村娘と喪失の棺5
ベネトナシュが出口として案内された道は来た道とは違っていたが、洞窟を通るのは同じだった。
この産道に似た暗闇を通り抜ける行為にも、何か意味があるのだろうか。
歩きながら考えようとするが、香炉から流れてきた煙のせいなのか思考は散漫で目から入ってきた情報を処理できず、ものが明瞭には考えられない。
長いのか短いのかわからないまま暗闇を歩き続け、地上に出たときは、真昼を過ぎていた。
午後のきつい日差しをよけるために岩陰に入り、海風に身をさらして纏わりついていた煙の香を落とす。
意識して呼吸を整えていると、ようやく頭がはっきりしてきた。
おさまりの悪い黒髪を風に吹かれるままにしながら、ベネトは考える。
あの場所はすべてが美しかったが、欺瞞でできていた。残酷さや醜悪さを装飾しているぶん、貧民窟でみたものより性質が悪いかもしれない。
あそこに通った人間の何割かはほぼ確実に、貧民窟にいた連中より自分が上等だと思っている。
見世物がはじまる前に囁き交わされていた会話の内容で、それがわかった。
――そう、集まった連中の身分や素性よりも、問題はあの見世物だ。
美しい刃のことは、あまり気にはならない。
美しさに目が眩みがちだが、たぶんあれは存在しないまやかしではなく自分が知らない道理で作られた刃だ。
水を圧縮して切断したり、打ち抜いたりする、知らない人間からみれば魔術にみえる技術を、ベネトは本で読んだことがあり、それを思い出した。
だから、あの刃は本物だ。本当に斬れるのだろう。
だからこそ、どうしても頭から離れず、気になるのは、死体だ。
自分があの時見たのは確かに死体だった。
生々しい切断面とそこからみえる千切れた繊維とその隙間からあふれる血は、作り物とは思えなかった。
血と共に飛び散った生臭い臓物の臭いも。
本物の死体を用意して、見ている人間が気づかないうちに入れ替える。
煙で視界はかなり奪われていたし、音楽で聴覚も攪乱させられていたから、ごまかすのは容易だろう。
最後に姿を現したのも、実際は死んでなどいない本人だ。
これで理屈は通る。
ただ――切り刻まれる男の恐怖と苦痛と絶叫、それがベネトには演技には見えなかった。
血で描かれた五芒星の中心に居た少女が、噎せ返る血の匂いのなかで浮かべていた咲き誇る花のように嗜虐的な笑みも。
ただ、それは理屈ではない。
思い出すだけで吐き気がするのも、吸い込んだ煙の副作用か単にベネトの神経が細い所為で
残虐な場面が事実よりも肥大化して反芻されているだけかもしれない。
どれが揺るぎない事実でどこからが混乱のもたらす妄想なのか。
境目をはっきりさせるためにベネトはさらに調べようとした。
そこまでは覚えている。
だが――そこからの記憶が曖昧になっている。
そのような出来事があり、調べようとしたことまでは覚えている。
だが次の記憶は、見慣れた自宅の寝室で横たわっていた自分だ。
その傍で自分を覗き込んでいるのは両親で、「良かった……目を覚ましたのね!」「ああ、ケガはないんだ。ケガは」そんな言葉とともに涙が降ってきて頬に当たった。
聞いた話を統合すると、ベネトが自宅の前で倒れていたのを使用人が発見して、寝室に運び込んだらしい。
何故そんなことになったのか、ベネトも覚えていない。
ただ、このところベネトが貧民窟に向かったりおかしな動きをしていたのは両親も気づいていたらしく、問い詰められたので魔術について調べていたこと、その過程であったことをベネトは話した。
「魔術は天性に拠るもので教えられて身につくものではない」
「どんなに望んでも人はすべてを知ることはできない」両親からはそういいきかされ、そういうこともあるのだろうとは思った。別に両親の言うことが間違っているとは思わない。
だが納得はしていない。なぜ、記憶がないのかどうしても気になる。
調べる過程で目にした残酷な出来事は気づかないうちにベネトの許容を超えていたのか、記憶が欠落してからそれ以前よりも言動が不安定で攻撃的になったと嘆く両親の言葉を聞いたのもおぼえている。
悪いとは思いつつも、もし記憶の欠落の手がかりがあったら自分は飛び出していくとベネトは感じていた。
