第2話 『誰よりも優しくて、お人好しな国王』
ガタガタと響く振動と物音で、意識が浮かび上がった。
全身の節々がきしんでいるが、無理を押してなんとか上体を起こす。途端、鋭い光が目を刺した。
「……ここは?」
まぶたの隙間から、かろうじて見える椅子の影。そこに座っているのは、おそらくルミナだ。そう思い、かすれた声で問いかける。
だが、返事をしたのはその隣にいたもう一人だった。
「あれから君、気絶しちゃってねー。かよわい私と、もっとかよわいルミナが馬車まで運んだんだよ」
得意げに語るリンシア。だが、フードの影でその表情までは読み取れない。
彼女の言葉を裏付けるように、右手を見やると、馬車の窓越しに森の景色が流れていた。木々はほのかに紫がかり、夜明け前の気配が辺りを包んでいる。
「ずいぶん長く寝てたんだよ、君。もうすぐ朝だよ」
「……逃げられたのか、あそこから」
「そ。何もかも君のおかげだよ、英雄クン」
おどけた口調の裏に、ほんのわずかな疲れがにじんでいた。
きっと、俺が目を覚ますまで付き添ってくれていたのだろう。
「色々と、リンシアのおかげだ。だから、その……ありがとう」
「殊勝だねぇ。でも、私よりこの子に言ってあげて。今は寝ちゃってるけどね」
視線を落とすと、フードを深くかぶった小柄な体が、ゆらゆらと舟をこいでいる。
さっき目の前にいたこの子が、ルミナ——なのだろう。
「その子が言ったんだよ。“ノアさん置いてくのはダメですー”ってね」
「……おい」
「ふふっ」
からかうように笑いながら、リンシアは隣のルミナをそっと抱き寄せた。
俺はゆっくりと身を起こし、声を落として尋ねる。
「御者は?」
「知り合いさ。金さえ握らせれば、世界一信用できるタイプ。逆もまた然り、だけどね」
「そりゃ頼もしい」
肩をすくめつつ、ちらりと前方をうかがう。
御者の背中はがっしりとしていて、どうやら壮年の男のようだった。
それよりも——聞いておきたいことがある。
「さて、これからどうする?」
「ふふふ、よっくぞ聞いてくれた! 用意してあるのだよ、アレを!」
「アレ……?」
リンシアは得意げな笑みを浮かべながら、ぐいっと身を乗り出す。
「聞いて驚くな? 秘密基地だっ!」
「……はあ」
「はい、ノアくん。リンシアちゃんポイント減点ー」
指でバツ印を作ってみせるリンシアに、俺は戸惑うしかなかった。リンシアちゃんポイントって何だよ。
だが俺がその疑問を口に出す前に、彼女は言葉を続ける。
「ま、とりあえずはそこに腰を落ち着けようって話。そのあと、次の目的に動こうって思ってる」
「次の目的?」
「ふふ、それはまた後々のお楽しみということで……」
言葉を切ると、リンシアは大きく伸びをし、そのまま腕を組んで椅子に寄りかかる。
「ごめん、ちょっとだけ寝る。さすがに、ね」
「ああ。お疲れさま、ゆっくり休んでくれ」
俺の言葉に返事はなく、やがてリンシアの寝息が聞こえ始める。
俺は視線を窓へ戻し、流れる景色をぼんやりと眺めていた——そのとき。
「ちなみに、リンシアちゃんポイントがゼロになったら、目的地まで走ってもらいます」
「えっ!?」
その一言を残して、リンシアは再びすやすやと寝息を立てはじめた。
***
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
馬車の窓越しに見える木々は、先ほどまでの紫がかった色から、すっかり青々とした緑へと変わっていた。
夜明けはとうに過ぎ、朝の光が景色を照らしている。
ルミナはじっと窓の外を見つめていた。
その表情は、まるで初めて目にする景色に心を奪われているかのようだ。
外に出られたことが嬉しい、というより、まるで彼女にとって「外の世界」そのものが新鮮で、珍しいものかのようにも見えた。
俺もまた、流れる景色を眺めながら、馬車の進む先を目で追う。
やがて、遠くの空を切り取るようにして、高く積まれた灰色の煉瓦の壁が見えてきた。
あれが目的地なのかもしれない。
――かもしれない、と思うのは、まだリンシアが起きておらず、確認のしようがないからだ。
無理に起こすのも気が引けて、そのままにしていた。
……と、隣のルミナがこちらにちらりと視線を向ける。
