十、キヨ
それから年月は経ち、清美子は還暦を迎え、大学を卒業した清音は東京の大手企業に就職していた。『軟弱な男共には負けん!私は必ず出世するんじゃ!』そう言って家を出た清音を、清美子が心配しない日は一日たりとも無かった。清音は入社して間も無い頃から営業で成績を上げ、二十代では異例の主任への昇格を果たした。その頃から、清音の体調に異変が生じていた。五十四キロ有った体重は四十キロを切るまでに減少し、医師からは入院を薦められる様になった。竹蔵譲りの百七十センチ超えの高身長では、生命活動維持に支障が出るギリギリの体重であった。それでも清音は、『仕事に影響しますから、絶対に休む訳には行きません!』と言って、頑なに入院を拒んだ。
そんな時に、またしても実家からの連絡が届いた。キヨの入院であった。血便が出ると言うので成羽病院に診察に出向いた所、そのまま入院となってしまったのだ。
「大腸癌、ステージ二ですな。未だ転移もしとりませんし、年齢的にも癌の進行は遅いかと思います。ですが、治療は早いに越した事は有りませんけぇ。ご家族で良う話し合われて下さい。」
医師にそう説明を受け、清美子は一旦廊下に出てから、考えを纏める事にした。竹蔵の時の事も有り、本人に病状を伝えるべきなのか……。長男の泰一は仕事の都合が付かないとの事で、清美子に『任せるけぇ。』とだけ言って電話を切った。
清美子は考えが纏まらぬ内に、キヨの待つ病室に到着してしまった。そっと中を覗くと、キヨは眠っている様であった。清美子がキヨのベッドに近付き、そっとその手を握ると、キヨが不意に話し掛けて来た。
「どうじゃった?」
清美子は何も言えず、只じっと、キヨの深い皺が刻まれた顔を見詰めた。キヨのこれまでの人生の艱難辛苦を、如実に表現するかの如き深い皺であった。安心させる為に、何か言ってあげたかったが、清美子の口からは何も言葉が出て来なかった。
「……そうか、良え良え。それが、何れ終わりを迎える人としての人生じゃ。」
その時、キヨが窓の外のハナミズキを眺めながら、独り言の様にポツリと呟いた。
「……なぁ、もう直に春も終わりじゃな。……文子は、文子はどねぇしとるかのう。元気にしとるんじゃろうか?一目だけで良えから、もう一度会いてぇのう……。」
誰に告げるとも無く、自身の心の中で呟いた様な言葉だった。面と向かってキヨに頼まれた訳では無かったが、清美子にはこれが、娘としての使命の様に思われた。
昼食後、キヨがウトウトとし始めた頃を見計らって、清美子は病院を後にした。以前に、話には聞いていた。キヨには、竹蔵と結婚する前に別の家庭が有った事、その夫が戦死して長女を残したまま実家に戻らざるを得なかった事。……そして今でも、その娘の事を想っている事。清美子は感じる胸の奥の痛みを、気の所為だと無理矢理に思い込む事にし、予め調べておいた住所に向かった。
果たして其処は、キヨの入院する成羽病院からは目と鼻の先であった。通りに面した側は裏口であり、其処から脇道に廻って暫く進むと正面玄関が在る。昔の武家屋敷を思わせる質実剛健な造りで、至る所に植えられている松の木の見事さに、訪れる者は圧倒されるのであった。清美子は意を決してドアホンの釦を押した。ピンポーンと鈍い音がして、暫くして年配の男性が顔を覗かせた。
「はい、山野でごぜぇます。どちら様で……?」
とても気さくな雰囲気の年配の男性が、にこやかに応対してくれた。
「……あ、あの……小沢……清美子と申します。……文子さんに……文子さんにお会いしたいのですが……。」
清美子は緊張のあまり、どもりながらしか話せなかった。『小沢』という名を聞いて、一瞬男性は顔を強張らせたが、直ぐに笑顔になってこう言った。
