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第1話 『地の底の賢者』

 こんなはずじゃなかった。


 きっと、この世界に召喚された人間は皆、そう思うだろう。

 だが、後悔する暇などない。


 鉱石を砕く音が、地の底に響いていた。

 砂塵が視界を曇らせ、呼吸するたびに肺の奥までザラついたものが入り込む。

 ここは、光も風も届かない地下。

 そして、俺たちの“始まりの場所”だった。


 つるはしを握り、ひたすら柔らかい土を探しては叩く。

 体力を温存する術を知らなければ——あっという間に、ああなる。


 ガクン、とすぐ側で膝から崩れ落ちる者がいた。

 数日前まで、威勢のいいことを言っていた男だ。だが、過酷な労働とわずかな食料は、彼の気力も体力も根こそぎ奪い去ったらしい。ぜいぜいと喘ぐだけの肉塊に、監督の足音が近づいてくる。


「ちっ、また壊れたか。本当にここの奴隷は不良品ばかりだな」


 監督は倒れた男の顔をブーツの先で無造作に転がすと、心底うんざりしたようにため息をついた。そして、近くにいた別の看守に顎をしゃくる。


「おい、そいつを“穴”に捨ててこい。使えねえ道具は置いておくだけ無駄だ」


 “穴”と呼ばれているのは、採掘が終わって放棄された深い縦穴のことだ。

 看守たちは慣れた手つきで男の両手両足をつかむと、まるでゴミ袋でも運ぶかのように引きずっていく。


「や……め……」


 男のかすれた声は、誰の耳にも届かない。

 数秒後、地の底から、何かが落ちていく短い悲鳴と、それに続く鈍い音が響いてきた。

 それだけだ。誰も手を止めない。気にも留めない。一人の人間が、ただの“ゴミ”として処理された。それが、ここの日常だった。


 俺は唇を噛み締め、やり場のない怒りを叩きつけるように、目の前の岩壁につるはしを振り下ろした。

 だがその瞬間、俺をあざ笑うかのように、両腕にずしりと硬い手ごたえが走る。


「……ちっ」


 今度は、抑えきれず舌打ちが漏れた。

 ぎらぎらと輝く銀色の鉱石が、掘り出した穴の奥からこちらを睨んでいた。

 俺は睨み返しながら、先ほどの男の片割れ……監督と呼ばれる、丸々と太った男へ声を上げる。


「出ました。銀鉱石です」


 声に反応した監督が、こちらへ向かってくる。「お、見つけたか」先ほどの不機嫌はどこへやら、監督は俺の掘り出した穴を覗き込み、下品な笑みを浮かべた。


「ほう、またやったか! やはりお前は優秀な“道具”だ」


 男は涎でも垂らしそうな顔でぎらつく鉱石に手を伸ばし、乱暴に壁から引き剥がした。その重みを掌で確かめるように堪能すると、にやにやと俺を見下ろす。


「この調子で俺の懐を潤してくれよ、賢者様」


 それだけ言うと、監督は俺の背中を、骨に響くほど強く叩いた。よろめいた俺を見て、満足そうに喉を鳴らし、どこかへと歩いていく。

 俺は咳き込みながら、その背中に殺意にも似た視線を突き刺した。


 やがて、鐘の音が三つ、地の底に響いた。

 それが、一日の終わりを告げる合図だった。


 道具を片付け、狭い通路を列になって歩く。

 誰も喋らない。疲労と埃にまみれた顔が、ただ静かに地面を見つめている。


 今夜も、生きて戻れた。

 それだけで充分だと、誰かが言っていた。

 けれど、そんな言葉で満たされるほど、俺の中は綺麗じゃない。


 地下深くの生活区画。石壁に囲まれた窪みに、干し藁のベッドが一つ。

 寝返り一つで壁の温度が伝わるような空間に、黙って腰を下ろす。


 俺が“賢者”と呼ばれていたのは、前の世界での話だ。

 それも、もう半年ほど前になる。


 賢者というのは、多くの魔法理論を発見し、体系化した第一人者のこと。

 要するに、研究者だ。

 戦うことも、人を導くことも、俺の本分じゃない。

 けれど、あのとき——森の中心に、空中にぽっかりと開いた黒い円を見つけてしまった。


 どうしても気になって、仲間の制止を振り切り、俺はその“穴”に手を伸ばした。

 触れた瞬間、胃の底を掴まれるような吐き気に襲われ——気がつけば、この世界に落ちていた。


 じゃらり、と首元から重い音が鳴る。

 肌に食い込む鎖。これは、魔力を吸い取る特別製だという。

