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鬼女  作者: 緒川 文太郎
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四、再婚

 キヨが天井家に戻り半年が過ぎた頃、再婚話が持ち上がった。キヨに引け目を感じさせない為であろうか、親族が紹介して来た相手も再婚だとの事だ。高梁市備中町東湯野の実家からやや北に位置する高梁市成羽町坂本の出で、代々刀鍛冶を生業としている小沢という家であった。先の結婚では婿養子として出向いたが、其処で『かたわ』の子が生まれたと言うのだ。両手の指が、其々六本ずつ有ったそうだ。小沢家側が、『我が家ではその様な子は生まれた事が無い。依って、この様な子が生まれ出でたのは其方の血筋の瑕疵である。』との事で、一方的に婚姻関係を破棄したのだそうだ。血も涙も無い家の判断だが、しかしキヨは其処が気に入った。

「子を棄てた儂に、分相応な相手じゃな。」

そう言って、キヨはその再婚話に即座に応じた。

 翌年、小沢家の次男である竹蔵と再婚をした。竹蔵の日本人離れした長身と、鼻筋の高い容貌に、『何じゃ、外人さんみてぇじゃのう……。』とキヨは訝しく思っていた。だがしかし、竹蔵はキヨの予想を遙かに上回る良き夫となった。


 或る時、キヨは月のモノの痛みで身動きが取れなかった。家事をしなければと思うが、何とも身体が動かないのだ。漸く痛みを堪えて起き上がった所、思いの外に家が片付いていた。不審に思い、じっと辺りを見渡していると、竹蔵が明るく声を掛けて来た。

「どねぇなかな。出来る事は儂がしてぇたけぇ、ゆっくり休みょうりゃあ良え。」

元来、月のモノの痛みは重い方ではあったが、これまでに誰にも気遣われた事は無い。母親のハルにさえも……だ。

「何して……何して、解った様な……。」

そう言おうとしたが、キヨは痛みで上手く声が出ない。

「横んなっとりんさい。夫婦は助け合うもんじゃ。」

そう言って竹蔵はキヨを抱えると、そのまま膝枕の体制に持って行ってしまった。そうして、ポンポンとキヨをあやす様に軽く叩き始めた。

「何ゅうして……。」

とキヨが言い掛けたが、竹蔵の言葉に掻き消された。

「生きる……いう事は試練じゃ。お前さんはこれまでに幾つもの試練を潜り抜けとる。……じゃが、儂も試練を負うた身じゃ。せぇじゃから、この先の試練は儂と共に、互いに半分こして行かんか?」

 キヨは安易な思いで竹蔵との再婚を決めた事を後悔した。竹蔵は何処までも、キヨに対して誠実であり続けたのだ。

「鬼に……鬼になると決めたんじゃ……儂ぁ。悪う思わんで下せぇよ……。」

無条件に信頼を寄せてくれる竹蔵に、キヨは居心地の悪い罪の意識を感じながら、ギリギリと奥歯を噛み締めていた。


 竹蔵との結婚の翌年、キヨは元気な男児を出産した。折角の男児の出産だというのに、キヨには喜ぶ余裕さえも無かった。心の中は棄てた我が子である文子への懺悔の思いで一杯だった。

「キヨ、今、目の前に居るこの子を愛してやりゃあ良え。先ずは一歩一歩、出来る事からじゃ。其処から先は、こん子自身の人生じゃけぇ。必要以上に責任を感じなさんな。そうじゃなぁ、こん子は……ちぃとのんびり屋さんかも知れんのう。じゃがな、人間、生きとりゃあ大概の事はどうにかなるけぇ。」

泰一と名付けられたその子は、一家の跡継ぎたる長男として、何不自由無く育てられた。其処に、キヨの真実の愛が存在したかは不明である。

 そんな中、キヨが再び妊娠した事が解った。キヨは嬉しがるでも無く、何とも感情に乏しい表情をしていた。竹蔵はその知らせを聞くなり、大喜びで仕事先から帰宅した。そして、玄関の扉を開けるなり、キヨの腹に抱き付いてこう言った。

「次は絶対におなごん子じゃ。町一番の別嬪じゃで。そうしたら儂ぁ、そん子を嫁に行かさんで大事に大事にしちゃるんじゃ。」

 そんな折、竹蔵の出征が決まった。時は昭和十九年、太平洋戦争真っ只中である。奇しくも清一と同じ、第十師団歩兵第十連隊の所属であり、フィリピンのルソン島への派遣であった。

