第2章:目覚めの音
◇◇◇
ふわりと、焦げたパンのような香りが鼻をくすぐった。
その匂いに導かれるように、意識がじわじわと浮上してくる。
柔らかな寝具に包まれていた体が、ゆっくりと現実へ引き戻されていく。
まだ少し重たいまぶたを持ち上げると、見慣れない天井が静かに視界に広がった。
(……ここ、どこだっけ……)
ぼんやりと、昨日の記憶をたぐる。
だけど思い出せるのは、目を覚ましたあと、名前をつけられたことだけ。
それでも——
名をつけられた時の言葉だけが、胸の奥に残っていた。
——“アヤ”と名乗れ。記憶がないなら、それでいい。昔の知り合いに少し似てるから——
あの時の声と目が、今も胸に残っている。
冷たくも優しくもない。ただ深く、何かを抱え込んでいるような——そんなまなざし。
「起きたか」
低く落ち着いた声が、静寂を破った。
視線を横に向けると、ベッド脇の椅子に腰をかけた男性の姿が目に入る。
有村聡——この避難所のリーダー。
そして、記憶を失った自分に「アヤ」という名を与えた人。
「……おはようございます」
おずおずと声をかけると、彼はわずかに視線をこちらへ向けた。
「……具合はどうだ?」
「少しだるいですが……特に変わったところはない、と思います。」
「……そうか。」
アヤのその言葉に、聡が安堵の表情になったのを、彼女は見逃さなかった。
「そうだ。ずっと寝てたからお腹空いてるんじゃないか? のども乾いただろ?」
少し迷ってから、アヤは口を開く。
「……えっと、はい……少し、喉が渇いてて……あと、ちょっとお腹も空いてます」
聡は一度視線を外し、立ち上がった。
「水はそこにある。食べ物は、今持ってくる。……少し、待っていろ」
そう言って、部屋の扉へ向かう。
その背中は、どこか張り詰めたものが抜けかけているようにも見えた。
アヤは、毛布を握る手に力を込めた。
(聡さん……最初は怖い人かと思ったけど……すごく優しい……)
記憶のないアヤにとって、聡の優しさは救いだった。
「……“アヤ”……」
聡がつけてくれた名前を呟きながら、彼女はそっと、自分の胸に手を置いた。
静かに、確かめるように。
視線を落とせば、毛布から覗く自分の髪が目に入る。
淡く、光を透かすような白銀色。
知らない色。けれど、不思議と違和感はなかった。
“アヤ”——そう呼ばれるたびに、自分の輪郭が少しずつ定まっていく気がする。
◇◇◇
金属のトレイに載った、温かいスープと乾いたパン。
そして、少しだけ香辛料の効いた野菜の煮込み。
シンプルな献立だったが、空腹にはじゅうぶんすぎる。
体も、そして気持ちも、少しずつほぐれていくようだった。
「……おいしい、です……」
最初のひと口を恐る恐る口に運ぶ。
すると、アヤは思わず目を見開いた。
香りと熱、そして少し懐かしい味が、体の芯まで染み込んでいく。
見た目には質素なものだが、どこか優しい味だった。
目の前に座る男が無言で彼女の様子を見守る中、アヤはゆっくりと食事を進め、
やがて、最後のパンのかけらまで平らげた。
(……ちゃんと食べられた……)
小さな達成感と、少しの安心感が胸に広がる。
そのタイミングを見計らうように、聡が口を開いた。
「もし、体調が良いようだったら、今から最低限の場所を案内したいんだが……どうだ?」
「は、はい。大丈夫です。ご迷惑でなければ……」
「迷惑なわけないだろ? ……俺がお前を案内したいんだ」
「っ!?」
唐突な言葉に、アヤの胸が一瞬跳ねた。
(……な、なにそれ……急にそんなこというなんて……)
その声音はあくまで落ち着いていたのに、どこか特別な響きを含んでいた気がして、
思わず視線を落とす。
「あ、それと……この拠点にいるやつらも、あとで紹介しておきたいんだ」
「わ、わかりました。……お願いします。」
「よし、決まりだな」
聡はそう言うと、食器に手を伸ばしたアヤの動きを自然に受け取り、
トレイごと持ち上げて席を立つ。
「……あの、ありがとうございます」
「礼はいらない。……俺とお前は……」
一拍の沈黙。
彼はわずかに口をつぐみ、視線を逸らした。
「……いや、なんでもない」
「???」
