第2話 天使の顔した充電器
「異世界ひゃっは―――――!!」
僕の絶叫が、どこまでも続く青い空に吸い込まれていく。
頬を撫でる風は、甘い花の香りを運んでくる。
足元の草はフカフカの絨毯。
背中に背負った聖剣の重みは、僕がこの世界の「強者」であるという、何よりの証明だ。
……ああ、最高だ。
なんて、平和なんだろう。
心の底から、安心感が湧き上がってくる。
「……あ~、幸せ……」
その言葉が口をついて出た、その瞬間だった。
『ピコン』
聞き覚えのない、間の抜けた電子音が鳴った。
目の前に、無機質なウィンドウが浮かぶ。
[ 警告:『安心感』を検知しました ]
[ 恐怖ゲージが低下しています……残量 5% ]
「……え?」
ガクンッ、と膝が折れた。
背中に感じていた頼もしい聖剣の質量が、一瞬で消え失せる。
代わりに、あの不快な、じっとりと熱を帯びたスマートフォンの感触が、掌に戻ってくる。
黄金色に輝いていた伝説の鎧は、風に吹けば飛ぶような、ヨレヨレのパジャマへと変換されていく。
[ モード切替:一般人(最弱) ]
「ちょ、待っ……!?」
慌てて周囲を見渡す。
さっきまで「雑魚スライム」に見えていた景色が、一変していた。
目の前に立っているのは、一匹のゴブリン。
だが、今の僕の目には、それがまるで「凶悪なヘビー級プロレスラー」のように巨大で、筋肉質な化け物として映る。
「グギャ、グギャギャ!」
ゴブリンが、ニヤリと笑った。
その口から滴る黄色い唾液の臭い。
錆びた棍棒についた、赤黒いシミの生々しさ。
「ひぃッ……!」
足がすくむ。
戦わなきゃ。スマホを……いや、聖剣を振るうんだ。
けれど、腕が鉛のように重い。
今の僕は、ただの運動不足の現代人だ。あんな丸太みたいな腕で殴られたら、頭蓋骨なんて熟れたトマトみたいに弾け飛ぶ。
逃げろ。
本能が警鐘を鳴らす。
「誰か! 助けッ……!」
ドガッ!!
曲がり角などない大草原で、僕は「何か」に思いっきり衝突した。
華奢な、それでいて芯のある感触。
ふわりと、鼻先をくすぐる柑橘系の爽やかな香り。
「いッ……!」
一人の少女が立っていた。
長い耳。透き通るような銀色の髪。宝石のような碧眼。
間違いなく、エルフだ。
異世界転生モノで、必ず主人公を助けてくれる、慈愛に満ちた聖女様――。
助かった。
僕の頬が、安堵で緩みかける。
「あ、あの! すいませ――」
少女が、ゆっくりとこちらを見下ろした。
その美しい唇が、微かに動く。
「……あぁ?」
それは、地獄の底から響くような重低音だった。
可憐な唇から放たれたとは到底信じられないその声には、深夜の繁華街で肩がぶつかった時に聞く、あの独特の「殺気」がたっぷりと込められていた。
「え?」
「おいコラ。どこ見て歩いとんじゃワレェ」
……はい?
耳を疑った。
鈴を転がすような美声じゃない。
治安の悪い駐車場で響く、見事な巻き舌。
少女が、眉間に深い皺を寄せ、整った顔を「般若」のように歪めて近づいてくる。
「あ、いや、その……ゴブリンが……」
「あぁん? ゴブリンやったらどないしてん。よそ見してぶつかってええ理由にならんやろが。えぇ?」
少女が、僕のパジャマの襟首を掴み上げる。
至近距離。
美しい瞳の奥にある、絶対零度の殺意。
柑橘系の香りに混じって、なぜか微かに「安物のタバコの煙」のようなスモーキーな匂いが鼻を突く。
「慰謝料の準備はできとんのかコラ。金がないなら臓器で払うか? あぁ?」
――怖い。
ゴブリンなんて目じゃない。
言葉が通じるのに話が通じない、この理不尽な暴力の気配。
胃の底が冷え込み、心臓が早鐘を打つ。
「殺される」という確信が、背筋を氷柱のように貫いた。
その瞬間。
『ピコン!』
[ 恐怖値を検知しました ]
[ 対象:ヤンキーエルフへの畏怖(社会的ストレス) ]
[ 急速充電開始……30%……80%……120%!! ]
「ひぃッ、す、すいませんんんん!!」
全身の血管が、恐怖で収縮すると同時に、爆発的な魔力が逆流する!
掌のスマホが、再び熱を失い、冷徹な鋼の感触へと変わる。
パジャマの袖が弾け飛び、黄金の籠手が再生される。
「グギャァ!!」
追いついてきたゴブリンが、棍棒を振り上げた。
だが、遅い。
今の僕には、目の前のエルフにドツかれる未来の方が、背後のゴブリンの一撃よりも遥かに恐ろしい!
「邪魔だああああああああ!!!」
僕は、エルフへのジャンピング土下座のような勢いで身体を急降下させ、彼女の手を強引に振りほどいた。
そのまま地面に額をこすりつける――寸前。
沈み込んだ勢いと回転力を利用し、裏拳を後方へと放つ!
ズドンッ!!!
大気が破裂する音。
振り返ることなく放った一撃は、ゴブリンの上半身を消し飛ばし、遥か後方の山肌に巨大なクレーターを穿った。
「……は?」
襟首を失い、宙を掴んだままのエルフの手が、止まる。
静寂。
ただ、ゴブリンだったものが風に塵となって消えていく音だけが響く。
僕は、肩で息をしながら、恐る恐る目の前の少女を見上げた。
彼女は、ポカンと口を開け、僕の拳と、消し飛んだ山を見比べている。
やばい。やりすぎたか。
さらに因縁をつけられる――。
そう思って身構えた、その時だった。
「……自分、やるやんけ」
少女の般若面が、パァッと花が咲くように明るい笑顔に変わった。
「ウチ、強い男は嫌いじゃないで。……名前、なんて言うん?」
ニカっと笑うその顔は、悔しいほどに可愛らしく。
そして、その瞳の奥には、新たな「獲物」を見つけた肉食獣のような光が、怪しく揺らめいていた。
『ピコン』
[ 警告:新たなストレッサー(ヒロイン)との接触を確認 ]
[ 判定:『極上のパワハラ気質』 ]
[ 推奨:彼女の側なら、常に恐怖値満タンを維持可能です ]
彼女の笑顔を見て、僕は悟った。
これは「運命の出会い」ではない。
罵倒され、脅されることでしか強くなれない僕にとっての、
最悪で最高の「急速充電器」を見つけてしまったのだ、と。
(続く)




