村娘と喪失の棺8
(ようやく涼しくなってきた……)
藁の束を納屋に置き終わって、ナンシーはひと息つく。
一週間ほど前までは風が生温かく、息苦しいときもあったほどだったが、いまは冷たい。
青空に浮かんでいた大きな雲は散り散りになっていて、空が高く感じる。
蝉の声も、絶えてひさしい。
もう何度か日がめぐれば、祭りがはじまる。
祭りは長が元締めとなり、村が総出で行われるので、これからナンシーもその作業の手伝いをしなければならない。
首筋を伝った汗を冷たく感じて、ナンシーは持っていた布でさっと拭く。
今までは、汗をかいても風に渇くままにしていた。
だがベネトと会ってから、こまめに拭き取るようにいわれ、それからはそうしている。
蒸発するときに熱を奪われるのがよくないのだという。
理由を説明されても、そういう習慣がなかったナンシーは最初戸惑った。
(そんなこと気にする余裕、なかったしな……いう人もいなかったし)
村人は「印持ち」のナンシーに関わらない。ナンシーも村人に関わらない。関わっては、いけない。
遠巻きに何か言われることはあるけれど、直接いわれることはほぼ無い。
だから、戸惑う。
(ベネトにはそういうの、ないのかな……)
他人と関わって、戸惑うベネト。もしかしたら、そういう面もあるのかもしれない。
ただ、それはナンシーの想像の範疇を超えている。
ナンシーは、自分や村の人たちと関わる範囲でのベネトのことしか知らない。
自分や村人、それ以外の人と関わるとき、彼はどんななのだろう。
ベネトはナンシーの話をよく聞くし、ナンシーのことをよく知っているが、ナンシーはベネトのことをよく知らない。
ベネトは書物に記録してあるようなことは聞けば必ず教えてくれて、家族のことはよく話してくれるが、それ以外の人との関わりや過去をベネトはあまり語りたがらない。
(訊き方が悪いのかな。でも、探るようなことをするのがそもそも……)
いまは受け入れてくれるけど度を越せば鬱陶しいと思われるだろう。それは、怖い。
(あれ……?)
そんなことを考えながら祭りの準備が行われる作業場に向かって歩いていると、人影が見えた。
同時に、風がつよく吹いて、人影の方向からカンヴァーラニアの香りがした。
白金の鈴とよばれる麗しい花弁と、高貴な香りと、致死量の毒をもつ花の香。
イリューサットでは、滅多に咲かない。
ナンシーも、ベネトに実物をみせてもらうまで、知らなかった天上の花。
その香りは、前方の美しい女性から漂ってきていた。
ひと目でこの辺りに住む者ではないとわかる、絹などでつくられたらしき上等な衣装。
衣服と同じ上質なワインのような色をした帽子の下の髪は美しい銀色に輝いていて、肌も雪のように白かった。
長い睫毛に縁どられた瞳は神秘的な紫と金の混じった夕紫色をしており、片目はモノクルで飾られている。花弁のような桃色の唇が、上質の弦楽器のような艶やかな響きを紡ぐ。
「キミから夢解きについて依頼されるとはね。むかしは他人の夢の話なんて無意味だし興味無いとと心底バカにしていたというのに。ところで、さんざ他人をバカにして批判きたのにその相手に都合よく頼ろうとする輩についてどう思う?」
「……それについては謝罪しただろ。何回言わせるんだ」
その美しい女性の隣にいるのは、ベネトナシュだ。
なぜか彼は普段着ているような麻製のものではない、女性と同じように上等で綺麗な服をきていた。
「はは。可笑しいな。以前図書館で行われた公開授業においてマラニヤ統一前の戦いでの少数民族弾圧問題についての賠償をテーマに議論がされたとき『被害者側は義足ではなく切断されたそのもの足を使える綺麗な状態で元通りに返せ、というように侮辱された誇りを返せ、と言っている。だが現実は謝罪と金で償うしかないだろう』と言い切ったのは君自身だよ」