感情の読みづらい返答。けれどそれは、突き放すようなものではなかった。
淡々とした言葉の奥に、責任感とも、それ以上の何かとも言えるものが、かすかに滲んでいる。
アヤは胸の奥に、ぽっと温かいものが灯るのを感じながら、彼のあとをそっと追った。
◇◇◇
地下の避難所は、外の世界とはまるで別の空間だった。
鉄筋とコンクリートで固められた構造の中に、生活区画、医療室、食糧庫、物資管理室……必要な機能が最低限配置されている。
ただの避難所ではない。ここは、生存のために作り替えられた“砦”だ。
「歩けるか」
「……はい、大丈夫です」
足元はまだ少し頼りないが、それでもアヤは立っていられた。
少しずつ、体に力が戻ってくる。
そんな自分の姿を見て、聡がごくわずかに頷いたのが見えた。
そのとき――
「あっ、リーダー!お疲れさま……って、あれ? 女の子連れて歩いてんの、珍しくない?」
軽い調子の声とともに、角の向こうから若い男が現れた。
整った顔立ちに明るい髪。軍用ジャケットを肩に引っかけるように羽織っている。
「……アヤ。こいつは南條光輝。この拠点の副リーダーだ」
そう紹介された男は、にこっと笑って手を挙げた。
「アヤちゃんっていうんだね。よろしくねぇ。……」
その声に、アヤは少し戸惑いながらも頭を下げる。
「は、はい……南條さん、よろしくお願いします。」
「それにしても……アヤって……どこかで――」
「実は……私……記憶がなくて、この名前、有村さんがつけてくれたんです」
「……」
南條が、一瞬だけ言葉を止めた。
そして、肩をすくめながら、少し目を見開く。
「え? リーダーが“名前をつけた”の? この子に?……わーお。珍しいこともあるもんだねぇ」
驚きと興味が混ざった声。
その調子は軽いが、どこか目の奥が静かに光っている。
「それにしても、銀の髪、青い瞳……本当に綺麗だよねぇ」
「……え?」
南條の視線が、一瞬だけ鋭くなった。
まるで、何かを“確かめる”ように。
「異界に触れると、そうなる場合もあるけどさ。本当……変わんねぇのな。」
最後の呟きは、アヤにはうまく聞き取れなかった。
けれど、アヤはそこで初めて出てきた言葉に眉をひそめる。
「……異界?」
ぽつりと呟いたアヤの声に、南條はあわてたように手を振った。
「あー。ごめん、こっちの話。今は無理して思い出す必要ないよ」
そう言って、彼は柔らかく笑う。
「じゃ。これからよろしくな。……この拠点広いから迷うこともあるかもしれないけど、しばらくは、俺たちがちゃんと見てる。困ったらすぐ言ってくれていいから」
「はい。私こそよろしくお願いします。」
明るくて親しみやすい雰囲気。
けれどその言葉の奥に、どこか“慣れている者の覚悟”のようなものが垣間見えた。
「……彩菜、だったんだよな。元……いや、やめとくか」
ふいに漏れた言葉に、アヤはきょとんとする。
その隣で、聡の肩がわずかに動いた。
南條はそれに気づいたのか、すぐに笑顔を作り直す。
「体調が回復したら、アヤちゃんが出来ること、手伝ってもらうことになるからね。そういうルールだから」
口調は柔らかいのに、その目はどこか真剣だった。
“試されている”——そんな気がして、アヤは思わず背筋を正した。
自分が何者かもわからない。
でも、ここで――生きていくために、できることを。
そのとき、風のように早い足音が背後から近づいてきた。
「リーダー。……呼びに行くって言ったのに」
短く、冷えた声。振り返ると、ショートカットの女性が立っていた。
スリムな身体に、戦闘用のスーツ。
アヤを見るその視線は、探るようでも見下すようでもなく、ただ冷静で、少しだけ警戒を帯びていた。
視線が、アヤの髪と瞳に走ったのがわかる。
まるで何かを“確認”するかのように。
「……こいつは高橋瑠花。前衛隊の主力だ。」
聡がそう言っても、高橋瑠花という名の女性は、無言のまま軽く会釈しただけだった。だが、その動きには一切の隙がなかった。
まるで、“敵か味方か”を見極めるために、情報をすべてスキャンしているかのような沈黙だった。
その沈黙が、なぜか胸の奥を冷たく撫でた。
——あ。歓迎されてない。
そう、アヤは本能的に感じた。