦音と、深夜の国道を走るトラックの遠い走行音が、地響きとなって床から伝わってくるだけだ。
そして。
嗅覚が、あの「致命的な異変」を捉えた。
寝る前に、確かに「カチッ」と音がするまで押し込んで閉めたはずの、あの白いドア。
その隙間から、何十年も地下で腐敗した泥を掻き出したような、強烈なカビ臭い冷気が、物理的な質量を持って足首をじっとりと撫でた。
垂直に伸びる黒い筋は、今や、僕の首がすっぽりと入るほどに、深く、深く、口を開けている。
部屋の隅、その闇の中だけが、ミシミシと、空間そのものが軋むような不気味な音を立てている。
ガチ、ガチ……。
すぐ近くで、乾いた骨と骨を打ち鳴らすような不規則な打突音。
暗闇の中から、こちらを値踏みするような「重い視線の重圧」だけが、粘りつく湿気となって僕の項にへばりついてくる。
恐怖値は、間違いなく人生の最高値に達している。
全身の血管が収縮し、心臓が爆発しそうなほど高鳴る。
本来なら、魔王すら一撃で屠れる魔力が溢れ出しているはずだ。
けれど、もうスマホの電源は落ちている。
黄金の聖剣も、守ってくれるヤンキーエルフも、ここにはいない。
僕はただ、「非力な一般人」として、その接近を許すしかなかった。
ビチャリ。
湿った生肉をコンクリートに叩きつけたような、不快な足音が枕元で止まった。
直後、首筋に、凍てつくほど冷たいのに、腐り落ちた内臓のような悪臭を放つ「湿った吐息」が、ゆっくりと、執拗に吹きかかった。
暗転したスマホの画面の中で、自分のものではない、何か歪なものの輪郭が、ゆっくりと僕の影に重なっていく。
僕は、震える指で、もう二度と点かないスマホの画面を必死に叩いた。
そこには、僕が放った「あの言葉」が、呪いのように焼き付いている気がした。
『お前ら、せいぜい頑張れよなw』
――ああ、そうか。
頑張らなきゃいけないのは、僕の方だったんだ。
耳元で、自分のものではない「ズズ、ズズ……」という喉を鳴らす音が、僕の心臓の音をかき消すほどに大きく重なった。
僕の心臓が打つ最後の一拍が、スマホのバッテリーが発する微かな脈動と、完全に同期し――。
そして、すべてが、止まった。
(完)
【連載版スタート】
本作(短編版)をプロローグとした「連載版」がスタートしました。 第1話〜第5話はプロローグ(短編と同内容)ですが、物語が分岐しループが始まる『第6話』から完全新規ルートとなります。 ここからが本当の地獄(天国?)です。ぜひ最初からお楽しみください。
恐怖を感じるたびにステータスが倍増するチートスキルを手に入れたので、最強のヤンキーエルフと組んで異世界を無双します 〜罵倒でスマホが聖剣に、暴力でパジャマが黄金の鎧に。ビビりな俺が世界最強に至るまで〜
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