第1章:目覚め
――息をしている。
それが、最初に浮かんだ感覚だった。
胸の奥で、確かに鼓動が響いている。
耳元で鳴るリズムは、どこか他人のもののようで――けれど、それが自分の命の証だった。
まぶたの裏が、じんわりと熱い。
深くて長い眠りから、無理やり引き戻されたような感覚。
全身が痺れて、指先ひとつ動かすのも億劫だった。
すぐそばで、誰かの呼吸が聞こえる。
重なるようにして、静かで落ち着いた声が届いた。
「……目を覚ませ、彩菜」
その名前に、心臓が跳ねた。
まぶたを開けようとするが、重くてうまくいかない。
喉がからからに渇いていた。
それでも意識を手繰り寄せて、彼女はゆっくりと目を開いた。
そこにあったのは、薄暗い天井。
金属とコンクリートが入り混じったような、人工的な空間だった。
蛍光灯のような淡い照明が、ゆらゆらと揺れている。
鼻を刺すのは、機械油のようなにおい。
視線を少しだけ動かすと、すぐそばに男が座っていた。
乱れた黒髪。
深い闇を思わせる静かな瞳。
その顔には見覚えがない……はずなのに、胸の奥が、きゅっと軋む。
懐かしさでも、恐怖でもない。
その人の存在が、心のどこかを揺らした。
「……ここは……?えっと……あなたは、誰ですか……?」
乾いた声でそう尋ねると、男の目がわずかに揺れた。
「俺の名前は、有村聡だ」
「有村……さん?」
「……そうだ。そしてここは、俺たちの拠点にある医務室だ。」
「拠点……医務室……」
「……お前は、外で倒れていたところを仲間が見つけて、俺が運んできたんだ」
「……倒れていた……私が……?」
「……覚えていないのか?――自分の名前は?」
その問いに、彼女は言葉を詰まらせた。
思い出そうとするが、霧の中を手探りで進むような感覚。
焦りながらも、ゆっくり首を横に振った。
「……ごめんなさい。自分の名前も、何も……思い出せません」
沈黙が落ちる。
男は目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……そうか」
その顔に、かすかな影が差したように見えた。
けれどすぐに彼は顔を上げ、彼女をまっすぐに見つめて、言う。
「なら……“アヤ”と名乗れ」
「アヤ……ですか?」
「ああ。昔の知り合いに、少し似ているから、“アヤ”という名前がいいと思ったんだ」
初めて聞く名前。
あたたかくて。
どこか懐かしくて――
涙がこぼれそうになるくらい、やさしい音だった。
「……そう、なんですか?」
「気に入らなければ別の名でもいい。強制はしない」
彼女は首を横に振る。
「……いいえ。“アヤ”で……いいです。なんだか……懐かしい感じがしました」
彼女の言葉に、男はじっと見つめ返してくる。
その目には、言葉にしがたい想いが宿っていた。
その瞳の奥にあるもの――それが何かは、今の彼女にはわからなかった。
「……わかりました。私、“アヤ”で、いきます」
その言葉に、男の表情がほんのわずかにやわらぐ。
だが同時に、何かを押し殺すような翳りもあった。
それが自分に向けられた悲しみなのか、それとも――。
アヤには、まだ分からなかった。
◇◇◇
アヤが再び眠りについたあと。
男――有村聡は、静かに彼女の寝顔を見つめていた。
白くて滑らかな頬。
ほんの少し痩せた顔立ち。
それでも、あのときと同じ、静かな寝息。
あの頃と同じだった。
――彩菜。
胸の中で、その名を呼ぶ。
あの夜。
彼女は、自分を庇って命を落とした……と思っていた。
目の前で胸を貫かれ、そのまま闇の裂け目へと引きずり込まれていった。
手を伸ばしたが、間に合わなかった。
呼んだ名も、届かなかった。
戻ってこられるはずがない場所――
そう言われていた“あの空間”に、彼女は呑まれて、消えた。
……それなのに。
いま、目の前で眠っている。
確かに、息をしている。
聡はもう一度、彼女の顔を見つめる。
肌の色も輪郭も、どこか覚えがある。
だが、髪は白銀色に変わり、瞳は深い青の光を帯びていた。
以前の彼女――彩菜は、柔らかな栗色の髪と、やさしい焦げ茶色の瞳をしていた。
外見は、たしかに違う。
それでも、息遣いも、声の響きも――すべてが彼女だった。
魔素の影響で、髪や瞳の色が変わる例は少なくない。
異界との接触が長い者には、よくある変化だ。
それを考慮してもなお――
「……俺が、お前を間違えるはずがない」
静かな声が、部屋に溶けていく。
彼女を見つけたのは、廃駅の先にある旧連絡通路だった。
すでに“侵食地帯”とされ、人が立ち入らなくなった場所。
そこに、彼女は倒れていた。
傷ひとつなく、ただ静かに、息をしていた。
ありえない。
でも、そこにいた。
「……彩菜……本当に……お前なんだな」
呟いた声には、祈りにも似た震えがあった。
記憶を失った彼女に、すべてを告げるには、まだ早い。
だが、それでも――
今度こそ。
何かを取り戻せるのなら。
「……今度こそ……お前を守るから」
そう呟いた彼の言葉に、アヤの寝息だけが、静かに重なっていた。