「はい、話には聞いて居りましたけぇ、良う存じ上げて居ります。妻は少し出掛けておりまして、もう直に戻りますけぇ、此方でお待ち下せぇ。」
そう言って通された八畳の和室は、とても綺麗に整頓され、床の間には一幅の掛け軸とハナミズキの花が飾ってあった。
程無くして、文子が帰宅した。竹蔵似の清美子と違い、小柄に丸顔で小さな鼻と、キヨにそっくりな風貌であった。清美子がキヨが入院した事、もう一度文子に会いたがっている事を伝えると、文子は座敷に両手を付いてこう言った。
「本に申し訳ねぇ事ですが、儂がキヨさんに娘として会いに行く訳には行きませんけぇ。儂にゃあ育ての親が居りますけぇ、キヨさんを母親と呼ぶ事は出来ません。わざわざご足労頂でぇて、本に申し訳ねぇですが。」
「お、お願いですけぇ。一目だけでも会うて頂けませんか?この通りですけぇ!」
そう言って頭を下げる清美子に、文子は何とかして頭を上げさせようとした。その時、清美子の妙に節くれだった皸だらけの荒れた手が目に入った。
「……清美子さん……お仕事……されとるん?」
「はい、もう定年なんですけぇど、会社に再雇用をして貰うとるんです。」
文子がそっと触れた手は、文子より若い女性の手とは到底思えなかった。
「……お子さんは?」
「娘が一人居ります。ずっと片親でしたけぇ、少しでも娘に遺してやれたらと思うとりまして、働ける内は未だ働こうと思うとります。」
暫くの間が有った後、文子が恐る恐る尋ねた。
「……お母さんは、キヨさんは何て言うとるん?」
「家の者とは認めとりません……。それは……、父親が居らん身で子を産んだ私の責任です。娘には申し訳ねぇ事をしたと思うとります。」
清美子は文子に、生まれてからずっと抱えて来たキヨとの蟠りから、清音を産んで以降は小沢の家と疎遠になった事、父親と弟が既に他界した事等を話した。そして今回の様に、どんなに確執が有ろうとも、いざという時は実の母親を棄てられない事等も。
暫くの間、清美子と文子は言葉を交わし合っていたが、漸く日も暮れ掛けて来たので、清美子は山野家を辞去する事とした。文子が清美子を玄関先まで見送りに出た。文子を説得出来なかった事だけが心残りであったが、無理強いは出来ないと清美子は諦めていた。
「……気が、変わりましたわ。清美子さん、明日の昼前にお母さんのお見舞いに行かして貰いますけぇ。宜しゅう頼んます。」
見送りの最後にそれだけを言うと、文子は清美子に丁寧にお辞儀をした。
翌日の早朝から、清美子はソワソワと落ち着きが無かった。何度も時計に目を遣り、文子がいつ尋ねて来ても良い様にと、準備に余念が無かった。
午前十時半を少し過ぎた頃、病室の扉を叩く音が聞こえ、ゆっくりと扉を開けて文子が入って来た。
「お母さん、お久し振りです。文子が参りました。」
そう挨拶をして袷に身を包んだ姿は、先日同様、正にキヨと生き写しであった。
「あぁ、文子さんかいな。」
そう言って起き上がるキヨに、文子は語り始めた。
「お母さん、本日、文子は娘として挨拶をしに参ったんではありません。清美子さんの姉として、此方に参りました。」
何を言われているのか解らず、キヨと清美子は呆然として聞いていた。
「清美子さんに……辛う当たっとりはしませんか?清美子さんの娘さんを、何して認めてやらんのです?戦争で父親を亡くした子も、最初から父親が居らん子も、どちらも子に違いはありません。儂を置いて行かにゃならんかった、当時の事情は良う解っとります。恨んだ事が無ぇ言うたら嘘になりますけど、それでも戦争じゃからと諦めが付きました。……じゃけぇど、お母さんはいつまでそれを引き摺って行かれるんです?清美子さんには何の関係も無ぇ事です。儂に対する罪悪感から、儂の妹さえも良う愛さんのですか?」
