第1話 『地の底の賢者』
こんなはずじゃなかった。
きっと、この世界に召喚された人間は皆、そう思うだろう。
だが、後悔する暇などない。
鉱石を砕く音が、地の底に響いていた。
砂塵が視界を曇らせ、呼吸するたびに肺の奥までザラついたものが入り込む。
ここは、光も風も届かない地下。
そして、俺たちの“始まりの場所”だった。
つるはしを握り、ひたすら柔らかい土を探しては叩く。
体力を温存する術を知らなければ——あっという間に、ああなる。
ガクン、とすぐ側で膝から崩れ落ちる者がいた。
数日前まで、威勢のいいことを言っていた男だ。だが、過酷な労働とわずかな食料は、彼の気力も体力も根こそぎ奪い去ったらしい。ぜいぜいと喘ぐだけの肉塊に、監督の足音が近づいてくる。
「ちっ、また壊れたか。本当にここの奴隷は不良品ばかりだな」
監督は倒れた男の顔をブーツの先で無造作に転がすと、心底うんざりしたようにため息をついた。そして、近くにいた別の看守に顎をしゃくる。
「おい、そいつを“穴”に捨ててこい。使えねえ道具は置いておくだけ無駄だ」
“穴”と呼ばれているのは、採掘が終わって放棄された深い縦穴のことだ。
看守たちは慣れた手つきで男の両手両足をつかむと、まるでゴミ袋でも運ぶかのように引きずっていく。
「や……め……」
男のかすれた声は、誰の耳にも届かない。
数秒後、地の底から、何かが落ちていく短い悲鳴と、それに続く鈍い音が響いてきた。
それだけだ。誰も手を止めない。気にも留めない。一人の人間が、ただの“ゴミ”として処理された。それが、ここの日常だった。
俺は唇を噛み締め、やり場のない怒りを叩きつけるように、目の前の岩壁につるはしを振り下ろした。
だがその瞬間、俺をあざ笑うかのように、両腕にずしりと硬い手ごたえが走る。
「……ちっ」
今度は、抑えきれず舌打ちが漏れた。
ぎらぎらと輝く銀色の鉱石が、掘り出した穴の奥からこちらを睨んでいた。
俺は睨み返しながら、先ほどの男の片割れ……監督と呼ばれる、丸々と太った男へ声を上げる。
「出ました。銀鉱石です」
声に反応した監督が、こちらへ向かってくる。「お、見つけたか」先ほどの不機嫌はどこへやら、監督は俺の掘り出した穴を覗き込み、下品な笑みを浮かべた。
「ほう、またやったか! やはりお前は優秀な“道具”だ」
男は涎でも垂らしそうな顔でぎらつく鉱石に手を伸ばし、乱暴に壁から引き剥がした。その重みを掌で確かめるように堪能すると、にやにやと俺を見下ろす。
「この調子で俺の懐を潤してくれよ、賢者様」
それだけ言うと、監督は俺の背中を、骨に響くほど強く叩いた。よろめいた俺を見て、満足そうに喉を鳴らし、どこかへと歩いていく。
俺は咳き込みながら、その背中に殺意にも似た視線を突き刺した。
やがて、鐘の音が三つ、地の底に響いた。
それが、一日の終わりを告げる合図だった。
道具を片付け、狭い通路を列になって歩く。
誰も喋らない。疲労と埃にまみれた顔が、ただ静かに地面を見つめている。
今夜も、生きて戻れた。
それだけで充分だと、誰かが言っていた。
けれど、そんな言葉で満たされるほど、俺の中は綺麗じゃない。
地下深くの生活区画。石壁に囲まれた窪みに、干し藁のベッドが一つ。
寝返り一つで壁の温度が伝わるような空間に、黙って腰を下ろす。
俺が“賢者”と呼ばれていたのは、前の世界での話だ。
それも、もう半年ほど前になる。
賢者というのは、多くの魔法理論を発見し、体系化した第一人者のこと。
要するに、研究者だ。
戦うことも、人を導くことも、俺の本分じゃない。
けれど、あのとき——森の中心に、空中にぽっかりと開いた黒い円を見つけてしまった。
どうしても気になって、仲間の制止を振り切り、俺はその“穴”に手を伸ばした。
触れた瞬間、胃の底を掴まれるような吐き気に襲われ——気がつけば、この世界に落ちていた。
じゃらり、と首元から重い音が鳴る。
肌に食い込む鎖。これは、魔力を吸い取る特別製だという。
俺が反抗できない理由も、逃げられない理由も、すべてこの鉄にある。