 俺が反抗できない理由も、逃げられない理由も、すべてこの鉄にある。


 この世界は、異世界から来た人間を奴隷にしている。


 最初に気付いたときは、もう手遅れだった。

 状況を呑み込めていない俺を拘束し、首枷で繋ぐまでには、数分ほどしかかからなかった。


 激しい後悔の念を遮るように、独房の鉄扉がきぃ、と軋みながら開いた。

 石壁に囲まれたこの狭い空間に、ふっと風のような気配が差し込む。


 外の明かりに目を細めると、見慣れた看守の影が立っていた。

 だが、その後ろにはもうひとつ、細身の影がある。


「起きてるな。新しい監督がおまえに挨拶したいそうだ」

 看守は呆れたように言って、壁にもたれた俺を一瞥する。


 そして、その後ろから現れた人物に、思わず目を見張った。


「……ここが、特別監視区画の独房? ふぅん……なるほど、なるほど」


 軽やかな足取りで、まるでこの場所が牢ではないかのように、その女は足を踏み入れた。

 外套のすそが揺れ、上質な皮のブーツが床を鳴らす。

 首には装飾の施された金具、肩にはどこか高貴な家柄を示す刺繍。

 まるで監督というより、王城から来た視察官のような装いだった。


 女の顔立ちは整っており、腰まで届くほどの長い金髪が、灯りに照らされて柔らかく輝いている。

 その瞳は深い森を思わせる鮮やかな緑色で、冷静さと知性を湛えていた。


「あなたが……“賢者”?」


 静かな声が、石壁に囲まれた独房に響いた。

 その言葉に、空気が一瞬、硬くなる。

 だが彼女は気にした様子もなく、すっと手を差し出してきた。まるで、握手でも求めるかのように。


「はじめまして。私はルティナ・メルヴァイン。この区域の新任監督官を任された者だよ。君の名前は?」


 名乗りながら浮かべた笑みは柔らかく、それでいて曖昧さがなかった。

 その目はまっすぐ、真正面から俺を捉えていた。

 支配でも、同情でもない。ただ純粋に——関心があった。


「どうも、408番です」


 ここでは、番号が俺の名前だ。その方が管理が楽だから、とこの名前を与えられるときに聞かされた。

 だが、彼女は俺の返答にかぶりをふるうと、


「君の名前だよ。その可愛くない名前は、今は閉まっておいてほしいな」


「……ノアです」


「ノアくんね、いい名前じゃないか」


 ルティナは、うんうんと楽しげに頷いていた。

 まるで旧知の友人と会話でもしているかのように、自然で、柔らかい微笑みだった。

 彼女はなぜ、こんなにも無防備に、こんなにも愉しそうに俺に話しかけてくるのか。

 この場所が、どんな地獄かも知らずに。


 その疑問を、喉の奥で転がしながら言葉にしようとした――その瞬間だった。


 彼女は少しだけ口元を緩め、いたずらっぽい光をその瞳に宿しながら、問いかけてきた。


「君はこの世界のこと、気に入っているかな?」


 脳裏が、何かに焼かれたように真っ白になる。


 質問の意味が理解できなかったわけじゃない。

 言葉の意図も、感情の温度も、すべて理解できてしまったからこそ――その反応が一瞬遅れた。


 喉が詰まり、目の奥が熱くなる。

 震えそうになる拳を膝に押しつける。

 言葉にすれば、喚きになってしまいそうだった。

 叫べば、自分が崩れてしまいそうだった。


 だから、俺は何も言えなかった。


 言葉にならない怒りが、奥歯の裏で唸っていた。

 拳に、爪が食い込む。

 血が滲んでいたとしても、それすらも気づかないほど、感情の波が内側で暴れ続けていた。


 だが、彼女はそんな俺の様子をじっと見つめ、満足そうに小さく頷くと——


「いい返事だね。君のことが気に入ったよ、ノア」


 それだけを残して、くるりと踵を返す。

 その背にためらいはなく、足取りも軽い。


 俺と、横に立つ看守の困惑を、その場に置き去りにしたまま。

 まるで、最初からすべて思い通りに進んでいるとでも言わんばかりに——。


 独房に静けさが戻る。

 だが、それは静けさというには、あまりに気味の悪い余韻だった。


「……なんだったんだ、あの女」


 看守がぽつりと漏らす。いつもの無愛想な顔に、わずかに警戒の色が滲んでいた。


 俺は答えず、天井を見上げる。

 返せる言葉が見つからなかったのか、それとも——ただ怒りが言葉を押し潰していたのか。