「行ったらおえん、行ったらおえんで……!」

蒼い顔で引き止めるキヨを、竹蔵は優しく宥めた。

「何も心配せんで良え。儂ぁ、必ず生きてお前さんの元へ帰る。日本男児の約束は必ずじゃ!」

本当は竹蔵も生きて戻れる確信は無かった。だが、家族を守る男として、一言でも弱音を吐く事は赦されなかった。この時、一番に恐怖していたのは竹蔵自身であった。出征前の一週間、竹蔵は殆ど眠る事が出来なかったのだ。


 竹蔵が戦地に赴いてから、キヨは食事を取る事も忘れた。縁側に座っては空を見上げ、何もせずに只々、一日が過ぎるのを待った。

 或る日、天井家からハルが出向いて来た。妊娠と再婚相手の出征という情報を聞き付けて、娘の様子を見に遣って来たのだ。

「何ゅうしょうるんじゃ、キヨ!情けねぇ!お前ぇには母親の自覚は無ぇんか!」

そう言うなり、ハルはキヨとその長男である泰一を、無理矢理に東湯野の実家に連れ戻した。

「その腹の子は此処で産みんさい。それまでは、儂がここで監視しとりますけぇ。腹の子に障る様な勝手は赦さんけぇね。」

実の所、竹蔵が出征前にハルに頼んでいたのだ。精神的に不安定なキヨの様子を見て、自身が戻るまでキヨの面倒を見て欲しいと。

「甘えとるんじゃねぇ。戦地に赴く竹蔵さんの恐怖を、お前ぇはどんだけ理解しとんなら。あん人は辛抱強ぇ人じゃけぇ、お前ぇには何も言わん。お前ぇはどんだけ……、どんだけあん人の愛情に応えられるんじゃ!」

 キヨはこの時初めて、竹蔵の意味の解らない笑顔の意味を理解した。何でも無い時にも、やたらと笑顔を作ってキヨに話し掛ける。キヨの得体の知れぬ不安を察知して、少しでも和らげようとしたのだ。


 昭和十九年八月初旬、キヨは元気な女児を出産した。空にはボーイングB-29爆撃機が飛び交う中での出産であった。高梁市では空襲等の被害は無かったが、住民達は爆撃機の音が響くだけで眠れぬ夜を過ごした。

「鬼畜米英め、この儂を殺してみぃ!儂ぁ負けんぞぉ!」

出産の際にそう叫んだキヨの声は、この時代の日本人の総意であった。

 戦禍の中で生まれた子は、キヨに依って清美子と名付けられた。亡き清一の名から一文字を取ったのだ。文子の身代わりだと思っていたキヨだったが、思った様には愛する事が出来なかった。清美子を抱き締めようとする度、文子の顔がキヨの脳裏に甦って来た。乳は張っている。母乳は出る筈なのだが、キヨはそれを清美子に与える事が出来なかった。見かねたハルが粉ミルクを用意し、空腹で泣きじゃくる清美子に与えるのが常だった。清美子は、生まれながらにして母親の愛情から阻害された子であった。