この世界は、異世界から来た人間を奴隷にしている。
最初に気付いたときは、もう手遅れだった。
状況を呑み込めていない俺を拘束し、首枷で繋ぐまでには、数分ほどしかかからなかった。
激しい後悔の念を遮るように、独房の鉄扉がきぃ、と軋みながら開いた。
石壁に囲まれたこの狭い空間に、ふっと風のような気配が差し込む。
外の明かりに目を細めると、見慣れた看守の影が立っていた。
だが、その後ろにはもうひとつ、細身の影がある。
「起きてるな。新しい監督がおまえに挨拶したいそうだ」
看守は呆れたように言って、壁にもたれた俺を一瞥する。
そして、その後ろから現れた人物に、思わず目を見張った。
「……ここが、特別監視区画の独房? ふぅん……なるほど、なるほど」
軽やかな足取りで、まるでこの場所が牢ではないかのように、その女は足を踏み入れた。
外套のすそが揺れ、上質な皮のブーツが床を鳴らす。
首には装飾の施された金具、肩にはどこか高貴な家柄を示す刺繍。
まるで監督というより、王城から来た視察官のような装いだった。
女の顔立ちは整っており、腰まで届くほどの長い金髪が、灯りに照らされて柔らかく輝いている。
その瞳は深い森を思わせる鮮やかな緑色で、冷静さと知性を湛えていた。
「あなたが……“賢者”?」
静かな声が、石壁に囲まれた独房に響いた。
その言葉に、空気が一瞬、硬くなる。
だが彼女は気にした様子もなく、すっと手を差し出してきた。まるで、握手でも求めるかのように。
「はじめまして。私はルティナ・メルヴァイン。この区域の新任監督官を任された者だよ。君の名前は?」
名乗りながら浮かべた笑みは柔らかく、それでいて曖昧さがなかった。
その目はまっすぐ、真正面から俺を捉えていた。
支配でも、同情でもない。ただ純粋に——関心があった。
「どうも、408番です」
ここでは、番号が俺の名前だ。その方が管理が楽だから、とこの名前を与えられるときに聞かされた。
だが、彼女は俺の返答にかぶりをふるうと、
「君の名前だよ。その可愛くない名前は、今は閉まっておいてほしいな」
「……ノアです」
「ノアくんね、いい名前じゃないか」
ルティナは、うんうんと楽しげに頷いていた。
まるで旧知の友人と会話でもしているかのように、自然で、柔らかい微笑みだった。
彼女はなぜ、こんなにも無防備に、こんなにも愉しそうに俺に話しかけてくるのか。
この場所が、どんな地獄かも知らずに。
その疑問を、喉の奥で転がしながら言葉にしようとした――その瞬間だった。
彼女は少しだけ口元を緩め、いたずらっぽい光をその瞳に宿しながら、問いかけてきた。
「君はこの世界のこと、気に入っているかな?」
脳裏が、何かに焼かれたように真っ白になる。
質問の意味が理解できなかったわけじゃない。
言葉の意図も、感情の温度も、すべて理解できてしまったからこそ――その反応が一瞬遅れた。
喉が詰まり、目の奥が熱くなる。
震えそうになる拳を膝に押しつける。
言葉にすれば、喚きになってしまいそうだった。
叫べば、自分が崩れてしまいそうだった。
だから、俺は何も言えなかった。
言葉にならない怒りが、奥歯の裏で唸っていた。
拳に、爪が食い込む。
血が滲んでいたとしても、それすらも気づかないほど、感情の波が内側で暴れ続けていた。
だが、彼女はそんな俺の様子をじっと見つめ、満足そうに小さく頷くと——
「いい返事だね。君のことが気に入ったよ、ノア」
それだけを残して、くるりと踵を返す。
その背にためらいはなく、足取りも軽い。
俺と、横に立つ看守の困惑を、その場に置き去りにしたまま。
まるで、最初からすべて思い通りに進んでいるとでも言わんばかりに——。
独房に静けさが戻る。
だが、それは静けさというには、あまりに気味の悪い余韻だった。
「……なんだったんだ、あの女」
看守がぽつりと漏らす。いつもの無愛想な顔に、わずかに警戒の色が滲んでいた。
俺は答えず、天井を見上げる。
返せる言葉が見つからなかったのか、それとも——ただ怒りが言葉を押し潰していたのか。
