第4話 亀裂と予兆
目覚めは、意識の底からゆっくりと、温かい蜂蜜の海を浮上していくような感覚だった。
肌を撫でるのは、かつて経験したことのない、狂おしいほどに柔らかな毛皮の敷物だ。魔王軍の将から奪い取った、北限にしか生息しないという白銀虎の毛皮。指先を沈めれば、指の付け根までが温かな産毛に吸い込まれ、そのまま溶けて消えてしまいそうな錯覚に陥る。
シーツは、月の光で織り上げたという最高級の精霊絹。寝返りを打つたび、滑らかな繊維が肌の上を音もなく滑り、重力という物理的な呪いから僕の肉体を解放していく。
(……ああ、もう、何もしたくない……)
掌の中で、かつて「伝説の聖剣」と呼ばれた重厚な質量が、頼りなく変質していた。
黄金の輝きは失われ、時折、ジャリッ……という不快な砂嵐の音を立てて点滅を繰り返す。握っている感触は、今や中身の詰まっていない薄いプラスチックの板――あの、冷たく平坦なスマートフォンの黒い鏡に、無慈悲に先祖返りしかけている。
[ 警告:バッテリー(恐怖値)が…………低下……シ……テム………… ]
脳の片隅で、どこか遠い銀河の彼方で鳴っているような、間の抜けた電子音が聞こえた気がした。だが、今の僕にとって、それは真夏の午後に遠くで鳴く蝉の声よりも意味をなさない。
「……いつまで寝とんじゃ、このボンクラ。ええ加減に起きんかい」
視界のすべてを占めるのは、僕を膝枕するシルフィの、白く透き通るような太ももの弾力だった。
彼女が身を揺らすたび、その柔らかな肉が僕のこめかみを優しく圧迫し、極上の安堵感を脳の奥深くまで叩き込んでくる。
鼻腔をくすぐるのは、常に僕を戦慄させていた「焦げた火薬の匂い」ではない。
彼女の指先から、そしてうなじから漂う、甘く重厚な花の香油の残り香。それと、日向で干したばかりの清潔な布のような、ひどく無防備で温かい、一人の少女としての体温の匂い。
その香りを深く吸い込むたび、僕の肺は「闘争」という不快な衝動を忘れ、「安息」という名の猛毒で満たされていく。
「ほれ、あーんや。自分、こういうのが好きなんやろ?」
シルフィの細くしなやかな指先が、僕の唇をそっと割り、冷えた大粒の葡萄を押し込む。
噛みしめた瞬間、パリッ、と繊細な皮が弾け、氷のように冷たく、暴力的なまでに甘い果汁が口内いっぱいに溢れ出した。噛む必要さえないほどに熟れた果肉が、舌の上でドロリと溶け、喉の奥を熱く滑り落ちていく。
「……美味い、シルフィ。もう、一生こうしていたい」
「……ほんま、勝手なことばっかり言うて」
シルフィが呆れたように笑った。
彼女の掌が僕の頬を包み込む。吸い付くような指先。かつて僕の襟首を掴み上げ、臓器を売れと凄んだあの「般若」のような殺気は、今やどこにも見当たらない。
耳元で囁かれる彼女の吐息は、湿り気を帯びた甘い愛撫となり、僕の心臓の鼓動をゆっくりと、穏やかなリズムへと書き換えていく。
(……もう、あの胃を焼くような泥水のコーヒーの苦味も、耳の奥を削る電話のベルも、背後を探る冷たい視線も、ここには届かない)
僕は、時折チカチカと点滅するスマホの画面を、ぼんやりと見つめる。
そこには、レンズの向こう側にいる「あなた」が映っている気がした。
他人の汗と脂の匂いが充満した電車に揺られ、上司の怒鳴り声に耳を塞ぎ、冷えた弁当を掻き込む、惨めな「あっち側」の住民たち。
(……可哀想に。お前らは、一生そこにいろよ)
僕は、シルフィの柔らかな腹部に顔を埋め、深く、深く、その温もりに溺れていった。
もう、魔王なんてどうでもいい。異世界の命運も、現実世界の責任も、すべてはどうでもいい。
「自分……ほんまに、ウチのこと好きなんやな」
シルフィの、これまで一度も聞いたことのない、鈴を転がすような、慈愛に満ちた「本当の声」。
それが僕の鼓膜を震わせ、脳を、脊髄を、細胞の一つ一つを完璧なきまでに「幸福」で焼き切った。
その瞬間。
ピコンッ、という、最後にして最大の、絶望的な電子音が鳴り響いた。
[ 確定:幸福値が許容限界を突破しました ]
[ 判定:対象者の『生存本能』が消失。世界維持のエネルギー源を喪失 ]
[ 帰還シークエンスを、強制執行します ]
「……え?」
シルフィの温かい手が、僕の頬から離れた。
いや、離れたのではない。
僕の手を、身体を、意識を、物理的な「熱」を伴った何かが、猛烈な勢いで吸い出し始めたのだ。
豪華な天幕が、バキバキと音を立てて、安っぽい壁紙のように剥がれ落ちていく。
どこまでも青かった空は、劣化した映像が乱れるように、砂嵐を立ててノイズに変わる。
「シルフィ! 待って、離さないでくれ!」
僕は必死に、彼女の細い手首を掴もうとした。
だが、僕の指が触れたのは。
血の通った温かい肌ではなく――冷たく、平坦で、脂に汚れた「スマートフォンの硝子板」だった。
剥がれ落ちた異世界の隙間から。
あの日嗅いだ、腐敗した泥に近い、カビ臭い暗闇の冷気が、質量を持って溢れ出し、僕の全身を包み込んでいく。
スマホの画面が、かつてないほど激しく、鼓膜を削るような砂嵐を上げ、僕の視界を真っ黒に塗りつぶしていった。
(続く)