「そうかよ。そんなに謝罪や金が欲しけりゃくれてやるよ」
声をかけようとして、ナンシーは息をとめる。
ものすごく忌々しそうに言葉を吐き捨てていたが、女性に対してそこまでの態度をとるベネトをみたことがない。
たぶん、村のひとは――ナンシーを含めて、あんなふうに彼を苛立たせることができない。
ベネトの様子をみた女性は陽光を受けてきらめくモノクルの金色の鎖をゆらして、ころころと笑う。
「おお。他人に頭を下げるのをあれだけ嫌がっていたのに投げやり半分とはいえ素直だ。なんて気持ちが悪い。もうすこしいじり倒してやりたいが可哀相だから教えてやろう。ああ、でもその前に祈祷句を唱して最後に『ナリシュヴァラ様を崇めます』と謳うんだ。キミは破滅的な音痴だが慈悲深き我が主は許してくださるだろう」
「調子に乗ってんじゃねーぞ」
ベネトの、橄欖の瞳が、剣呑にきらめく。唸るように、低い声。
でも、どこか楽しそうで。
「すまないな。気に入らない神学者や宗教家を片端から舌鋒鋭く批判して
時には再起不能に追い込んでいた姿を思い出すとね。下げた頭の上で笑うくらいは許されると思わないか?」
「クッソ。寝言は寝て言ってろ」
「おお怖い。だが今の変わり様をみれば『ベネトナシュは普段生気が無いのに他人の間違いを指摘するときだけ元気になるから恥ずかしい』と嘆いていたご家族も喜ぶだろう」
ナンシーの知らないベネトナシュの話。
陽の光の下、ふたりの姿ははっきり見えるのに、何を話しているかも聞こえるのに、ナンシーには声も姿もどこか遠く感じた。
おかしい。さっきまでは、綺麗だと思って、もっとよく見ようと思って、近づこうとしていたのに、足が動かない。
短い言葉のやりとりだけで、美しい女性が、ナンシーの知らないベネトのことをたくさん知っていることがわかる。
そして、教えを請わなければ本を読むのもあやういナンシーと違い、彼と同じくらいの知識量を持っていることも。
自分以外のひとと居るベネトを、その態度みたいと、その言葉を聞きたいと思っていたのに。
ナンシーは、わからなくなる。
「ナンシー。丁度よかった」
ベネトが、ナンシーをみつけて、顔を輝かせ、走ってくる。
いつもは、嬉しいのに、いまは何故か、胸が痛む。
「繰り返し見る夢の話をしてただろ?」
「……うん」
「そういうのに詳しい奴がいるんだ。こいつは王立図書館で図書館の仕事やってるシーラ。占いとか神話とか夢とか、
あと深層心理と共通無意識に詳しいヤバい奴だ。都合のいいとこだけ聞いてやってくれ」
王立図書館の職員。ベネトが大好きな、本がたくさんあるところ。そこで働く、身分があってきれいなひと。ナンシーとは違う。
彼女が携えている鞄のように大きな本も、とても綺麗だ。表紙や背表紙は金で飾られており、全体的にやわらかい真珠光沢をはなっている。
いつかベネトが首から下げていた本か、それ以上に美しい。
ナンシーは、なにも、持っていない。
「そんな紹介の仕方があるか。……お嬢さんが困っているだろう」
いま自分がどんな顔をしているのか、ナンシーはわからない。
ベネトに、どう映っているのか。
「あ、あの、ごめん。ふたりで、話してて」
わきあがった感情にはじかれるように言葉を吐いて、ナンシーは立ち去る。
「おい」
誰かと一緒に居るベネトがみたいと思っていたのに。
ベネトの過去をもっと知りたいと思っていたのに。
もう彼の前から逃げ出すことはないと思っていたのに。
彼のとなりに、こんな自分が居ることがとても嫌だった。
※ ※ ※
「え、な……」
止める間もなくナンシーに走り去られて、ベネトナシュは唖然としていた。
その横で押し殺した不愉快な笑い声が響く。
ベネトにとってその笑い声は王立の図書館で閉館を報せる硝子の鐘の響きに似ていた。