「……名前、名乗ったな」
ぼそりと呟いた看守が俺を見下ろすが、何も言わずに肩をすくめる。
「まぁ、どうでもいいさ。起きる時間になったら叩きに来る。せいぜい夢でも見てろよ、賢者様」
乱暴に扉が閉まり、鍵がかかる音が響く。
その音すらも、どこか遠く感じられた。
それから、どれほど時間が経っただろうか。
横になり、目を閉じていた俺の耳に、地の底を震わせるような鐘の音が一つ、重く鳴り響いた。
冷えきった空気の中で、その低い音はじわりと独房の隅々にまで染み込んでいく。
一日の始まりを告げる合図だった。
俺は目を開ける。闇に慣れた視界が、ぼんやりと石壁を映し出す。
太陽のない世界で、時を告げるのはあの鐘の音だけだ。
ゆっくりと体を起こすと、鈍く筋肉が軋んだ。
昨日も今日も、きっと明日も変わらない。
けれど、それでも体は勝手に動く——生きるために。
鐘の音が消えてから、また時間が過ぎた。
今日も、いつも通りの作業が始まる。
湿った石壁に囲まれた坑道で、つるはしの音だけが鳴り続ける。
砂塵を吸い込み、喉の奥が痛む。骨が軋み、背筋を曲げるたびに筋がひりついた。
ルティナの姿は、今日は見えなかった。
昨日のあのやり取りが夢だったかのように、現実は何一つ変わっていない。
少しだけ違う点があるとすれば、彼女が見えないのが気がかりなのか、看守たちの目線がいつもよりまばらというところだ。
彼女は俺のことを気に入ったといった。
その言葉がどういう意味を持つのか。そして、彼女はいったい何者なのか。
考えることが多すぎて、言葉にできる感情などとっくにどこかへ消えていた。
代わりに、つるはしを振るう手に力がこもる。
俺はその怒りを土にぶつけるようにして、黙々と掘り続けた。
目の前の壁を砕き、崩し、掘り進める。
ただ、無心に。
——ふ、と視界が傾いだ。
次の瞬間、つるはしが手からこぼれ落ち、鈍い音を立てて地面に転がる。
膝が崩れ、その場に倒れ込んだ。
喉が乾いている。胃が張り裂けそうに痛む。
わかっていた。ここ数日、配給の量が減っていた。
だが、昨日の怒りが空腹を麻痺させていた。気づくのが、遅かった。
自分の鼓動が、耳の奥で重く鳴る。
手足が震える。何かが遠のいていく。
「……大丈夫?」
かすれた声に、ぼんやりと顔を上げる。
灰色の光の中、ひとりの少女がしゃがみ込んでいた。
髪はぼさぼさで、囚人服はひどくくたびれている。
年の頃は十歳くらいだろうか。あまりにも小さなその手が、俺に向けて何かを差し出していた。
目立つのは、肩口まで垂れた黒髪だった。艶はなく、煤けているが、元はまっすぐで綺麗な髪だったのだろう。
顔立ちは幼く、頬は少しこけているが、深淵のような黒い瞳にはどこか芯の強さを感じさせる光があった。
肌は土埃にまみれ、傷もいくつか見受けられる。けれどその姿は、どこか人形のような儚さをまとっていた。
それは——小さなパンだった。
「これ、昨日の分。……残しておいたの」
少女は無理に笑おうとするが、表情はひどくこわばっていた。
俺の目が、パンに釘付けになる。
胃が叫び声を上げ、乾いた喉がひきつった。
そのとき、怒声が響いた。
「おい、てめぇ、何してやがる!」
看守が血相を変えて駆け寄ってくる。
少女の手元を見た瞬間、顔色がみるみる変わる。
「まさか、食料を盗ったんじゃねぇだろうな?」
「ち、ちがっ……これは、あの、わたしの……」
少女が必死に言い訳を口にするが、看守の手が先に動いた。
容赦のない平手が、乾いた音とともに少女の頬を打ちぬく。
「ぐっ……!」
小さな体が、土の上に転がる。
口元から血が滲んでいた。
「言い訳なんざ聞いてねぇ。盗みは盗みだ。今から死ぬよりひでぇ目に合わせてやる」
ごめんなさい、とがらがらの声で泣き叫ぶ少女。俺のことを見捨てていれば、こんなことにはならなかったのに。
彼女の優しさが、彼女を殺した。馬鹿な話だ。
……おかしいだろ。
本来、優しいってのはいいことのはずだ。だが、なんでこの子は優しいって理由で貧乏くじを引いている?
