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鬼女  作者: 緒川 文太郎
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六、清美子

 時は過ぎ、小沢家の三人の子供達も立派に成人した。長男の泰一は大阪市内の電気店勤務を経て独立し、小沢電化商会という名で店舗を構えていた。次男の正二は岡山市内の和食店にて修行後、高松市内のうどん店にて修行中の身であった。やっと麺打ちを任される様になり、うどん店開業への目標に向けて邁進中であった。

 そんな中、岡山市内の病院に勤務している筈の清美子に宛てた手紙が、『宛て所に尋ね当たりません。』との事で小沢家に返送された。病院内の寮を出て、厚生町のアパートに移った事は知らされていたが、其処にはもう居ないとの事なのだ。

 翌朝一番に、竹蔵は備北バスと伯備線を乗り継いで、岡山駅前に降り立っていた。竹蔵はその頃には、吉岡鉱山を定年で退職していたが、キヨは洋装店の店番が有ると言うので、今回は坂本に残る事となった。竹蔵は急いで厚生町のアパートに向かったが、其処は既に引き払われていた。アパートの一階に大家が住んでいる事を思い出して尋ねたが、先月中に引っ越したとだけ言われ、清美子の引越し先の住所は不明であった。勤務先の病院にも出向いてみたが、此方も先月で辞めたとの事だった。

 途方に暮れた竹蔵が、病院の中庭で頭を抱えてベンチに腰を下ろしていると、偶然にも病院長が其処を通り掛かった。清美子を坂本で見送った際、一度だけ顔を合わせていた竹蔵は、見覚えの有るその容貌を見るや否や、思わず声を掛けていた。

「あ、あの……院長先生……ですか?」

振り返った病院長も、日本人離れした容貌から竹蔵の事を覚えていた様だった。

「ありゃ、こりゃあ小沢さんとこのお父様ですかな。まぁまぁ、ご無沙汰しとりますなぁ……。」

そう言って互いに一通りの挨拶を済ませると、清美子の引越し先の住所を教えてくれた。その際に訊いた清美子の退職理由に、竹蔵は清美子の今回の失踪理由を理解した。


 竹蔵は直ぐに、病院長に教えられた清美子の引越し先のアパートを訪れた。四戸が入る東向きの二階建てのアパートで、清美子の部屋は二階の南側に在った。一度戸を叩いてみたが、応答は無い。暫くして、もう一度戸を叩いた所、『……はい。』と言う声と共に、清美子が扉を開けて出て来た。

「……お、と……う、さ……ん……。」

幽霊でも見るかの様に、清美子は呆然と竹蔵を見詰めた。

「いやぁ、本に無事で良かったのう。手紙が返って来たけぇ、どげんしたんかと思うて来てみたんじゃ。」

朗らかな様子でそう言う竹蔵をアパートに上げ、清美子は茶の用意を始めた。薬缶で湯を沸かしながら、清美子は辿々しい様子で話し掛けた。

「……お父さん、済みません。急な引越しで……連絡が間に合わんで。心配を掛けた事は謝りますけぇ。」

淹れ立ての茶と茶菓子を載せた盆を持ち、清美子は竹蔵の待つ卓袱台に座った。その時の清美子の不自然な位に動作が緩慢な様子を、竹蔵は見逃さなかった。

「……何ヶ月じゃ?」

竹蔵の言葉に、清美子は何も答える事が出来ず、身を硬く強張らせて震え始めた。顔からは大粒の冷や汗が滴り落ちた。

「……言いとうねぇなら、儂ぁ何も訊かん。じゃが、儂が全責任を負うちゃるから、絶対にそん子は産めぇ。」

その竹蔵の言葉を聞くなり、清美子は大声を上げて泣きじゃくり始めた。頭を抱えて泣き喚く清美子を、竹蔵は優しく抱き抱えた。

「何して泣くんじゃ?子はおなごの人からしか産まれて来ん。儂等男衆がどないに頑張っても子は産まれん。子を腹に宿す事、それはおなごにしか成せん神の御業なんじゃ。」


 清美子は泣きながら、全てを父親である竹蔵に話した。未婚での妊娠である事、子供の父親は既婚者であり名は明かせぬ事、……生まれ出でる子は、私生児としてしか生きる道が無い事。暫く黙って耳を傾けていた竹蔵が、漸く口を開いて一言問うた。