「……名前、名乗ったな」


 ぼそりと呟いた看守が俺を見下ろすが、何も言わずに肩をすくめる。


「まぁ、どうでもいいさ。起きる時間になったら叩きに来る。せいぜい夢でも見てろよ、賢者様」


 乱暴に扉が閉まり、鍵がかかる音が響く。

 その音すらも、どこか遠く感じられた。


 それから、どれほど時間が経っただろうか。

 横になり、目を閉じていた俺の耳に、地の底を震わせるような鐘の音が一つ、重く鳴り響いた。


 冷えきった空気の中で、その低い音はじわりと独房の隅々にまで染み込んでいく。


 一日の始まりを告げる合図だった。


 俺は目を開ける。闇に慣れた視界が、ぼんやりと石壁を映し出す。

 太陽のない世界で、時を告げるのはあの鐘の音だけだ。


 ゆっくりと体を起こすと、鈍く筋肉が軋んだ。

 昨日も今日も、きっと明日も変わらない。

 けれど、それでも体は勝手に動く——生きるために。


 鐘の音が消えてから、また時間が過ぎた。


 今日も、いつも通りの作業が始まる。

 湿った石壁に囲まれた坑道で、つるはしの音だけが鳴り続ける。

 砂塵を吸い込み、喉の奥が痛む。骨が軋み、背筋を曲げるたびに筋がひりついた。


 ルティナの姿は、今日は見えなかった。

 昨日のあのやり取りが夢だったかのように、現実は何一つ変わっていない。

 少しだけ違う点があるとすれば、彼女が見えないのが気がかりなのか、看守たちの目線がいつもよりまばらというところだ。


 彼女は俺のことを気に入ったといった。

 その言葉がどういう意味を持つのか。そして、彼女はいったい何者なのか。


 考えることが多すぎて、言葉にできる感情などとっくにどこかへ消えていた。

 代わりに、つるはしを振るう手に力がこもる。

 俺はその怒りを土にぶつけるようにして、黙々と掘り続けた。


 目の前の壁を砕き、崩し、掘り進める。

 ただ、無心に。


 ——ふ、と視界が傾いだ。


 次の瞬間、つるはしが手からこぼれ落ち、鈍い音を立てて地面に転がる。

 膝が崩れ、その場に倒れ込んだ。


 喉が乾いている。胃が張り裂けそうに痛む。

 わかっていた。ここ数日、配給の量が減っていた。

 だが、昨日の怒りが空腹を麻痺させていた。気づくのが、遅かった。


 自分の鼓動が、耳の奥で重く鳴る。

 手足が震える。何かが遠のいていく。


「……大丈夫?」


 かすれた声に、ぼんやりと顔を上げる。

 灰色の光の中、ひとりの少女がしゃがみ込んでいた。


 髪はぼさぼさで、囚人服はひどくくたびれている。

 年の頃は十歳くらいだろうか。あまりにも小さなその手が、俺に向けて何かを差し出していた。


 目立つのは、肩口まで垂れた黒髪だった。艶はなく、煤けているが、元はまっすぐで綺麗な髪だったのだろう。

 顔立ちは幼く、頬は少しこけているが、深淵のような黒い瞳にはどこか芯の強さを感じさせる光があった。

 肌は土埃にまみれ、傷もいくつか見受けられる。けれどその姿は、どこか人形のような儚さをまとっていた。


 それは——小さなパンだった。


「これ、昨日の分。……残しておいたの」


 少女は無理に笑おうとするが、表情はひどくこわばっていた。


 俺の目が、パンに釘付けになる。

 胃が叫び声を上げ、乾いた喉がひきつった。


 そのとき、怒声が響いた。


「おい、てめぇ、何してやがる!」


 看守が血相を変えて駆け寄ってくる。

 少女の手元を見た瞬間、顔色がみるみる変わる。


「まさか、食料を盗ったんじゃねぇだろうな?」


「ち、ちがっ……これは、あの、わたしの……」


 少女が必死に言い訳を口にするが、看守の手が先に動いた。

 容赦のない平手が、乾いた音とともに少女の頬を打ちぬく。


「ぐっ……!」


 小さな体が、土の上に転がる。

 口元から血が滲んでいた。


「言い訳なんざ聞いてねぇ。盗みは盗みだ。今から死ぬよりひでぇ目に合わせてやる」


 ごめんなさい、とがらがらの声で泣き叫ぶ少女。俺のことを見捨てていれば、こんなことにはならなかったのに。

 彼女の優しさが、彼女を殺した。馬鹿な話だ。


 ……おかしいだろ。

 本来、優しいってのはいいことのはずだ。だが、なんでこの子は優しいって理由で貧乏くじを引いている?


