降りられなさの合い言葉
――名のない出来事の記録――
Ⅰ
その日、何かが決まったらしい。
だが、誰が決めたのかは分からなかった。
決まったという言葉だけが、
会議室の空気に薄く漂っていた。
誰も異議を唱えなかった。
異議を唱えるほどの確信も、
異議を唱えないほどの納得も、
どちらもなかった。
ただ、
「決まった」という形式だけが先に歩き出した。
その場にいた人々は、
それぞれの胸の奥に、
言葉にならない小さなざらつきを持ち帰った。
問いは立たなかった。
問いを立てる場所が、
すでにどこにもなかった。
Ⅱ
翌日、
その決定は淡々と実行された。
誰も反対しなかった。
反対する理由がなかったのではなく、
反対するための言葉が見つからなかった。
「仕方がない」という言葉が、
便利な避難所のように使われた。
だが、
仕方がなかったのは決定ではなく、
言葉のほうだった。
Ⅲ
数週間後、
小さな問題が起きた。
問題と呼ぶには些細で、
問題と呼ばないには重すぎる出来事だった。
誰が悪いのかは分からなかった。
誰も悪くないようにも見えた。
ただ、
あの日の決定が、
静かに影を落としていることだけは
誰もが感じていた。
しかし、
その影に触れる言葉は、
どこにも見当たらなかった。
Ⅳ
ある人は、
自分がもっと強く言うべきだったのではないかと
夜中にふと思った。
別の人は、
自分が何も言わなかった理由を
思い出せずにいた。
また別の人は、
あの沈黙が正しかったのかどうかを
今も決められずにいた。
誰も間違っていなかった。
誰も正しくなかった。
ただ、
引き受けられなかった時間だけが
静かに積もっていった。
Ⅴ
季節が変わる頃、
その出来事はもう話題にされなくなった。
忘れられたのではない。
語られなかっただけだ。
語られなかったものは、
消えるのではなく、
形を変えて残る。
沈黙の中で、
断絶のようなものが生まれた。
それは争いではなく、
誤解でもなく、
ただ、
戻る理由が見つからなくなったというだけの
静かな断絶だった。
Ⅵ
そして今も、
その出来事は終わっていない。
終わったことにされただけで、
終わってはいない。
誰も責められない。
誰も免れない。
残響のように、
その日の沈黙が
時折、胸の奥で揺れる。
それが、
この物語のすべてである。
結末はない。
結末がないことだけが、
唯一の結末である。




