表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第2章:目覚めの音


◇◇◇


ふわりと、焦げたパンのような香りが鼻をくすぐった。

その匂いに導かれるように、意識がじわじわと浮上してくる。


柔らかな寝具に包まれていた体が、ゆっくりと現実へ引き戻されていく。

まだ少し重たいまぶたを持ち上げると、見慣れない天井が静かに視界に広がった。


(……ここ、どこだっけ……)


ぼんやりと、昨日の記憶をたぐる。

だけど思い出せるのは、目を覚ましたあと、名前をつけられたことだけ。

それでも——


名をつけられた時の言葉だけが、胸の奥に残っていた。


——“アヤ”と名乗れ。記憶がないなら、それでいい。昔の知り合いに少し似てるから——


あの時の声と目が、今も胸に残っている。

冷たくも優しくもない。ただ深く、何かを抱え込んでいるような——そんなまなざし。


「起きたか」


低く落ち着いた声が、静寂を破った。

視線を横に向けると、ベッド脇の椅子に腰をかけた男性の姿が目に入る。


有村聡——この避難所のリーダー。

そして、記憶を失った自分に「アヤ」という名を与えた人。


「……おはようございます」


おずおずと声をかけると、彼はわずかに視線をこちらへ向けた。


「……具合はどうだ?」


「少しだるいですが……特に変わったところはない、と思います。」


「……そうか。」


アヤのその言葉に、聡が安堵の表情になったのを、彼女は見逃さなかった。


「そうだ。ずっと寝てたからお腹空いてるんじゃないか? のども乾いただろ?」


少し迷ってから、アヤは口を開く。


「……えっと、はい……少し、喉が渇いてて……あと、ちょっとお腹も空いてます」


聡は一度視線を外し、立ち上がった。


「水はそこにある。食べ物は、今持ってくる。……少し、待っていろ」


そう言って、部屋の扉へ向かう。

その背中は、どこか張り詰めたものが抜けかけているようにも見えた。


アヤは、毛布を握る手に力を込めた。


(聡さん……最初は怖い人かと思ったけど……すごく優しい……)


記憶のないアヤにとって、聡の優しさは救いだった。


「……“アヤ”……」


聡がつけてくれた名前を呟きながら、彼女はそっと、自分の胸に手を置いた。

静かに、確かめるように。


視線を落とせば、毛布から覗く自分の髪が目に入る。

淡く、光を透かすような白銀色。

知らない色。けれど、不思議と違和感はなかった。


“アヤ”——そう呼ばれるたびに、自分の輪郭が少しずつ定まっていく気がする。


◇◇◇


金属のトレイに載った、温かいスープと乾いたパン。

そして、少しだけ香辛料の効いた野菜の煮込み。

シンプルな献立だったが、空腹にはじゅうぶんすぎる。

体も、そして気持ちも、少しずつほぐれていくようだった。


「……おいしい、です……」


最初のひと口を恐る恐る口に運ぶ。

すると、アヤは思わず目を見開いた。

香りと熱、そして少し懐かしい味が、体の芯まで染み込んでいく。


見た目には質素なものだが、どこか優しい味だった。

目の前に座る男が無言で彼女の様子を見守る中、アヤはゆっくりと食事を進め、

やがて、最後のパンのかけらまで平らげた。


(……ちゃんと食べられた……)


小さな達成感と、少しの安心感が胸に広がる。


そのタイミングを見計らうように、聡が口を開いた。


「もし、体調が良いようだったら、今から最低限の場所を案内したいんだが……どうだ?」


「は、はい。大丈夫です。ご迷惑でなければ……」


「迷惑なわけないだろ? ……俺がお前を案内したいんだ」


「っ!?」


唐突な言葉に、アヤの胸が一瞬跳ねた。


(……な、なにそれ……急にそんなこというなんて……)