 おかしいだろ。泣くべきは、こいつのはずだ。

 間違いは……間違いは、正さなくちゃならない。


「——え?」


 少女が息を呑む気配がした。

 彼女の震える瞳に映っていたのは、壁まで吹き飛んだ看守と——怒りに任せて拳を振り抜いた、俺の姿だろう。


 ああ、やっちまったという気持ちと、やれるところまでやってやるという高揚感が混ざる。


 しばらく、誰も動かなかった。

 吹き飛ばされた看守は壁に崩れ落ち、少女はその場に膝をついたまま、呆然と俺を見上げている。


 けれど——沈黙は長くは続かなかった。


「て、てめぇ……ッ! やりやがったな!」


 通路の奥から、怒鳴り声とともに足音が迫ってくる。

 数秒も経たないうちに、粗野な男たちが次々に通路へなだれ込んできた。

 手には鉄製の警棒。目には殺気と憎悪。


「半殺しでいい! やっちまえ!」


 反射的に身構えたが、そんなものは無意味だった。

 一人、二人、三人。怒声とともに警棒が降り、殴打が背中と肩に襲いかかる。


「ぐっ……!」


 よろめいた足元を蹴りつけられ、膝から崩れ落ちる。

 そこに追い打ちのように拳と足が飛び、鉄の味が口の中に広がった。

 骨がきしむ音が聞こえる。肋骨か、あるいは鼻か。もうわからない。


 視界が揺れる。怒号が遠くなる。


 けれど、不思議と、意識だけははっきりしていた。

 何度も何度も地に叩きつけられながら、俺の中の何かが静かに燃えていた。


 その時、聞き覚えがある声が聞こえた。


「全員止めッ!」


 すでに地面に伏している体から、首だけをもたげる。

 そこには、楽しそうに笑うルティナがこちらへと歩いてきていた。


「や、ノア。随分痛そうだねぇ、骨とか折れてるんじゃないかい?」


 親しげに話すルティナに対し、看守たちのどよめきが強くなる。

 だが、彼女はそれを意にも介さず、ひざを折ってこちらの顔を持ち上げると、囁くように言った。


「私の目に狂いはなかった」


 また、訳の分からないことをと悪態を吐こうとしても、もう指一本動かせない。

 だが、彼女は俺をどうこうするわけではなく、首枷に触れた。その瞬間——、


「動くな!」


 俺を袋叩きにした看守が叫ぶ。しかし先程と違うのは、警棒を向けているのが——ルティナに対してということ。


「おいおい、誰に武器を向けてるんだ。私はルティ——」


「——ルティナ監督官は今しがた到着したばかりだぞ!」


 その言葉が引き金になったかのように、俺の首枷が音を立てて地面に落ちた。解放された奔流のように、魔力が全身を駆け巡る。

 顔を上げると、ルティナと名乗った女と視線がかち合った。彼女は唇の端を吊り上げ、片目をつぶって見せた。


「ささ、後は頼んだよ。賢者様」


 幽鬼めいた動作で立ち上がり、看守たちを睨む。

 もうすでに体力はない。だから、一秒だけでも時間を稼ぐ。所謂、はったりだ。


 だけど、彼らにとって俺の力は未知数。この動作だけでも数秒は稼げた。

 たった数秒、と思うかもしれない。だが、充分すぎる。


「っ、消え——!」


 看守の言葉は、背後から響いた岩でも砕いたかのような衝撃音にかき消された。

 驚いて振り返った他の看守たちの目に映ったのは、壁にめり込む仲間と——その仲間が先ほどまで立っていた場所に、静かに佇む俺の姿だった。


「ば、化け物め……!」


 残った看守の一人が恐怖に歪んだ顔で叫ぶのが見えた。だが、奴らが警棒を構え直すより早く、俺は次の標的に向かって地を蹴る。

 一人、また一人と壁に叩きつける鈍い音が響くたび、喉の奥から鉄の味がせり上がってきた。


 これとて、単純な身体強化の魔法に過ぎない。衰弱しきった脚の筋肉を無理やり活性化させ、その勢いで体当たりしているだけだ。

 だから、一撃ごとに内臓が軋み、酷使した全身が悲鳴を上げる。


 ついに最後の一人が崩れ落ち、坑道に束の間の静寂が訪れた。

 壁にもたれ、荒い呼吸を繰り返す。肺が焼け付くように熱い。もう指一本動かすのも億劫だった。


「……見事なものだね、ノア」


 乾いた拍手の音に顔を上げると、偽のルティナが坑道の入り口に立っていた。まるで、面白い芝居でも観ていたかのように、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいる。


「その怒り、その力、そして何より、その眼。素晴らしい。私がこんな地の底まで来たのは、勧誘のためだよ。君のような男を、ずっと探していた」


 勧誘……?