「……ふ、文子や。何ゅう言うとるんじゃ?」
長年に亘り、キヨの心奥に巣食っていたどす黒い何かに、突然に文子は投げ縄を投げ付けたのだ。それは、一瞬にしてそれを捕らえて放さなかった。久々に棄てた我が子に会えると喜んでいたキヨは、一瞬の内に自身の一番痛い所を掴まれ、諦めかけていた今生に引き戻されてしまった。
「……きっと、誰も言うてくれんじゃろうから、儂の口から言わせて貰います。」
文子はキヨのベッドに近付くと、下を向いたままキヨの手をそっと握り締めた。暫くは俯いたままであったが、漸くその顔を上げてキヨを真正面から見詰めた。文子のその顔には、一筋の涙が流れていた。
「もう良え加減に、お母さんは儂への罪から解放されて下せぇ。そして、儂を愛そうとした分だけ、清美子さん達を愛してやって下せぇ。文子の最初で最後のお願いです。」
そう言って、文子はキヨの手をゆっくり離すと、呆然としたキヨと清美子が見守る中、病室の扉を開けながら最後にこう言った。
「それでは……お母さん、清美子さん、どうかお元気で……。」
深々と頭を下げてお辞儀をする文子の姿を残像として残しつつ、病室の扉は静かに閉まった。
病室の外の廊下には、急遽、東京から駆け付けた清音の姿が在った。病室内での会話を聞き、入る時機を失ってしまっていたのだ。
「ありゃ、清音ちゃんかいな。別嬪さんじゃなぁ。必ず……幸せになりんさいよ……。」
文子にそう声を掛けられて、何を言おうかとまごついている内に、あっという間に清音の視界から文子は消えていた。慌てて振り返ると、文子は既に病院の出口に向かって廊下を進んでいた。
やっと我に返った清美子が、慌しく病室の扉を開けて出て来た。病室の外に立ち尽くす清音に気付いたものの、其方には目もくれずに急ぎ足で文子の後を追う。
「あ、あの……!」
清美子の声に気付いて、文子が此方を振り返った。
「まぁ、清美子さん。済まんねぇ、甲斐性無しの姉じゃけぇ。儂に出来る事はこん位しか有りゃあせん。……堪忍じゃ。」
そう言ってニッコリと微笑んで、文子は再び病院の出口に向かって歩いた。その後ろ姿に、清美子は精一杯の思いを込めて声を掛けた。
「あ、ありがとうございます。お……お姉さん!」
それから数年後の平成二十七年九月二十三日、キヨは百五年の生涯を終えた。その顔はとても安らかで、嘗て鬼と呼ばれた人物とは到底思えなかった。先に患った大腸癌は既に寛解しており、老衰による死亡との医師の診断であった。
猛暑日続きの暑い夏が、漸く終わりを迎えようとしていた頃の事であった。数日前からキヨが食事を受け付けないと、小沢家の離れに住む里江から連絡を受けたのだ。清美子は岡山市から駆け付け、暫くキヨに付き添って面倒を看ていた。入院するのは嫌だと言うキヨの希望で、胃瘻等の処置は行わず、静かに自宅で過ごす事にした。最初の内は、細かく砕いたゼリー状の物であれば、二口程は口にする事が出来た。だが、やがてそれも難しくなり、湿らす程度の水を口にするのがやっとという状況にまでなった。
或る日、清美子がスプーンで水をキヨの口元に運んでいると、突然にキヨが話し始めた。
「……清美子や、聞いて……おくれ。儂の店の裏の物置に、……お前ぇに渡せんかったもんを置いて……ある。ずっと……渡せなんで、本に済まな……んだな……。」
それきり、キヨは目を閉じて言葉を発する事は無かった。予め予想はしていたが、いざとなると清美子は何をして良いか解らなかった。心此処に在らずといった様子で、清美子はキヨの脈を取り、そのまま柱時計の針に目を遣った。午後九時三十分であった。