「……若しも、そん子の命を儂等が差し出せと言うたら、そん子の命の代わりに、お前ぇは一体何ゅう差し出せるんじゃ?」

清美子はハッとして起き上がると、腹を抱えながら大声でこう叫んだ。

「絶対に……絶対に、例えお父さんでも、この子の命は奪わせませんけぇ!この私の腕でも脚でも何本でも持って行ってくれて良え。じゃけぇど、この子は死んでも渡しませんけぇ!」

鬼気迫る清美子の姿に、竹蔵は安堵の笑みを浮かべて言った。

「それでこそ母じゃ。素晴らしいわ。お前ぇは産む前から立派な母親じゃ。この後の事は儂が全て責任を持つけぇ、お前ぇは元気な子を産む事だけを考えとれ。」

そう言って、竹蔵は翌朝、笑顔で清美子のアパートを後にした。清美子には内緒で、押入れの布団の間に現金十万円を忍ばせておいた。

「あん子は頑固じゃけぇ、正面切って渡そうとしたら、大喧嘩になって出発が遅うなる……。」

そう言って岡山駅までの道程を歩く竹蔵の横顔は、晴れ晴れとして何処までも澄み切った青空の様であった。


 翌月、腹の子が安定期に入った頃、清美子は意を決して坂本の実家を訪れた。今回の妊娠の件で、事情の説明と出産の許可を貰う為だ。竹蔵は『絶対に産め。』と言ってくれたが、それは小沢家の総意では無い。小沢家の総意……それは即ち、キヨの意思という事であった。安定期に入った頃という事は、優生保護法の下では堕胎が赦されない時期と略々等しい。それはつまり、清美子が可否を尋ねる前から、キヨから出産の許可を貰う事が出来ないという予感が有ったからだ。


 竹蔵とキヨを上座に、清美子一人を下座に、卓袱台を囲んで小沢家の和室で話し合いが始まった。竹蔵から聞いて事情を知っているキヨではあったが、改めて清美子に説明を求めた。清美子が子供の父親との出会いから、妊娠するまで既婚者とは知らなかった事、子供の父親とは縁を切ってでも、一人で子供を育てるつもりだという事等を説明していると……。

「……儂ぁ認めんぞ。そん子はこの小沢家の子としては認めん。」

キヨが抑揚の無い声でそう言った。

「何して、何してじゃ……お母さん!絶対に迷惑は掛けん、助けてくれとも言わんけぇ、この子を産む事だけは認めてぇよ!」

今まで一度たりとも親に反抗した事が無い、親の言う事に異を唱えた事も無い、自身の要望さえも一切口にした事が無い、強請る事を知らない……それが清美子だった。キヨは、少し面食らった。

「喜美子や、お前ぇが産みてぇ言うんなら勝手に産みゃあ良え。じゃが、この家の子としては認められん!そん子は生まれながらにして罪を背負うんじゃ。生まれてから死ぬまで『かたわ』の子じゃ。お前ぇの身勝手な我が儘の所為で、そん子は一生父無し子の呪いを背負うんじゃで!」

此処まで言われると、流石に清美子も堪えられなかった。

「……もう、赦してくれとは言いませんけぇ。私は、この子の為じゃったら、この命を懸けられます……。この家を棄てても構いませんけぇ。……本日、本時刻を以って、清美子はこの家との一切の関わりを絶たせて頂きます!」

