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鬼女  作者: 緒川 文太郎
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五、商売

 竹蔵は復員してから、吉岡鉱山にて鉱員として働き始めた。仕事内容は、働き盛りの男性でもかなりきついものであったが、竹蔵は文句の一つも言わずに真面目に勤めた。朝は午前三時には起床し、家族全員分の食事を用意してから、家族が眠る内に鉱山への仕事に赴いた。昼は自前の弁当を持参し、薄暗い坑内で五分で済ませた。午後三時頃には一旦帰宅し、割り木拾いに山へと入って行った。夕方は午後五時頃になると、キヨと共に台所に立って食事の支度を始めた。そして、日没頃には家族全員で食卓を囲んだ。

 そうした竹蔵の献身的な支えも有り、キヨは見る見る内に元気を取り戻した。竹蔵がハルに言った冗談が嘘では無く、ハルは色艶も良く少し肥えて元気溌剌としていた。

「もう一人、もう一人子が欲しいのう。」

夕食後にキヨが縫い物をしていると、竹蔵がポツリと言った。

「そうじゃねぇ。それじゃったら、もうちぃと節約して行かにゃならんねぇ。」

手元に目を落としながら針を進めるキヨに、竹蔵は後ろからそっと近付くと、その手から縫い針毎縫い物を奪い去ってしまった。

「あ、何ゅうしなさるん……。」

そう言い終える前に、キヨは竹蔵に布団の上に押し倒されていた。日本人離れした堀の深い竹蔵の顔が眼前に迫り、キヨは瞬きをする事も忘れてその顔に見入った。真っ赤な顔をしたキヨの前に竹蔵の右手が伸び、卓上のガスランプの灯りをそっと消した。


 翌年、二人目の男児が生まれ、正二と名付けられた。生まれて間も無い時からキャッキャッと良く声を上げて笑う子であった。

「おぉ、良う笑うてからに。こん子は、商売をしたら上手く行きそうじゃのう。人を惹き付ける子じゃ。」

そう言って、正二を抱き上げる竹蔵を、キヨは不思議な面持ちで眺めていた。『こん人は子が生まれる度に、そん子の将来を予言する様な事を言いなさる。まぁ、冗談じゃろうて……。』そう捨て置いたキヨだが、数十年後に成長した我が子達の姿に、キヨは竹蔵の言葉を幾度と無く反芻する事となる。


 三人目の子育てが落ち着いた頃、キヨは商売をしたいと竹蔵に伝えた。この時代の女性が働く事等、一般常識では言語道断の事態であった。妻を働かせるという事は、夫に十分な収入が無いからという事になり、引いては夫の無能を世間にアピールする事になる。だが、竹蔵は世間の常識に囚われない男だった。

「それは、お前さんがやっていて楽しい商売なんか?ほんなら、好きにやりんさい。」

そう言ってキヨの後押しをしてやり、開業の為に自身の預金を差し出したのだ。あまりにもあっさりと受け入れる竹蔵に、キヨは思わず問うてしまった。

「何して、其処まで赦して下さるん?儂ぁ……おなごの身じゃし、若しかしたら商売に失敗するかも知れん。」

すると竹蔵はニッコリと笑ってこう言った。

「成功も失敗も神様のみぞ知る……。じゃが、儂ぁお前さんは商売をする為に生まれて来た様なおなごじゃと思う。心配せんで良え、いざという時はこの儂がケツ持ちじゃ。」

 キヨはこの時初めて、竹蔵の復員の夜にハルが言っていた言葉の意味を理解した。本当に……本当に、自分等には勿体無い男性だと心底思った。


 急拵えではあったが、その年の秋にはキヨの店が開店した。小沢洋装店という名であった。この頃は未だ、この辺りの人々の装いは和装が中心であったが、『これからは洋装の時代じゃ。洋服を仕立てる店が必ず必要になるけぇ。』とのキヨの予想通り、開店してからは噂が噂を呼んで、連日客足が絶えなかった。

 取り扱う商品は、色鮮やかな表生地から個性的な裏生地、特殊な装飾の釦等多岐に渡り、キヨでなければ何処にどの商品が置かれているのかも、皆目見当が付かない状況であった。勿論、客からの要望を受ければ、キヨ自身が採寸から型紙を起こし、裁断、仮縫い、中縫い、本縫い、仕上げまでの全工程を行った。

