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鬼女  作者: 緒川 文太郎
8/11

八、竹蔵

 清音を妊娠してから、小沢家とは疎遠になっていた清美子であったが、この頃から実家へと頻繁に戻る様になった。切っ掛けは、竹蔵の病であった。

 岡山大学病院に入院する事となり、入院準備の手伝いも兼ねて、清美子は坂本の実家に清音を連れて帰省した。清美子が実家に到着すると、大阪市から長男の泰一が帰省しており、次男の正二とその妻の里江も清美子の到着を待っていた。正二は結婚して子供が出来てから、実家の離れに妻子と共に住んでいた。近隣でうどん屋を営んでおり、本日は臨時休業の看板を下げていた。

「済んません。乗り換えのバスが無うて、えろう遅うなりました。」

清美子は実家の玄関扉を開けて中に入り、親族一同に挨拶をした。清音を連れての初めての帰省であった。その所為か、清美子は幾分緊張しており、然程暑くも無いのに汗をかいていた。

「やぁ、元気じゃったか、清美子や。ありゃ、そん子が清音かいな?清音や、儂ぁ、お前さんの爺ぃじじゃ、こっちにおいで。」

ニッコリ笑って手招きする竹蔵の元に、清音はそろりそろりと近付いて行った。後一歩という所まで来た所で、清音は立ち止まってしまった。すると、竹蔵は身を乗り出して、清音に覆い被さって抱き締めてしまった。

「わぁ、可愛えぇのう。本に別嬪さんじゃ。こりゃ、心配で心配で手元から離されんのう。」

そう言って、スリスリと頬擦りを始めてしまった。清音の人見知りな性格から、『何ゅうするんじゃ!』と言って怒り出さないかと清美子は心配したが、清音も満更でも無い様子でじっとしていた。初対面の人間に此処まで接触され、気分を全く害さない清音を、清美子は初めて目にして驚いた。血の繋がりの成せる業であろうか、清音は竹蔵の愛情をあっさりと受け入れた。一方のキヨは、その様子をじっと見詰めていた。何か言われはしないかと清美子は気を揉んだが、キヨは清音の事については一切触れなかった。清美子も勿論、赦された等とは思っていなかった。竹蔵の病状から、キヨにはそんな余裕が無いだけであったのだ。


 竹蔵の入院準備というのは名目で、実際は今後の治療方針について、家族で話し合う為の集まりであった。竹蔵には検査入院という事で説明をしてあったが、実際にはステージ四の喉頭癌であった。既に他臓器への転移が見られ、患部の摘出手術も不可能な状況であった。親族会議で放射線治療のみを施す事となった。この様子をじっと見ていた清音は、清美子に親族会議での疑問をぶつけた。

「何して、爺ちゃんには言わんの?爺ちゃん本人の命じゃのに、何して本人がその『使い道』を決められんの?」

『使い道』という言い回しに、清美子はドキリとした。『使い道』……その言い方は、命を代償として何かを成す事の様に思えて、子供の言葉ながら清美子の心の奥底を震撼させた。

「お爺ちゃんに心配させん為じゃ。あん人は気ぃ遣いぃじゃけぇ、病気と解ったら私等にぼっけぇ気ぃ遣うてしまう。そうしたら、余計に病気も悪うなってしまう。そんなん、嫌じゃろ?」

「うん、嫌じゃ!爺ちゃん大好きじゃけぇ、いっぱい笑うとって欲しいわぁ。」

久々に見る清音の屈託の無い笑顔に、清美子は心の奥底が鉛の様に重くなった。親族会議での決定は、本当に正しい選択であったのかと……。


 翌年、竹蔵の病状は更に悪化し、左の眼球にまで転移した。病状は芳しく無く、直ぐにでも摘出手術が必要となった。その際にも竹蔵本人には一切を告げず、親族の同意のみで左眼球の摘出手術が行われた。術後の麻酔から醒め、竹蔵は己の身体の現状を知って、誰も居ない病室で一人泣いた。従軍経験も有る竹蔵には、手足を失う位の覚悟は有った。だが、或る日突然に何の前触れも無く左眼を失う事は、失望以外の何物でも無かった。

 更にその翌年、医師からは余命一ヶ月と告げられた。大学病院側もこれ以上は治療の施しようが無く、本人の希望通り最期は自宅でとの事で、竹蔵は数年振りに坂本の自宅に帰る事となった。キヨは竹蔵の病が発覚した頃から、洋装店を閉めてずっと付き添っていた。

