第0章:奈落の夜に-プロローグ-
――夜が、崩れた。
天から降る、赤黒い閃光。
瓦礫に覆われた地下通路を、焼き尽くしていく。
男の目の前に、ねじれた影が迫った。
それは、まるで触手のような黒い鞭。
空気を裂くような音を残して――避けきれぬ速度で襲いかかる。
――ダメだ。避けられない。
そう思った、その瞬間。
「危ないっ!」
誰かが、彼の前に飛び込んだ。
「――っ!?」
耳をつんざくような、肉を裂く音。
目を見開いた女の胸を、漆黒の触手が貫いていた。
血のしぶきが、闇に淡く咲く。
「彩菜――!!」
男は叫んだ。だが、返事はなかった。
触手が音もなく引かれていく。
女の身体は宙を滑り、何かに導かれるように引き寄せられていく。
その先にあったのは――
ぽっかりと開いた、巨大な“裂け目”。
底知れぬ黒い闇が、輪のように渦を巻いていた。
〈そこに落ちた者は、戻ってこない〉
そう噂される、寒気と死が満ちる空間。
「やめろっ! 離せ、彩菜を返せ――!」
男は必死で駆け寄り、手を伸ばす。
その指先が、彼女の手袋にかすかに触れた。
だが、届かなかった。
裂け目の縁が崩れ――
女は、触手とともに、深い闇の中へと呑まれていった。
その直前、彼女はかすかに微笑んで――
「……無事で……よかった」
それが、最後の言葉だった。
「彩菜ぁ――!!」
伸ばした手は、何も掴めない。
叫び声は、爆音にかき消されていった。
そこに残ったのは――
血の匂い。焦げた鉄の臭い。
そして、床に落ちた、小さな白い布片だけだった。
何も……守れなかった。
その瞬間、男の胸の内で、何かがきしんで――音を立てて、砕けた。
世界は、まだ燃えている。
けれど、音も、光も、すべてが遠ざかっていく。
ひとりきりの闇が、彼を包んでいた。
男は膝をつき、唇を震わせる。
「……彩菜……」
かすかに漏れたその声は――
祈りのように宙に溶けて、闇に消えていった。
◇◇◇
そして――
その名を、もう一度呼ぶ日が来るとは、
このときの彼には、まだ想像もつかなかった。