言葉にするのをためらっているような、それでいて何かを聞きたがっているような、不思議な空気が流れた。
俺は軽く息をついて、小さな声で彼女に話しかける。
「ルミナ。起きてから、ずっと外見てたな。珍しいのか?」
「あ、ええっと……はい、そうです」
「敬語はいらないよ。もし敬語のほうが楽なら、それでもいいけど」
俺の言葉に、ルミナは小さく「うん」とだけ答えた。それきり、口を閉ざしてしまう。
そういえば彼女も、この世界の生まれではなかった。
見慣れぬ景色に目を奪われるのも当然だろう。だが、それを言葉にするかどうかは人それぞれで、俺はその点を忘れていた。
ちくりと胸が痛み、俺は話題を変えるように口を開いた。
「魔法って、知ってるかな?」
「魔法……? おとぎ話の?」
「はは、君の世界ではそうなんだな。俺の世界だと、もっと身近なものだったよ。たとえば……こんなふうに」
指先に意識を集中させると、小さな火の粒がふっと現れる。
けれどそれはすぐに風に吹かれて、儚く消えてしまった。
「大したものじゃないよ。冷めた料理を温めたり、服の汚れを落としたり……おとぎ話に出てくるような壮大な魔法じゃなくて、ちょっと便利な“道具”みたいなもんだ」
「……ふふ。そうなんですね」
「お、初めて笑ったな」
俺がそう言うと、ルミナは恥ずかしそうに顔を伏せる。
けれど、その頬はほんのりと赤く染まっていた。
緊張した空気が、少しだけ和らいだ気がする。
「俺はそんな魔法を研究してた。向こうの世界じゃ“賢者”って呼ばれてたんだ」
「賢者……」
「ああ。なんか、すごそうに聞こえるだろ?」
「すごい、です……」
いつの間にか戻っている敬語に、俺は小さく苦笑した。そしてふと、遠い空を見上げる。
あの世界では、俺はいったいどんな存在として記憶されているのだろう。親や友人の顔が脳裏をよぎりかけるが、それを意識的に追い払う。
今は、別のことを伝えるべきだと思った。
「……君は、元の世界に帰りたいと思ってる?」
「えっ?」
ルミナが目を丸くする。慌てて俺は付け加えた。
「ああ、すぐにって話じゃない。俺はね、この世界に俺たちを召喚した技術を研究してるんだ。それを応用すれば、いつか“帰りたい人が帰れる”道を作れるんじゃないかって、そう思ってる」
その願いは、俺が奴隷だった頃からずっと抱いていたものだ。
召喚に使われた術式を解析し、再構築することで、元の世界へ戻す手段を作る。夢物語かもしれないが、不可能とは限らない。
だが、ルミナは急にうつむき、沈黙してしまう。顔が影に隠れて、表情が読み取れなかった。
「もちろん、ただ帰すだけじゃない。必要なら、この世界と元の世界を行き来できる“扉”のような仕組みにするつもりだ。それなら、もしこの世界に残りたいと思っても——」
「ノア。その考えは、危険すぎるよ」
静かに、けれど確かにその言葉を遮ったのは、先ほどまで目を閉じていたはずのリンシアだった。
思わぬ反応に、俺はわずかな苛立ちを覚えるが、それを表には出さず問い返す。
「……危険って、どういう意味だ?」
「本気で分かってないなら、やめておいたほうがいい。双方向に行き来できる技術が、なぜ今この世界に存在していないか……考えたことはある?」
リンシアの声は低く、鋭く、これまでに聞いたことのないほど真剣な響きを帯びていた。
その迫力に、俺は反論の言葉を飲み込み、思わず黙ってしまう。
だが次の瞬間、リンシアは急に声の調子を変える。
「……ま、それはさておき! そろそろ着くよ! ノア、ルミナ、起きて起きて!」
「いや、ルミナは起きてるし、そもそも俺たちどこに向かってるのかも聞いてないんだけど」
「えー、そこは雰囲気で察してよー」
さっきまでの重苦しい空気が嘘のように、いつも通りの調子で騒ぎ出すリンシア。
結局、"危険"の正体も、彼女の本心もつかめないまま、俺たちを乗せた馬車は目的地へと進んでいった。
***
検問を抜けて最初に目に飛び込んできたのは、石造りの落ち着いた街並みだった。
中央の広場には美しい噴水が据えられ、その周囲では街路に並ぶランプの下、人々が穏やかに談笑している姿が見える。まるで戦いや混乱とは無縁の、平和な日常がそこにはあった。