 当初、洋服の仕立ては序でのつもりで始めたが、洋装店の売上の殆どは、洋服のオーダーに依るものとなった。

「いやぁ、キヨさんのとこの洋服を着とったら、何や儂、ぼっけぇシュッとしとる様に見られるわぁ。これじゃったら、マネキンさんにも負けん様な気がして来たで。」

キヨの仕立てはスタイルが良く見えるとの評判が立ち、スーツのオーダーをする客が急増した。スタイルが良く見えるのも当然である。キヨは仮縫いと中縫い後の試着の際に、ミリ単位でジャケットの長さとズボンのタック幅、そしてズボン丈を調整していたのだ。その客の為だけに、その客の骨格にピッタリと合わせて、キヨが心を込めて仕立てた『作品』であった。そしてキヨは、どんなにオーダー数が増えて多忙を極めようとも、店の手伝いに来た従業員には、仮縫いの糸の処理でさえ一切を任せる事が無かった。全ては、キヨ自身に依ってのみ生み出された、可愛い可愛い子供達なのであった。


 やがて、三人の子供達も成長し、キヨ達の元を巣立って行く頃となった。長男の泰一は中学校を卒業すると、大阪市内の電気専門学校に進学した。二年後に、長女の清美子は岡山市内の看護専門学校、更にその四年後に、次男の正二は岡山市内の調理専門学校に進学した。清美子のみが、働きながらの進学であった。受け入れ先の病院で勤務しながら、其処の寮から専門学校に通う形で、学費は清美子の給与から差し引かれる形となっていた。両親の金銭的な負担を考えて、清美子自身が選択したのだ。清美子には将来への何の希望も無く、両親に金銭的負担を掛けない一番の方法だと思ったのであった。

 巣立ちの日、キヨは子供達に自身が仕立てたスーツを持たせた。キヨの店で取り扱っている最上級の生地を使い、子供達の骨格にピッタリと合わせて仕立てた。泰一も正二も、『ありがとうな。』と一言だけ言って、大した感謝もせずにスーツを入れたガーメントケースを抱えて家を出た。だが、清美子の巣立ちの日だけは様子が違った。清美子にはスーツは用意されておらず、『私ぁおなごじゃからな、そういう事か……。』と納得し、両親の見送りも待たずに家を出た。

 受け入れ先の病院長の迎えの車が待つ場所まで、清美子は無表情で黙々と歩いた。手に提げたトランクは重かったが、清美子には何だかとても空虚な空箱を持ち運んでいる様に思えた。

「清美子ーーーーー!待ってくれぇーーーーー!」

唐突に自身を呼び止める竹蔵の声を聞き、清美子は思わず立ち止まって振り返った。

「何も言わんと出て行く奴があるか!」

ハァハァと息を切らせる竹蔵に、清美子は小さく言った。

「……ごめんなさい。」

「いや、謝らんでも良え。只な、これをお前ぇに渡したかったんじゃ。」

そう言って差し出された手には、竹蔵が何よりも大事にしていた金無垢の懐中時計が握られていた。

「済まんな。スーツは間に合わんかったけぇ、代わりにこれを持って行きんさい。」

清美子には、それが竹蔵の優しい嘘である事は解っていた。針仕事のプロであるキヨが、期日までに仕立てを間に合わせられない事等有り得ない。何らかの理由で、キヨは清美子にスーツを仕立てなかったのだ。だが、優しい竹蔵の気遣いを、清美子は無碍にする事が出来なかった。

「わぁ、ほんまに良えの?こげぇな高価な物、緊張して良う持ち歩かんわぁ。」

清美子は大袈裟に喜んで、受け取った懐中時計をハンカチーフに包むと、ハンドバッグの中の一番下に丁寧に仕舞った。

「ほんなら、行って来ますけぇ。」

一言、そう言って巣立つ清美子の後ろ姿を、竹蔵は何とももの悲しい表情で眺めていた。


 事実、清美子のスーツが間に合わなかったというのは嘘であったのだ。キヨの店の裏の物置には、既に出来上がった女性用のスーツが吊るしてあった。若草色のツイード素材のスーツで、キヨの渾身の力作であった。完成したスーツの前で、キヨは只々立ち尽くしていた。

「……赦せ、清美子や。お前ぇの母は、正真正銘の鬼じゃ……。」

そう呟くキヨの表情は、窓から差し込む光が逆光となって良く窺えなかった。

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