おかしいだろ。泣くべきは、こいつのはずだ。
間違いは……間違いは、正さなくちゃならない。
「——え?」
少女が息を呑む気配がした。
彼女の震える瞳に映っていたのは、壁まで吹き飛んだ看守と——怒りに任せて拳を振り抜いた、俺の姿だろう。
ああ、やっちまったという気持ちと、やれるところまでやってやるという高揚感が混ざる。
しばらく、誰も動かなかった。
吹き飛ばされた看守は壁に崩れ落ち、少女はその場に膝をついたまま、呆然と俺を見上げている。
けれど——沈黙は長くは続かなかった。
「て、てめぇ……ッ! やりやがったな!」
通路の奥から、怒鳴り声とともに足音が迫ってくる。
数秒も経たないうちに、粗野な男たちが次々に通路へなだれ込んできた。
手には鉄製の警棒。目には殺気と憎悪。
「半殺しでいい! やっちまえ!」
反射的に身構えたが、そんなものは無意味だった。
一人、二人、三人。怒声とともに警棒が降り、殴打が背中と肩に襲いかかる。
「ぐっ……!」
よろめいた足元を蹴りつけられ、膝から崩れ落ちる。
そこに追い打ちのように拳と足が飛び、鉄の味が口の中に広がった。
骨がきしむ音が聞こえる。肋骨か、あるいは鼻か。もうわからない。
視界が揺れる。怒号が遠くなる。
けれど、不思議と、意識だけははっきりしていた。
何度も何度も地に叩きつけられながら、俺の中の何かが静かに燃えていた。
その時、聞き覚えがある声が聞こえた。
「全員止めッ!」
すでに地面に伏している体から、首だけをもたげる。
そこには、楽しそうに笑うルティナがこちらへと歩いてきていた。
「や、ノア。随分痛そうだねぇ、骨とか折れてるんじゃないかい?」
親しげに話すルティナに対し、看守たちのどよめきが強くなる。
だが、彼女はそれを意にも介さず、ひざを折ってこちらの顔を持ち上げると、囁くように言った。
「私の目に狂いはなかった」
また、訳の分からないことをと悪態を吐こうとしても、もう指一本動かせない。
だが、彼女は俺をどうこうするわけではなく、首枷に触れた。その瞬間——、
「動くな!」
俺を袋叩きにした看守が叫ぶ。しかし先程と違うのは、警棒を向けているのが——ルティナに対してということ。
「おいおい、誰に武器を向けてるんだ。私はルティ——」
「——ルティナ監督官は今しがた到着したばかりだぞ!」
その言葉が引き金になったかのように、俺の首枷が音を立てて地面に落ちた。解放された奔流のように、魔力が全身を駆け巡る。
顔を上げると、ルティナと名乗った女と視線がかち合った。彼女は唇の端を吊り上げ、片目をつぶって見せた。
「ささ、後は頼んだよ。賢者様」
幽鬼めいた動作で立ち上がり、看守たちを睨む。
もうすでに体力はない。だから、一秒だけでも時間を稼ぐ。所謂、はったりだ。
だけど、彼らにとって俺の力は未知数。この動作だけでも数秒は稼げた。
たった数秒、と思うかもしれない。だが、充分すぎる。
「っ、消え——!」
看守の言葉は、背後から響いた岩でも砕いたかのような衝撃音にかき消された。
驚いて振り返った他の看守たちの目に映ったのは、壁にめり込む仲間と——その仲間が先ほどまで立っていた場所に、静かに佇む俺の姿だった。
「ば、化け物め……!」
残った看守の一人が恐怖に歪んだ顔で叫ぶのが見えた。だが、奴らが警棒を構え直すより早く、俺は次の標的に向かって地を蹴る。
一人、また一人と壁に叩きつける鈍い音が響くたび、喉の奥から鉄の味がせり上がってきた。
これとて、単純な身体強化の魔法に過ぎない。衰弱しきった脚の筋肉を無理やり活性化させ、その勢いで体当たりしているだけだ。
だから、一撃ごとに内臓が軋み、酷使した全身が悲鳴を上げる。
ついに最後の一人が崩れ落ち、坑道に束の間の静寂が訪れた。
壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返す。肺が焼け付くように熱い。もう指一本動かすのも億劫だった。
「……見事なものだね、ノア」
乾いた拍手の音に顔を上げると、偽のルティナが坑道の入り口に立っていた。まるで、面白い芝居でも観ていたかのように、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。
「その怒り、その力、そして何より、その眼。素晴らしい。私がこんな地の底まで来たのは、勧誘のためだよ。君のような男を、ずっと探していた」
勧誘……?