「わぁ、懐かしいのう。ちぃと帰らんかっただけじゃが、こげん懐かしゅうなるとはな……。」

竹蔵は三人の男性親族に抱えられ、坂本の自宅へと帰って来た。坂本の自宅は段差が多い昔ながらの造りではあったが、竹蔵は最早、一人では歩く事もままならなかったのだ。日当たりの良い縁側から直ぐ隣の和室に布団が敷かれ、竹蔵は先程の三人に依って其処に運ばれた。以前の精悍な竹蔵の面影は無く、骨と皮だけの憐れな姿であった。


 それから一週間後、竹蔵は息を引き取った。傍らで看取るキヨにこう言い残して。

「キヨ、最後までお前さんを守れんで済まんなぁ。……清美子と清音の事は、お前ぇに頼むけぇ……。」

それが竹蔵の最期の言葉となった。漸く暖かい春の日差しが届き始めた、昼過ぎの穏やかな時間の事であった。

 その日の内に近しい親族に連絡が行き、夕方には全員が竹蔵の亡骸の前に顔を揃えた。竹蔵の姿を見るなり、清音は傍へ駆け寄って頬擦りをした。清美子の静止も聞かず、暫くはそのまま竹蔵の亡骸にしがみ付いていた。

「……此処に居る、お前等全員が爺ちゃんをこげん姿にしたんじゃ。病気になった時もそうじゃ、眼を取った時もそうじゃ、何して教えてあげんかったんじゃ!何して爺ちゃん自身に、命の『使い道』を与えてあげなんだんじゃ!そうしたら、こげぇな……。」

「良え加減にせぇ、清音!この家の者でも無ぇ癖に!余所者が出しゃばるで無ぇ!」

突然のキヨの叱責であった。何となくではあるが、清美子の様子から事情を察知していた清音である。此処ぞとばかりに、キヨに日頃の思いをぶつけた。

「煩ぇ、クソババアが!貴様の様な奴の身内に生まれた覚えは無ぇ!私は爺ちゃんの孫じゃ!お前を祖母とは認めん!」

そう言い放つなり、清音は小沢の家を飛び出して行ってしまった。清音の言葉は、十二年前にキヨ自身が清美子に投げ付けた言葉そのままだった。キヨも清美子も茫然自失としており、とてもでは無いが、清音を追いかけてその安全を確保出来る状況では無かった。

「あああ、もう!母さんも姉さんも、何ゅうしとんじゃ!こげぇな時に情け無ぇ!」

そう言って清音を追い掛けたのは、清美子の弟の正二であった。駐車場から車を出すなり、子供の行きそうな場所を虱潰しに捜して回った。程無くして、近所の川原で清音は見付かった。正二は路肩に車を止め、清音に近付いて声を掛けた。

「清音ちゃん、さっきのはおえんぞ。あれじゃあ、母さんの立場が悪うなるで。」

「叔父ちゃん!……だって、私は小沢の家の子じゃあ無ぇけぇ。」

「ありゃ?可笑しいな?叔父ちゃんの可愛い姪っ子じゃと思うとったが……。じゃったら、これは渡されんのう。」

そう言って、正二は月刊の少女漫画誌を手元でヒラヒラとさせた。

「あっ!」

清音の愛読している少女漫画誌であったのだ。月刊誌なのだが、清音は経済的理由から毎月買って貰う事は出来ず、数ヶ月に一回買って貰うのがやっとだった。当然、今月号も読んではいない。飛び飛びで読む連載漫画の空白部分は、清音が妄想して作り上げて読むのが常であった。

「これを渡す代わりに、読み終わったら母さんの所に戻ろうな。」

正二は清音が漫画を読む間、じっと何も言わずに横に座っていた。『母さんは、何してあげぇに姉さんばっかりに冷とうするんじゃろう?姉さんはいつも、儂等兄弟の中で一番の貧乏くじを引かされとったな。……まぁ、今月号の漫画は売り切れとった事にするしかねぇか。』少女漫画誌は、実は正二の長女である麻子の愛読書であり、今回もその子の為に購入して来た物だった。


 暫くすると、清音は漫画を読み終え、正二に差し出した。

「ありがとう、叔父ちゃん。もう読んだから、これ返す。」

「もう良ぇんか?」

「だって、これは私の物じゃないじゃろう?麻子ちゃんの物じゃろう?この家には、私の物なんて何一つ無ぇから。……迷惑を掛けてごめんなさい。」

少し考えてから、正二は優しくこう言った。

「いぃや、これは清音ちゃんの物じゃ。この家にも、清音ちゃんの物はいっぱい在るで!」

清音の頭を撫でながら、正二は『この事は麻子には絶対言うたらいけんで。二人だけの秘密じゃ!』と指切りを交わした。

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