第3話 蹂躙の宴、煽りの二番底
「……おい、そこらのボンクラぁ」
背後から放たれた、剃刀の刃で鼓膜をなぞられるような冷たい声。
その震えが脳漿を直接冷やし、僕の身体はガタガタと、制御不能な痙攣を始める。
シルフィの靴底が、乾いた土を執拗に踏みしめる「ザッ、ザッ」という硬い音。
それが僕の心臓の拍動を強制的にジャックし、死への秒読みを刻む。
「さっきから歩幅が合っとらんのじゃ。ウチの歩調を乱して、楽しいんか? あぁん?」
首筋に、氷のように冷たい吐息が吹きかかった。
シトラスの香りの奥に潜む、焦げた火薬のような、あるいは煮え繰り返る怒りのような、喉を焼く刺激臭。
それが鼻腔を突き抜けるたび、胃の底から苦い液がせり上がり、全身の毛穴が一つずつ、氷の針を刺されたようにざらりと波打つ。
「おい、前。ゴミが溜まっとるぞ。……まとめて片すぞ、ついてこい!」
シルフィが地面を強く蹴り、漆黒の魔王軍へと突っ込んでいく。
舞い上がる乾いた土埃の匂いと、彼女が振り下ろす双剣が空気を鋭く裂く「ヒュンッ」という風切り音が、戦場の幕開けを告げる。
だが、多勢に無勢だ。
鋼と鋼が激突する「ガギンッ!」という耳を刺す衝撃音。
次第に、シルフィのこれまでに聞いたことのない、荒く、余裕のない吐息が混ざり始める。
黒い鎧の集団が、飢えた獣のように彼女を包囲し、鋭い槍の穂先が彼女の細い肩口をかすめる。
「……っ、この、腐れ雑魚どもがぁッ!」
シルフィの叫びが、無機質な金属音にかき消される。
彼女の身体から漂っていた清潔な香りが、じっとりと滲む汗と、傷口から流れる「鉄錆の匂い」に上書きされていく。
(やばい……シルフィが、押されてる……?)
背筋を氷の指でなぞられるような、戦慄が走る。
彼女が負ければ、次は僕だ。あいつらに八つ裂きにされ、この硬く冷たい地面にぶちまけられる。
死への想像力が、脳漿を沸騰させるほどのストレスとなって全身を駆け巡る。
『ピコン!』
[ 恐怖値を検知:生存本能の暴走 ]
[ 充電率:350%……出力制限解除。聖剣が臨界点に到達します ]
掌の聖剣が、僕の絶望を吸い込み、ドクンドクンと生き物のように激しくのたうち回る。
黄金の柄からは、皮膚を直接焼くような焦熱の波動が溢れ出し、握りしめた手のひらの皮が「チリッ」と焼ける嫌な臭いが鼻を突く。
だが、そんな痛みすら、死の恐怖に比べれば微々たる刺激に過ぎない。
「シルフィ、どけえええええええッ!!」
僕は、彼女の背後から跳躍し、限界まで魔力を孕んだ聖剣を横一文字に薙ぎ払った。
「バギィィィッ!!!」
空間そのものが、巨大なガラス板のように粉砕される乾いた破砕音が、世界を支配した。
音速を超えた衝撃波が、真空の刃となって大気を削り取る。
一瞬前までシルフィを追い詰めようとしていた漆黒の鎧たちが、まるでおもちゃのプラスチックのように、音もなくバラバラに分解され、塵へと変わっていく。
鋼が拉げ、肉が爆ぜる「グシャリ」という鈍い感触が、黄金の籠手を通じて腕の骨までズシンと響く。
薙ぎ払ったあとに残されたのは、地形が巨大な匙で抉り取られたような深い溝と、真空に吸い寄せられた大気が悲鳴を上げて埋まっていく轟音だけだった。
「……はぁっ、はぁっ……」
喉の奥には、砂塵と焦げたオゾンの味がこびりついている。
耳を劈く静寂。
すぐ隣で、シルフィの荒い呼吸が止まる。
彼女の細い肩が、驚愕でわずかに震えているのがわかった。
「……自分。……あんな、凄まじいもん、隠してたんか」
彼女の声から「鋭利な殺気」が消え、代わりに、これまで一度も向けられたことのない「重い畏敬」と、微かな熱を帯びた吐息が僕を貫く。
シトラスの香りが、彼女の急上昇した体温と共に、ふわりと僕の鼻腔をくすぐった。
その日の夜。
奪い取った豪華な天幕の中で、シルフィの態度は一変していた。
「……おい。あーんしろ。戦った後は、これくらい食わんと身が持たんやろ」
シルフィが、ナイフの先に刺した肉を僕の口元に突き出す。
そこにはもう、昼間の刺すような殺気はない。
僕は震えながら、その肉を口に含んだ。
炭火で炙られた極厚の肉塊。
噛みしめた瞬間、ナッツのように芳醇な脂の香りが爆発し、熱々の肉汁が舌の上で暴力的に暴れまわる。
カリカリに焼かれた表面の塩気と、赤身の濃い旨味。
喉を滑り落ちるその、ぬるりと熱い重圧は、まさに至福。
「……美味い」
その一言が漏れた瞬間、心臓が「キュッ」と冷たく収縮するのを感じた。 胃に落ちた脂の甘みが、まるで聖剣から力を吸い取る『寄生虫』のように思えてならない。 舌がとろけるほどに、指先の聖剣から魔力がサラサラと、砂時計のようにこぼれ落ちていく。 「あぁ、ダメだ。こんなに美味くちゃ、僕は……『無能』に戻ってしまう」
幸せを感じるたびに、僕は弱くなる。 美味いものを食うことが、自分の首を絞める自殺行為のように思えて、僕は震えながら次の肉を口に運んだ。
僕は、暗転しかけた画面に映る自分の顔が、ひどく青ざめていることに、まだ気づいていなかった。
(続く)