そう言ったかと思うと、清美子は身重の身体で玄関まで向かった。そして、玄関先で振り向きつつ両親に言葉を掛けた。

「産んで貰った事は感謝しとります。……今まで……ありがとう。」

そう言って、玄関扉を静かに閉める我が子を、竹蔵とキヨは呆然と見詰めていた。はっと我に返った竹蔵が清美子を追い掛けたが、玄関先の通りには清美子の姿は既に無かった。最寄りのバス停である天神山登山口まで行ってみたが、其処にも清美子の姿は無かった。初夏の気配が漂うバス通りで、竹蔵は一筋の涙を流しながら通りを見詰めた。

「済まん、清美子……。儂ぁ出来損ないの父親じゃ。娘を守ってやれん儂こそが、誠の『かたわ』者じゃ……。」


 その頃、清美子は天神山登山口の一つ隣、弓矢のバス停前を歩いていた。身重の身体で、見慣れた懐かしい風景を眺めながら、最後の別れを告げるつもりで一人歩いた。そのまま観音滝口のバス停まで歩き、バスの路線から逸れて観音滝までの小道に入ろうとした時だった。バス停からは外れた場所であるのに、バスが停車してその窓から男性が声を掛けて来た。

「お嬢さん、どないしたんじゃ?何処行かれるん?良かったら乗って行きんさい。」

そう言ってバスから降りて来た運転手が、清美子をバスの中まで手を引いて案内してくれた。清美子を座席まで案内する際、清美子の少しふくよかな腹に気付いた。

「ありゃ、妊婦さんかいな。妊婦さんがこげぇな道ゅう一人で歩いとるとは、こりゃたまげたなぁ。ちぃと待っとってぇな。」

そう言って、運転席の方から毛布と未だ口を開けていないペットボトル飲料を持って来た。

「このバスぁ高梁まで行くけぇ、途中で降りとうなったら言うてくれりゃあ良え。勿論、具合が悪うなった時も言うてくれや。」

清美子はバスの中で落ち着きを取り戻し、ふと他の乗客に迷惑を掛けていないか気になった。辺りを見回すと、一番後ろの席に年配の女性が一人だけ座っていた。

「す、済みません。ご迷惑をお掛けして……。」

清美子が頭を下げると、年配の女性は驚いた様にこう言った。

「何ゅう頭を下げなさるか。子は全ての人間にとっての宝じゃけぇ、気ぃ遣いなさんな。」

ニッコリと笑う年配の女性に、清美子はもう一度頭を下げると、前を向き直って先程の自身の行動を振り返っていた。『観音滝の小道に入って、そのまま観音滝まで進んで行って……私は何ゅうしようとしたんじゃろう?あそこでバスの運転手さんに呼び止められんかったら……。』

「……ごめん、ごめんなぁ。情けないお母さんで。私はお前を殺す所じゃった……!」

清美子はバスの中で声を押し殺して泣いた。この時、清美子の精神は限界を超えていたのだ。


 程無くして、バスは高梁バスセンターに到着した。清美子はバスを降りようとして、整理券を持っていない事に気付き、バス運賃の支払いをどうすれば良いか運転手に尋ねた。

「ありゃ、整理券を受け取って貰うとらんねぇ。じゃぁ、運賃を貰う訳にゃあいかんわ。儂ぁ良う忘れとったわぁ。」

清美子が怪訝な表情をしていると、運転手がボソボソと小さな声で言った。

「……儂ぁ、小さい頃に母親を亡くしとりまして、お母さんになる人を見ると無性に懐かしゅうなるんですわ。そん子がバスに乗れる位の歳になったら、いつかまた乗って遣わさい。……そん子の笑顔を、本日のバス運賃として頂きますけぇ。」

運転手はニッコリと笑い、清美子は彼の口元の黒子が妙に印象に残った。

「ありがとうございます。何年後になるかは解りませんが、このご恩は必ず……。」

礼を言ってバスを後にする清美子は、観音滝でバスに拾われるまでとは別人の様であった。その表情は決意の自信に満ち溢れ、そして、こんなにも見ず知らずの人の優しさに救われた事は無かったのであった。

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