掠れる思考でその言葉の意味を測りかねていると、彼女はふっと笑みを消し、俺の背後に視線を向けた。
「おっと、どうやらまだ大物が残っていたみたいだね」
その言葉と同時に、背後からぬっと現れた影に、俺は息を呑む。
「ほう、大したもんだ。だが、お前ももう限界だろう、“賢者様”?」
そこに立っていたのは、あの丸々と太った監督だった。その手には短剣が握られ、切っ先は偽ルティナの細い首筋に向けられている。
「この女がどうなってもいいのか? 大人しく、もう一度その首輪を——」
ふざけるな。
頭の中で、何かが焼き切れる音がした。
半年間、この地獄で味わい続けた屈辱。理不尽に奪われ、踏みにじられてきた尊厳。この男の、人を人とも思わないあの醜い笑み。
そのすべてが、ごちゃ混ぜになって腹の底からこみ上げてくる。
まだだ。まだ終われない。
こんなクズみたいな男に、これ以上好き勝手させてたまるか。
「……面白い冗談だ」
俺は壁から背を離し、ゆっくりと、一歩前に踏み出した。
ミシリ、と足の骨が悲鳴を上げる。内臓からせり上がった血が、口の端から一筋垂れた。
「や、やめろ! そうだ、動けばこの女の喉を切り裂くぞ!」
監督が恐怖に顔を引きつらせて叫ぶ。
だが、その目は俺ではなく、人質であるはずの女を見ていた。
偽のルティナは、こんな状況でもなお、悠然と笑みを浮かべていたのだ。まるで、何も心配していないとでも言うように。
そうだ。彼女は俺を信じている。
俺がこの状況を打開すると、疑いもせずに。
「——その汚い手で、彼女に触るな」
俺は、残った魔力のすべてを右腕の一点に集中させる。
もはや身体強化ではない。ただ、純粋な破壊のためのエネルギーの奔流。細胞が、血管が、悲鳴を上げて焼き切れていく感覚。だが、そんな痛みなどどうでもよかった。
監督の目が、驚愕に見開かれる。
俺の姿が、その場から掻き消えたように見えたのだろう。
時間の流れが、ありえないほど引き延ばされる。
醜く歪んだ監督の顔が、すぐそこにあった。
言葉もなく、ただ純粋な恐怖だけを映して見開かれた瞳。
その絶望に染まった表情が、脳裏に焼き付いた光景を呼び覚ます。
『や……め……』
あの時、無慈悲に踏みにじられた命乞いの声。
お前は、その声に耳を貸そうともしなかった。
——この拳は、お前が見捨てた者たちのものだ。
圧縮された魔力が、拳で爆ぜる。
「がッ——!?」
声にすらならない断末魔が、監督の口から漏れた。
俺の拳は、短剣を持つ腕ごと、その肥えた顔面を凄まじい勢いで殴り飛ばしていた。骨が砕ける嫌な感触。肉を打つ鈍い衝撃。
監督の巨体は、まるで木の葉のように宙を舞い、坑道の壁に叩きつけられて轟音を響かせると、そのまま二度と動かなくなった。
しん、と静まり返った坑道に、俺の荒い呼吸だけが響く。
右腕は感覚がなく、だらりと垂れ下がっていた。
全身の力が、糸が切れたように抜けていく。視界が白く染まり、膝が折れ、俺は前のめりに地面へ倒れ込んだ。
ぴちゃり、と冷たい水たまりに頬がつく。
もう、起き上がれない。
その時だった。
ざわ、と空気が動く。
物陰に隠れていた奴隷たちが、顔をのぞかせている。彼らは動かなくなった看守たちと俺の姿を認めると、堰を切ったように走り出した。
誰かが叫ぶ。
「今のうちだ! 逃げろ!」
「出口はこっちだ!」
彼らは、地面に倒れる俺に見向きもしない。
一人、また一人と、俺の横を通り過ぎていく。絶望から解放された歓喜の顔で、未来へと続く光を求めて。
それでいい、とぼんやりと思った。
俺が望んだのは、誰かの自由だ。俺自身の結末など、どうでもよかった。
意識が遠のいていく。
冷たい闇が、俺を優しく迎え入れようとしていた。
だが、その闇の中に、一つの小さな気配が残った。
逃げていく足音の激流の中で、たった一人。