 掠れる思考でその言葉の意味を測りかねていると、彼女はふっと笑みを消し、俺の背後に視線を向けた。


「おっと、どうやらまだ大物が残っていたみたいだね」


 その言葉と同時に、背後からぬっと現れた影に、俺は息を呑む。


「ほう、大したもんだ。だが、お前ももう限界だろう、“賢者様”?」


 そこに立っていたのは、あの丸々と太った監督だった。その手には短剣が握られ、切っ先は偽ルティナの細い首筋に向けられている。


「この女がどうなってもいいのか? 大人しく、もう一度その首輪を——」


 ふざけるな。


 頭の中で、何かが焼き切れる音がした。

 半年間、この地獄で味わい続けた屈辱。理不尽に奪われ、踏みにじられてきた尊厳。この男の、人を人とも思わないあの醜い笑み。

 そのすべてが、ごちゃ混ぜになって腹の底からこみ上げてくる。


 まだだ。まだ終われない。

 こんなクズみたいな男に、これ以上好き勝手させてたまるか。


「……面白い冗談だ」


 俺は壁から背を離し、ゆっくりと、一歩前に踏み出した。

 ミシリ、と足の骨が悲鳴を上げる。内臓からせり上がった血が、口の端から一筋垂れた。


「や、やめろ! そうだ、動けばこの女の喉を切り裂くぞ!」


 監督が恐怖に顔を引きつらせて叫ぶ。

 だが、その目は俺ではなく、人質であるはずの女を見ていた。

 偽のルティナは、こんな状況でもなお、悠然と笑みを浮かべていたのだ。まるで、何も心配していないとでも言うように。


 そうだ。彼女は俺を信じている。

 俺がこの状況を打開すると、疑いもせずに。


「——その汚い手で、彼女に触るな」


 俺は、残った魔力のすべてを右腕の一点に集中させる。

 もはや身体強化ではない。ただ、純粋な破壊のためのエネルギーの奔流。細胞が、血管が、悲鳴を上げて焼き切れていく感覚。だが、そんな痛みなどどうでもよかった。


 監督の目が、驚愕に見開かれる。

 俺の姿が、その場から掻き消えたように見えたのだろう。


 時間の流れが、ありえないほど引き延ばされる。


 醜く歪んだ監督の顔が、すぐそこにあった。

 言葉もなく、ただ純粋な恐怖だけを映して見開かれた瞳。

 その絶望に染まった表情が、脳裏に焼き付いた光景を呼び覚ます。


『や……め……』


 あの時、無慈悲に踏みにじられた命乞いの声。

 お前は、その声に耳を貸そうともしなかった。


 ——この拳は、お前が見捨てた者たちのものだ。


 圧縮された魔力が、拳で爆ぜる。


「がッ——!?」


 声にすらならない断末魔が、監督の口から漏れた。

 俺の拳は、短剣を持つ腕ごと、その肥えた顔面を凄まじい勢いで殴り飛ばしていた。骨が砕ける嫌な感触。肉を打つ鈍い衝撃。

 監督の巨体は、まるで木の葉のように宙を舞い、坑道の壁に叩きつけられて轟音を響かせると、そのまま二度と動かなくなった。


 しん、と静まり返った坑道に、俺の荒い呼吸だけが響く。

 右腕は感覚がなく、だらりと垂れ下がっていた。

 全身の力が、糸が切れたように抜けていく。視界が白く染まり、膝が折れ、俺は前のめりに地面へ倒れ込んだ。


 ぴちゃり、と冷たい水たまりに頬がつく。

 もう、起き上がれない。


 その時だった。

 ざわ、と空気が動く。

 物陰に隠れていた奴隷たちが、顔をのぞかせている。彼らは動かなくなった看守たちと俺の姿を認めると、堰を切ったように走り出した。


 誰かが叫ぶ。

「今のうちだ! 逃げろ!」

「出口はこっちだ!」


 彼らは、地面に倒れる俺に見向きもしない。

 一人、また一人と、俺の横を通り過ぎていく。絶望から解放された歓喜の顔で、未来へと続く光を求めて。


 それでいい、とぼんやりと思った。

 俺が望んだのは、誰かの自由だ。俺自身の結末など、どうでもよかった。


 意識が遠のいていく。

 冷たい闇が、俺を優しく迎え入れようとしていた。


 だが、その闇の中に、一つの小さな気配が残った。


 逃げていく足音の激流の中で、たった一人。