見た目は透き通っていて美しいが、音色は色んな意味で耳障りなことこの上ない。
「キミのその間抜けな顔は初めてみるよ。本当に面白いね。面白いものを見せてくれたお返しに忠告するがね。あの女の子が見た夢が本当なら、我がいとおしき始源の方が此処に降臨する可能性がある
そのために私は此処に来ただけだと、早く追いかけて説明した方がいいよ」
「言われなくても」
シーラを一瞥すらせず、吐き捨てて駆けていく。
勢いで立ち上った砂埃を優雅なしぐさで避けながら、シーラは呆れる。
「やれやれ。あの夢についての私の話を理解しているのかな。理解できていたのなら、そもそもあの子を心配するより、自分の首に蜘蛛の糸が絡みついているのを心配した方が良さそうなものだが……あの女の子以外は碌に見えてないだろうし仕方ないね」
どこで彼が目をつけられたのか知らないが蜘蛛女神は残酷だ。
その仕打ちをわずかでも知る者なら誰もが気が違ったように怯え、今すぐにでもなんとかしたいと動き出すだろう。
だば、ベネトナシュはそれを知らない。シーラがもうキミにはあまり時間が無いよと忠告したところで、シーラが言っている物事を確認できる手段が無い限りはそれをすぐに鵜呑みにして信じることも無いだろう。
それが自分が助かる唯一の術だろうとも、信仰するという行為を彼は識らないから。
蜘蛛の糸から逃れる方法を知ることができるのは、自分がけして知ることも体験することも確認することもできない事象があるということをただ黙って受け入れることができる者――
どこまでも肥大していく自我や欲望を、敬虔さで織られた信仰というヴェールで覆うことができる者だけだ。
「キミが好きなものをみるように、私も私のいとしき神をみることにしよう」
シーラにとっては、ベネトナシュの首に絡みついた糸が締まって彼の息が止まろうが首が落ちようがどうでもいい。
シーラは自分の信仰の糸をたどるだけだ。
穢らわしい蜘蛛の神が現れる場所には、シーラの神もまた現れるゆえに。
手にしていた本を開く。それは持ち運びのできる折り畳み式の小さな祭壇になっており、
青金石でつくられたその中央には竪琴を持ち青い衣を纏った神が収められている。
シーラは祈り、啓示を待つ。
※ ※ ※
ナンシーに追いつくのはべつに難しいことではない。
ベネトナシュの方が足が早いし、そもそもナンシーの逃げる方向はだいたい決まっている。
動物がだいたい決められた環境や方向に逃げるように、ナンシーも自分がひとりになりたい、安心したいと思うような方向へ逃げていく。
そういう習性をだいぶわかってきたので、先回りするのも容易だった。
「あ……え……?ベネト、どう、して」
村はずれの水辺。覆い茂ったマンダシュリカの木陰にベネトナシュをみつけると、駆けてきたナンシーは大きく目を見開いた。
「そっちに用が無くても、こっちの話はなにも終わってない。……俺と話したくねえなら帰るけど」
「えっ……違う。そうじゃなくて……!」
「じゃあどういう理由?」
「……たぶん、ベネトに話しても、わかんない」
「それは俺が理解できないってこと?そこまで低く見られてんの?」
「ベネトがどう、じゃなくて……私が……わかんないんだもん。どう話せばいいか、わかんない」
「何でもいいから話せよ」
ベネトは、じっと見つめて答えを待つ。ナンシーは呼吸を整える。
「き、綺麗な、人だったね……シーラさん……」
彼女は深刻な顔をしていたがベネトは噴き出しそうになった。
案の定、誤解している。しかもかなりおぞましい種類の誤解を。
「すごくいい匂いだったし……」
シーラは宗教上の理由で常にカンヴァーラニアの香りをつけて歩いている。