 翌年、終戦の知らせと共に、竹蔵は無事に復員した。

「お義母さん、竹蔵です!竹蔵が戻りました。キヨさんの容態は……。」

そう言って天井家に駆け込むと、奥の座敷で清美子を抱えて座るキヨを見付け、突進して二人を抱き締めた。

「……えぇ、た……け……蔵……さん……?」

幽霊でも見るかの様に、ポカンと口を開けて焦点の定まらぬキヨに、竹蔵は矢継ぎ早に言葉を浴びせる。

「この子か!この子が、儂等の二人目の子じゃな!名前は決めたんか?」

あまりに突然の出来事に、キヨが何も答えられずにいると、奥からハルが出て来て竹蔵を出迎えた。

「やぁ、竹蔵さん、良う帰りんさった。ご苦労さんじゃったな。この子は清美子言うんじゃ。」

「き……清美子……?おなご……おなごん子じゃな!ぼっこう別嬪さんじゃのう……。」

竹蔵の抱き締める腕に更に力が込められ、その痛みに漸くキヨは現実に戻った。

「痛……痛ぇわ、竹蔵さん。そねぇに強うされたら、儂もこの子も潰れてしまいますがな。」

喜びのあまりに有頂天になっていた竹蔵は、締め付ける腕の強さに気付いて慌ててそれを弛めた。

「す、済まん!儂ぁのう、お前さんにこうして生きて再び会えて、その上にこげん可愛えぇ子まで生まれて、嬉しゅうて嬉しゅうて仕方が無ぇんじゃ。」

そう言って大粒の涙を流す竹蔵の頬に、キヨはそっと手を触れてその涙を拭った。その涙の温かさに、キヨはこれが夢の中の出来事では無いと、現実に竹蔵が生きて戻ったのだと実感した。

「竹……蔵……さん。本に生きとられるんですか?」

「あぁ、儂ぁ此処に居る!戦争はもう終わったんじゃ。これからは、お前さんの居る所が儂の居る所じゃ。」

その言葉を聞いた途端、キヨは大声を上げて泣き始めた。キヨは、清一の出征の時と同じ思いをするのかと、怖くて怖くて仕方が無かったのだ。また、大事な人を失うのかと。


 「もうそろそろ良ぇかな?」

暫くして、泣いていたキヨが落ち着きを取り戻すと、隣の部屋からハルが声を掛けて来た。竹蔵とキヨが抱き合って涙を流している間、ハルは隣室にそっと下がり、二人の久々の逢瀬を邪魔しない様に気遣っていたのだ。冷静になった竹蔵は、気恥ずかしくて顔から火を噴き出す勢いであった。改めてハルに復員の挨拶をしていると、様子を聞き付けた昼寝中の泰一も、寝室から起き出して来た。

「仲睦まじいのは良ぇ事じゃが、今日はこれから忙しゅうなるでな。竹蔵さんが無事に戻りんさったんじゃから、今宵の我が家は祝宴じゃで。さぁ、キヨも清美子を早う背負うて、台所の手伝いをしんさい!」


 この日の天井家では、夜遅くまで宴会が続いた。親戚のみならず、近隣の親しい住民達までもが、竹蔵の無事の帰還を祝いに訪れた。手ぶらでと声を掛けてはあったが、皆が其々、祝いの酒や食事を持ち寄るので、天井家の台所は一時は物置の様になってしまった。

 日付が変わる頃に全ての客人を見送り、静けさを取り戻した天井家の台所では、ハルと竹蔵が多数の皿や杯の片付けに追われていた。キヨは泰一と清美子を寝かし付ける為、先に寝室で休む事にした。

「済まんねぇ、男の人にこげぇな事を手伝わせて。本にあげぇな子に、竹蔵さんみてぇな立派な旦那さんは勿体無ぇわ。」

ハルが洗い物をし、竹蔵がそれを受け取って布巾で拭く作業中だった。ハルがポツリと言葉に出したのだった。

「何してですか、お義母さん?儂ぁ愛するおなごの人とそのご家族の為じゃったら、どげぇな辛ぇ仕事をしとっても幸せですけぇ。」

ハルの洗い物をする手が、一瞬、ピタリと止まった。だが、何事も無かったかの様にまた直ぐに再開する。

「……キヨは、妊娠中じゃというのに、竹蔵さんが出征してからは何も食わん様になったんじゃ。儂が幾ら叱っても駄目じゃった。日がな一日中、縁側に座っては空を眺めとった。仕舞いには儂が口の中に食い物を放り込んで、無理矢理食わせるしかなかったんじゃ……。」

洗い物をするハルの手元には、水飛沫とは違う水滴がポタポタと垂れていた。竹蔵は、敢えて其方を見ずに答える。

「お義母さん、そりゃあ心配は要りゃあしません。儂ぁ料理は得意な方じゃけぇ。キヨさんが肥え過ぎたから言うて、後で文句を言わんで下せぇよ。」

 二人の会話を、キヨは寝室で寝た振りをしながら聞いていた。不甲斐無い自身の所為で、二人に心配を掛けている事に、キヨはこの上ない自責の念を感じていた。

「儂が……儂が弱ぇ所為じゃ。鬼になると決めたんじゃ、儂ぁもっと強うならんといけん。」

寝室の暗闇の中、キヨは見えぬ敵でも射抜くかの様に、真正面の闇を只々睨み付けた。

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