俺のすぐそばで、何かが動いている。
薄れゆく視界を必死に持ち上げると、そこにいたのは、あの少女だった。
囚人服を汚し、頬に涙の跡をつけたまま、彼女はじっと俺の顔を覗き込んでいた。
「……大丈夫……?」
か細く、震える声。
彼女の手には、先ほど俺に渡そうとしてくれた、あの小さなパンがまだ握られていた。
なぜ、逃げないんだ。
馬鹿だな、お前も。
そう言おうとしたが、言葉にはならなかった。
その時、コツ、と軽い足音が近づいてくる。
偽のルティナが、俺たちを見下ろしていた。その表情は、いつもの飄々としたものではなく、どこか慈しむような、穏やかなものに見えた。
彼女は俺の隣にしゃがみ込んでいる少女に、優しく問いかける。
「ねえ、どうして逃げないんだい? 今なら、誰にも追われずにここから出られるのに」
少女はびくりと肩を震わせたが、それでも俺のそばを離れようとはしなかった。小さな唇を一度きつく結ぶと、決意を込めた瞳で偽ルティナを見上げる。
「……この人が、心配だから。それに、助けてくれたから」
その真っ直ぐな言葉に、偽のルティナは一瞬、目を細めた。そして、ふわりと花が綻ぶように微笑む。それは、これまで見てきたどの表情よりも、自然で、心からのものに見えた。
彼女は少女の目線までゆっくりと膝を折り、あの時、俺にしたのと同じ質問を口にした。
「そっか。……じゃあ、君にも聞くね。君は、この世界が嫌いかい?」
少女は迷わなかった。こくり、と力強く頷く。
その瞳には、恐怖や諦めではなく、確かな拒絶の色が浮かんでいた。
「……はい。大嫌いです」
「そうか」
偽のルティナは満足そうに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。坑道の入り口から差し込む、わずかな光が彼女の横顔を照らす。
「私の本当の名は、リンシア。ルティナというのは、この鉱山を支配する貴族の名前を借りただけさ」
リンシアと名乗った彼女は、地面に伏す俺と、不安げに見上げる少女、そしてこの薄暗い坑道の全てを見渡すように、静かに、だが力強く宣言した。
「私も、この理不尽な世界が大嫌いだ。だから、君たちのような虐げられた者たちのための国を、この地に作りたい」
その声は、地の底に響く鐘の音のように、重く、そしてどこまでも澄んでいた。
“国を作る”……?
あまりに壮大なその言葉に、少女は戸惑い、おずおずと一歩後ずさる。リンシアはそんな少女を責めることなく、ただ静かに手を差し伸べ、彼女の答えを待っていた。
もう意識が保てない。視界が闇に塗りつぶされていく。
だが、このまま終わらせてはいけない。
この地獄で、たった一つ見つけた優しさを、ここで手放してはいけない。
俺は、残った最後の力を振り絞り、血の味がする喉から声を押し出した。
「……もう……誰も……君を縛らない……。だから……選べ……。君自身の……手で……」
掠れきった、ほとんど吐息のような声。
それでも、その言葉は確かに少女に届いた。
少女はハッと顔を上げ、俺の姿を見ると、その瞳に宿っていた迷いを振り払うように、強く頷いた。そして、差し出されたリンシアの手に、自らの小さな手をしっかりと重ねる。
リンシアは満足そうに微笑むと、その手を優しく握り返した。
「君の名前を教えてくれるかい?」
「……ルミナ。私の名前は、ルミナです」
ルミナと名乗った少女は、まっすぐにリンシアを見つめ返すと、今度は俺の方へと向き直った。その瞳からは、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていく。
「助けてくれて……本当に、ありがとう……ノアさん」
その感謝の言葉を最後に、俺の意識は、深い深い闇の中へと完全に沈んでいった。