ベネトのそんな様子をみて王都にいる限り子供が同じことを繰り返すと判断したらしい両親は、王都マラニヤを遠く離れ、魔術など無い辺境の地・イリューサットに引っ越すことを決めた。
ベネトはイリューサットで仕事をしている祖父が持つ大量の貴重な蔵書を知っていたので、逆らうことはなかった。
むしろ、そこに貯められている膨大な知識に何か手がかりがあるかもしれないと感じて胸を躍らせていた。
そこで両親が流行り病にかかって亡き人となることも知らずに。
「ベネトのせいで両親が死んだ」などというものは誰も居なかったが、両親がこの土地に来ることになったきっかけは間違いなくベネトだ。
そして、病の流行は王都では起ってはおらず、イリューサットに来なければ両親が死ぬことはなかった。
誰も何も言わなくても、両親の墓の前でベネトはそう感じていた。
葬儀は終わり、祈りは捧げ終わっていた。このままこうしていても何の意味もない。けれど、ベネトは動けなかった。
強い風が吹いて首からさげたロザリオを揺らしても身じろぎもせず、冷たい墓石が傾きかけた陽に照らされるのを、じっとみつめていた。
ベネトと墓に浴びせかけられる血のように赤い光。魔術で病気は治せない。――なら、やっぱりあれは神が与えたもうた奇跡なんかじゃ、ないじゃないか――けれど、それが、いまさら――
ぐるぐるととりとめない思考を打ち切るように、ひときわ大きく鳴いた鴉が何羽か、夕空へと飛び立った。
すると、「哀悼」「絶望」を意味するために墓地の区画を区切るために植えられているキュプラウスの茂みの向こうから声が聞こえてきた。
「お前の親、死んだんだってな!」
「……」
「この俺が声をかけてやってるんだから返事くらいしろよ!」
「……はい」
どうやら、ベネトナシュと同じように親を亡くしたらしい女の子が、いじめられていた。
いじめているのは村長の息子のウィヤルだ。
いや、本人はいじめているつもりは微塵もないのかもしれない。
不幸があったときは、地位の高いものが低いものに慰めの言葉を声をかけるのが礼儀だから、それをウィヤルは実践しているのだろう。
だが、見たところウィヤルの無神経さが災いして慰めどころかいじめにしかなっていない。
ウィヤルに絡まれている茶色い髪をした女の子はうつむいて、みるからにおとなしそうだった。
ウィヤルは星から来た神に抗った英雄と同じご大層な名前がついているわりに、いろんなことに頭が回らない。
だが、自分に逆らわない相手を嗅ぎ付けるのがうまい。そして、目をつけた相手に対して、自分の好き勝手に思いついたことを言う。
「ナンシーの家は貧乏だから、苦労してたんだろ」
「そうですね……私が大きくなって家のことを手伝えるまで、ものすごく苦労してました」
「だろ?だから死、」
ウィヤルが口をきく前にベネトは彼の顔の前を横切るようにロザリオを投げた。
誕生石と銀の鎖で作られたそれは夕陽に照らされてきらめき、輝くロザリオを見つけた鴉が習性のままに宝石を目掛けて突っ込む。
「う、わ、なんだ、くっそ!」
自分の方へ突っ込んできた鴉の風切羽の先端に顔をしたたか打たれ、怯んだウィヤルは逃げていく。
村人なら皆、鴉が下手な子供より賢く、故意でなくとも一羽を傷つけた場合は集団で襲われる危険があると知っているからだ。
落ちたロザリオを回収しようとベネトがキュプラウスの茂みをかき分けたとき。
「誰?」
いままでうつむいていた女の子が、顔をあげた。
めんどくさい、とベネトは思った。
たぶんこいつ「お前のせいで苦労して親は死んだんだ」って言われても黙ってそうだなと、そう予測できたから、その言葉を聞きたくなかったから後先考えない行動に出ただけで――ああ、たぶん、いまは、何も考えたくないのだ。
「にゃあ」
反対方向に石を投げて茂みをゆらし、猫の鳴きまねで、ごまかした。
それでどこかへいってくれればいいと。
だがさすがにごまかされなかったらしく、声のした方を向いた女の子と一瞬だけ、目が合う。
驚きで大きく見開かれたその表情は無防備で、瞳の色は温かい青だった。
それはいつかどこかで見かけたような酷薄な青とは違っていたのに、胸を刺されたようにどきどきして、逃げていたのはベネトナシュの方だった。