翡翠を思わせる涼しげな香りなのはベネトナシュも否定しないが、シーラの事は人間を殺せる毒性のある植物の香りを身に着けてる奴としか思えず、ナンシーの言っていることがわからない。
そしてナンシーは何もわかってない。
汗で、衣服が張り付いて身体の線が露わになることも、甘い肌の香りがすることも。
直接的な表現は避けてベネトが注意したが、たぶんわかってない。
いまも、風に乗ってわかる。
瞳を閉じると、刺々しい気持ちは消えていく。ベネトはナンシーに言葉の先を促した。
「ベネトも、いつもと違う服着てるし……」
「あいつが『いつも着てる服は乞食の襤褸みたいだからそんな相手とは話したくない』とか言いやがったからな。こっちが言うことをいくつか聞く代わりに夢についての文献を調べさせた」
「なんで……」
「なんで、って夢の話をしてただろ。繰り返し見る、棺の話」
「ベネトも、気になってたの?」
「いや。ぶっちゃけ他人の夢の話に興味は無い」
「なら、なんで」
「なんでだろうな」
じっと、ナンシーの目をみる。そこ青い瞳にさざ波のようにゆれる混乱。動揺。
嫉妬という言葉が思い浮かぶが、その嫉妬の種類と対象がベネトには判断できない。
ナンシーは綺麗なものが大好きなうえに親しい友人がいないので、シーラを友人と誤解してベネトに嫉妬している可能性もなくはない。
どっちにしろおぞましい。
「これだけは言っておくけどな。あいつは……シーラはお前が誤解してるような種類の人間じゃないぞ。
俺が死んだら鼻で嗤うようなヤバい奴だ」
「えっ……そんなふうには、とても」
「見てヤバさがわかんねえからヤバいんだよ。そしてそんな相手に夢について聞くため
わざわざ近づいて行ったのほんとなんでだと思う?」
彼女の瞳には困った顔をした男の姿が映っている。
その姿をみたナンシーは、閉じ込めるように瞼を降ろす。
「ありがとう……ごめん」
「ほんとにな」
追っかけるのが趣味になったらどうしてくれると思うが言わない。
「で、夢について調べた結果の話を聞くのか?」
「うん。聞きたい」
「シーラの話を、シーラから直接聞くんじゃなくて、シーラが話した内容を、俺がいま話していいんだな?」
「うん」
「……王立図書館ほかの膨大な蔵書によると、青は文明の色の象徴なんだそうだ。そして、棺は受け継がれる知識の象徴。墓というものが無ければそういうものが『在った』ことすらわからない……知的欲求の高まりによって刺激された脳内がそういう映像を記憶処理のときに映し出しているらしい」
「そうなんだ……」
「そうらしい。俺は正直さっぱりわからん」
「ベネトに会う前までは見なかった夢だから、そういわれるとそうなのかも」
――と、ここまでが建前だ。実のところその夢は神の降臨を暗示している可能性がある――
――棺がひらく、というのは、そういうことだ――
シーラはそういって異端とされる「我が神」についてその後長々と語りだしていたが、その話をナンシーに聞かせるつもりはベネトにはなかった。
あのとき、シーラが崇める神の言葉で『神の家』と書かれた運命札をベネトに見せながら、シーラはどこか恍惚した顔で、微笑んでいた。
――雷に打たれた人間が墜落していることからも、意味するところはわかるだろう?神とその力の顕現は、しばしば破滅をともなうものさ。人が人である愚かさと傲慢の罪ゆえにね――
ベネトは無意識に奥歯を噛む。
くだらない。ほんとうに、くだらない。
「だから気にすることじゃない」
「うん……ありがとう。あ……」
「どうした?」
「お祭りの用意の仕事があるんだった。行かなきゃ」
「ああ。そういや俺も祭りの作法書いたやつを出しとけといわれてたんだった」
手を振って、別れる。
担がれる神輿にも組み立てられる櫓にも祀り上げる詩にも、それは居ない。
ベネトに映るのは目の前とこれからくるはずの現実だけだ。