 俺のすぐそばで、何かが動いている。


 薄れゆく視界を必死に持ち上げると、そこにいたのは、あの少女だった。

 囚人服を汚し、頬に涙の跡をつけたまま、彼女はじっと俺の顔を覗き込んでいた。


「……大丈夫……?」


 か細く、震える声。

 彼女の手には、先ほど俺に渡そうとしてくれた、あの小さなパンがまだ握られていた。


 なぜ、逃げないんだ。

 馬鹿だな、お前も。

 そう言おうとしたが、言葉にはならなかった。


 その時、コツ、と軽い足音が近づいてくる。

 偽のルティナが、俺たちを見下ろしていた。その表情は、いつもの飄々としたものではなく、どこか慈しむような、穏やかなものに見えた。


 彼女は俺の隣にしゃがみ込んでいる少女に、優しく問いかける。


「ねえ、どうして逃げないんだい? 今なら、誰にも追われずにここから出られるのに」


 少女はびくりと肩を震わせたが、それでも俺のそばを離れようとはしなかった。小さな唇を一度きつく結ぶと、決意を込めた瞳で偽ルティナを見上げる。


「……この人が、心配だから。それに、助けてくれたから」


 その真っ直ぐな言葉に、偽のルティナは一瞬、目を細めた。そして、ふわりと花が綻ぶように微笑む。それは、これまで見てきたどの表情よりも、自然で、心からのものに見えた。


 彼女は少女の目線までゆっくりと膝を折り、あの時、俺にしたのと同じ質問を口にした。


「そっか。……じゃあ、君にも聞くね。君は、この世界が嫌いかい?」


 少女は迷わなかった。こくり、と力強く頷く。

 その瞳には、恐怖や諦めではなく、確かな拒絶の色が浮かんでいた。


「……はい。大嫌いです」


「そうか」


 偽のルティナは満足そうに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。坑道の入り口から差し込む、わずかな光が彼女の横顔を照らす。


「私の本当の名は、リンシア。ルティナというのは、この鉱山を支配する貴族の名前を借りただけさ」


 リンシアと名乗った彼女は、地面に伏す俺と、不安げに見上げる少女、そしてこの薄暗い坑道の全てを見渡すように、静かに、だが力強く宣言した。


「私も、この理不尽な世界が大嫌いだ。だから、君たちのような虐げられた者たちのための国を、この地に作りたい」


 その声は、地の底に響く鐘の音のように、重く、そしてどこまでも澄んでいた。

 “国を作る”……?

 あまりに壮大なその言葉に、少女は戸惑い、おずおずと一歩後ずさる。リンシアはそんな少女を責めることなく、ただ静かに手を差し伸べ、彼女の答えを待っていた。


 もう意識が保てない。視界が闇に塗りつぶされていく。

 だが、このまま終わらせてはいけない。

 この地獄で、たった一つ見つけた優しさを、ここで手放してはいけない。


 俺は、残った最後の力を振り絞り、血の味がする喉から声を押し出した。


「……もう……誰も……君を縛らない……。だから……選べ……。君自身の……手で……」


 掠れきった、ほとんど吐息のような声。

 それでも、その言葉は確かに少女に届いた。


 少女はハッと顔を上げ、俺の姿を見ると、その瞳に宿っていた迷いを振り払うように、強く頷いた。そして、差し出されたリンシアの手に、自らの小さな手をしっかりと重ねる。


 リンシアは満足そうに微笑むと、その手を優しく握り返した。


「君の名前を教えてくれるかい?」


「……ルミナ。私の名前は、ルミナです」


 ルミナと名乗った少女は、まっすぐにリンシアを見つめ返すと、今度は俺の方へと向き直った。その瞳からは、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていく。


「助けてくれて……本当に、ありがとう……ノアさん」


 その感謝の言葉を最後に、俺の意識は、深い深い闇の中へと完全に沈んでいった。

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