一瞬、自分の元いた世界に戻ってきたのかと錯覚するほど、落ち着いた光景に目を奪われていると——突然、背中に軽い衝撃が走った。
「ほらほら、つまってるつまってる〜」
「押すなって、リンシア」
「じゃあもっと早く歩いてもらおうかな?」
いたずらっぽく笑いながら、リンシアは腕を後ろに組み、くるりと振り返って俺をからかう。思わずため息が漏れたが、彼女はまるで気にする様子もなく、そのまま軽やかに歩いていった。
ふと、背後で足音が止まるのに気づき、振り返る。立ち止まっているルミナの様子が気になった。
「ルミナ?」
「……あ! す、すみません。つい、ぼーっとしてしまってて」
小さく頭を下げる彼女に、リンシアが陽気に声をかける。
「まあ、ずーっと馬車に揺られてたからね。安心したまえ、ルミナちゃん。帰ったらふかふかのベッドが待ってるぞー!」
ルミナは小さく頷いて歩き出したが、視線は落ち着きなく揺れていた。時おりリンシアを見て、また街並みを見て——まるで何かを測っているかのように。
しかし次の瞬間、彼女の視線がぴたりと一方向に止まる。つられて俺もそちらを見ると、足が止まった。
リンシアがこちらに手を振っている。彼女の立っているその場所は、どう見ても——路地裏だった。
***
「たっだいまー!」
そんな薄暗い路地裏に似つかわしくないほど明るい声が響き、リンシアがガラスにひびの入った古びた扉を開け放つ。
中はがらんどうで、人の気配はまるでない。それでもリンシアは気にする様子もなく、ずかずかと中に入っていった。
「リンシア、ここって……誰も住んでないのか?」
「うん、いないよー。私一人」
「……あれ? この前“国を作る”って言ってなかったか?」
「言ったよ? だから、ノアとルミナちゃん。あなたたちが最初の国民ってわけ」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。だが数秒ののち、頭の奥で言葉の意味がつながっていくにつれ、ずしりとした頭痛のようなものが押し寄せてきた。
そういえば——。
彼女の“仲間”について、何も聞かされていなかった。だがそれは、存在しないから聞いていなかったのだ。
「まーまー、これからでしょ! 誰もがうらやむ超大国、作ってこうじゃないか!」
あっけらかんとした口調でそう言うと、リンシアは俺たちを手招きしながら建物の奥へと進んでいく。
通されたのは、丸いテーブルが中央に据えられ、その周囲に使い込まれた椅子が数脚置かれている部屋だった。
「さて、改めて。私がこの国を作る目的について話しておきたい」
部屋の奥にある一際大きな椅子に腰を下ろし、足を組んで微笑むリンシア。
俺もその近くにある椅子に適当に腰を落ち着けた。
「私はね、前にも言ったけど……この世界が嫌い。召喚された人を奴隷のように扱うこの社会が、どうしても許せないんだ」
声のトーンは穏やかだが、言葉には確かな怒りが滲んでいた。
ルミナは戸惑ったように立ち尽くしていたので、空いている椅子を勧めると、おずおずと腰を下ろした。
「だけど、一つだけはっきりさせておきたい。私は、戦争がしたいんじゃない。革命がしたいわけでもない。これだけは誤解しないでほしい!」
声を荒げて立ち上がったリンシア。その目には、誇張のない真剣な光が宿っていた。
そして、続く言葉は——あまりにも理想主義的だった。
「私は、この世界を“好き”になりたい。召喚された人も、この世界の人々も、手を取り合って生きられる。そんな夢みたいな場所を、この国で実現したいの」
それは確かに甘く、綺麗ごとかもしれない。
だが彼女は、それを臆することなく、まっすぐな目で言い切った。
「だから私は、この国の王を——国王を任命したい」
言葉に緊張感が走る。
「もちろん、これは強制じゃない。私なりに考え抜いて出した答えだけど、もし反対があるなら、ちゃんと聞く。任命された当人が嫌なら、それも受け入れるつもりだよ」
そう言って、大きく息を吸い込むと、彼女はにこりと笑った。
「この理想を実現するにはね、誰よりも優しくて、お人好しな、そんな国王がふさわしいと思うの。だから――」
リンシアが指をさす。
その指の先にいたのは——
「ルミナちゃん。君に、この国の王になってほしい」
それは、間違いなくルミナに向けられていた。