その声音はあくまで落ち着いていたのに、どこか特別な響きを含んでいた気がして、

思わず視線を落とす。


「あ、それと……この拠点にいるやつらも、あとで紹介しておきたいんだ」


「わ、わかりました。……お願いします。」


「よし、決まりだな」


聡はそう言うと、食器に手を伸ばしたアヤの動きを自然に受け取り、

トレイごと持ち上げて席を立つ。


「……あの、ありがとうございます」


「礼はいらない。……俺とお前は……」


一拍の沈黙。

彼はわずかに口をつぐみ、視線を逸らした。


「……いや、なんでもない」


「???」


感情の読みづらい返答。けれどそれは、突き放すようなものではなかった。

淡々とした言葉の奥に、責任感とも、それ以上の何かとも言えるものが、かすかに滲んでいる。


アヤは胸の奥に、ぽっと温かいものが灯るのを感じながら、彼のあとをそっと追った。


◇◇◇


地下の避難所は、外の世界とはまるで別の空間だった。

鉄筋とコンクリートで固められた構造の中に、生活区画、医療室、食糧庫、物資管理室……必要な機能が最低限配置されている。


ただの避難所ではない。ここは、生存のために作り替えられた“砦”だ。


「歩けるか」


「……はい、大丈夫です」


足元はまだ少し頼りないが、それでもアヤは立っていられた。

少しずつ、体に力が戻ってくる。


そんな自分の姿を見て、聡がごくわずかに頷いたのが見えた。


そのとき――


「あっ、リーダー!お疲れさま……って、あれ? 女の子連れて歩いてんの、珍しくない?」


軽い調子の声とともに、角の向こうから若い男が現れた。

整った顔立ちに明るい髪。軍用ジャケットを肩に引っかけるように羽織っている。


「……アヤ。こいつは南條光輝。この拠点の副リーダーだ」


そう紹介された男は、にこっと笑って手を挙げた。


「アヤちゃんっていうんだね。よろしくねぇ。……」


その声に、アヤは少し戸惑いながらも頭を下げる。


「は、はい……南條さん、よろしくお願いします。」


「それにしても……アヤって……どこかで――」


「実は……私……記憶がなくて、この名前、有村さんがつけてくれたんです」


「……」


南條が、一瞬だけ言葉を止めた。

そして、肩をすくめながら、少し目を見開く。


「え? リーダーが“名前をつけた”の? この子に?……わーお。珍しいこともあるもんだねぇ」


驚きと興味が混ざった声。

その調子は軽いが、どこか目の奥が静かに光っている。


「それにしても、銀の髪、青い瞳……本当に綺麗だよねぇ」


「……え?」


南條の視線が、一瞬だけ鋭くなった。

まるで、何かを“確かめる”ように。


「異界に触れると、そうなる場合もあるけどさ。本当……変わんねぇのな。」


最後の呟きは、アヤにはうまく聞き取れなかった。

けれど、アヤはそこで初めて出てきた言葉に眉をひそめる。


「……異界?」


ぽつりと呟いたアヤの声に、南條はあわてたように手を振った。


「あー。ごめん、こっちの話。今は無理して思い出す必要ないよ」


そう言って、彼は柔らかく笑う。


「じゃ。これからよろしくな。……この拠点広いから迷うこともあるかもしれないけど、しばらくは、俺たちがちゃんと見てる。困ったらすぐ言ってくれていいから」


「はい。私こそよろしくお願いします。」


明るくて親しみやすい雰囲気。

けれどその言葉の奥に、どこか“慣れている者の覚悟”のようなものが垣間見えた。


「……彩菜、だったんだよな。元……いや、やめとくか」


ふいに漏れた言葉に、アヤはきょとんとする。

その隣で、聡の肩がわずかに動いた。


南條はそれに気づいたのか、すぐに笑顔を作り直す。


「体調が回復したら、アヤちゃんが出来ること、手伝ってもらうことになるからね。そういうルールだから」


口調は柔らかいのに、その目はどこか真剣だった。

“試されている”——そんな気がして、アヤは思わず背筋を正した。


自分が何者かもわからない。

でも、ここで――生きていくために、できることを。


そのとき、風のように早い足音が背後から近づいてきた。


「リーダー。……呼びに行くって言ったのに」


短く、冷えた声。振り返ると、ショートカットの女性が立っていた。


スリムな身体に、戦闘用のスーツ。

アヤを見るその視線は、探るようでも見下すようでもなく、ただ冷静で、少しだけ警戒を帯びていた。


視線が、アヤの髪と瞳に走ったのがわかる。

まるで何かを“確認”するかのように。


「……こいつは高橋瑠花。前衛隊の主力だ。」


聡がそう言っても、高橋瑠花という名の女性は、無言のまま軽く会釈しただけだった。だが、その動きには一切の隙がなかった。

まるで、“敵か味方か”を見極めるために、情報をすべてスキャンしているかのような沈黙だった。


その沈黙が、なぜか胸の奥を冷たく撫でた。


——あ。歓迎されてない。


そう、アヤは本能的に感じた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