二、生家
天井家は代々、岡山県中西部に位置する高梁市備中町東湯野の商家であった。当時は川上郡湯野村と呼ばれていたが、合併に依る町制施行とその後の対等合併を経て、現在の地名で呼ばれる様になった。古くから漆の産地であり、備中塗等の工芸品で栄えた時期も有った。また、世界的に見ても希少価値の高い、逸見石等の鉱物が産出される事でも有名であった。
鉱物の取引で成功していた十市は、それまで生家が在った土地に、新たに母屋と離れ、数棟の蔵等を建て直していた。十市の両親と妻のハル、三人の子供達とで何不自由無い生活を送っていた。残された課題は、家督を継ぐ男児の誕生のみといった所であった。
キヨの誕生後、暫くの間は新生児誕生のお祝いムードに包まれたが、それも落ち着きを見せ始めている。姑の言葉の所為だけでは無く、この時代の女の務めを果たさなければと、ハルも少しずつ焦りを感じていた。
「次こそは絶対、おとこん子を産むけぇね。」
そう言って毎日、ハルは仏像を安置した近所の庵に通い、男児出産の為の祈りを捧げた。その祈りが通じたのか、はたまた只の偶然か、翌々年にハルが産んだ子は、見事な男児であった。この時ばかりは、姑も満面の笑みで労ってくれた。
「良うやりんさった。流石はハルさんじゃわ。本に良う頑張りんさったな。」
更にその翌年も男児が生まれ、天井家の子供達は二男四女となった。男児が立て続けに誕生した事で、姑のハルに対する態度は一変した。
末弟の出生から数年が経ち、その頃にはキヨは物心が付く年頃になり、家の中の用事を色々と任される様になっていた。キヨの勤勉な性格が手伝ってか、両親が出掛けている時等は、キヨが炊事、洗濯、掃除等の家事を全て任されていた。
このまま平穏な時が過ぎて行くかに思われた矢先、天井家に予想だにしなかった事件が起こった。
正月三が日の或る日、キヨと末弟を残して、家族は初詣に出掛けた。
「康市や、今日は姉ちゃんとお留守番じゃけぇな。良ぇ子にして待っとろうな。」
暫くは、おはじきやお手玉等の遊び相手をして貰い、とてもご機嫌な様子の康市であったが、母親が居ない事で次第に不機嫌になって行った。突然に餅を焼いてくれとせがんで、大泣きをし始めたのだ。両親から、三が日に餅を焼く事は禁忌と聞かされていたキヨは、何とかして末弟を諦めさせようとした。しかし、宥めても賺しても一向に泣き止む気配が無い。キヨは仕方が無く、七輪に火を入れて餅を焼き始めた。
「ほら、未だ熱ぃけぇ良うフゥフゥせにゃいけんよ。」
焼き立ての餅を冷ましながら、キヨはそれを箸で小さく切り分けて、康市の口元に運んでやった。康市は満面の笑みで、餅をハフハフと頬張っている。先程までの、サイレンの様な泣き声は何処へやら……である。
それから程無くして、初詣から家族が帰宅した。七輪の火は消してあるし、康市の口元は綺麗に拭ってあったが、香ばしい焼餅の匂いの所為で、ハルは餅を焼いた事に直ぐに感付いた。
「キヨ、何しょったんか、正直に言いんさい!」
ハルの鼻は誤魔化せないと観念したキヨは、直ぐに正座をして正直に謝った。
「康市に食べさせたかったんじゃ。何ぼしても泣き止まんけぇ、康市に餅ぅ焼ぇてやったんじゃ。本におえん事をしたんは解っとる。この通りじゃ、堪忍して遣わさい。」
泣きながら頭を下げるキヨに、ハルはその手を差し出し、その頭をゆっくりと撫でてやった。
「解っとるんなら宜しい。じゃが、良う気ぃ付けにゃおえんで。」
そうハルが言った途端、キヨは声を上げて泣き始めた。ずっと気負ってはいたが、未だ年端も行かぬ幼いキヨの泣きじゃくる姿に、ハルは少し任せ過ぎたと自身を反省した。
だが、事件は其処で終わらず、天井家に更なる不幸を齎した。末弟の康市が、庭の松の木から足を滑らせて転落したのだ。打ち所が悪かったらしく、町医者を呼んで治療をしたものの、それから三日三晩の間は高熱に魘された。康市は今際の際に、キヨの手を握りながら苦しそうにこう言った。
「姉ちゃ……ん、元気……になる……けぇ、また餅ぅ焼ぇ……てぇな。ま……た、食べてぇ……なぁ……。」
それきり、康市はウンともスンとも言わなくなった。力無くスルリと、キヨの手元から康市の手が滑り落ち、キヨはまざまざと末弟の死を感じ取った。
「あ……あぁ……、や……すい……ち、康……市……、あああ……ああ……あああああ……!」
いつもは行儀が良く大人しいキヨであったが、この時ばかりは大声を上げて泣いた。
それから二日後、天井家で康市の葬儀が行われたが、其処にはキヨの姿は無かった。康市が亡くなった夜から、キヨは蔵に籠って中から閂を掛けてしまったのだ。当初は家族総出で、キヨが蔵から出て来る様に説得を試みた。だが、一向に出て来る気配は無く、ハルの一言で家族の説得は打ち切られた。
「あの子は今、自身の罪と闘っとりますから。それに打ち勝ったら、必ず此処に戻りますけぇ。儂等は信じて待っとりましょう。あの子は……キヨは必ず勝ちますけぇ……。」
康市の葬儀が終わって五日後、キヨは蔵から出て来た。蔵の扉が開くなり、倒れる様にして姿を現した我が子に、ハルは直ぐさま駆け寄ってその胸に抱き留めた。
「……おかえり。お疲れさんじゃったな。」
ハルは、何も言わずとも、キヨの心の中に巣食う罪悪感を見抜いていた。ハルが餅を焼いた事でキヨを叱責したのは、火元の管理が出来る大人が居ない状況で火を起こした事が理由であり、三が日に餅を焼いた事に関してでは無かった。ハルはそれが古い迷信だと十分に解っていたのだ。だが、生真面目なキヨの性格から、餅を焼いた事で康市が死んだと……自身を責めるのではないかと思ったのだ。母のその懸念は見事に的中し、キヨは長らく自責の念に苦しんだ。
「……堪忍して……堪忍して遣わさい。もう……もう……餅ぁ焼きません……けぇ……。どう……か……堪忍して遣わさい……。」
そう寝言を言って寝ながら涙を流すキヨを、ハルは夜中に何度も目撃していた。その度にハルは起き上がって、キヨの頭を優しく撫でてやった。
「もう、大丈夫じゃ。もう、恐ろしい事は起きんよ。じゃけぇ、安心してお眠りんさい。」
そう声を掛けながら、明け方を迎える事も珍しい事では無かった。
この一件が、キヨのこの後の人生に大きな影響を与えた事は言うまでもない。キヨにとって、末弟を死に至らしめたのは自身であり、未来永劫、その罪を背負って生きる覚悟であった。