村娘と喪失の棺4
遥か昔。「この世」と「あの世」というものの境界はいまより遥かに曖昧で、
本来「あの世」と呼ばれる場所に住まうような魔物――人間の苦悶を糧にする邪悪な存在――も
人間の棲む「この世」を当たり前に徘徊しており、人間は餌あるいは玩具として生かされていたのだという。
教会の教えでは、魔物たちによって遊びで殺されていく人間を哀れに思った神が、神みずから選んだ人間たちに「魔術」を与え、それを使いこなせる者たちが魔物を撃退して今の人間の世が誕生したことになっている。
ベネトナシュは教会の伝える、その人間に頗る都合がよすぎる神というものを碌に信じてはいないが、魔術は実際にあるので疑ってはいない。
存在を疑ってはいないが、魔術というのはベネトにとってわからない。
というのも、魔術というのは「術」と名のついているものの、ろくに理論・体系化はおろか検証もされておらず何もかもが個人の才覚や感覚に拠るところがおおきいからだ。
その何もかもよくわからない状態に神秘性を感じる人種がいることはわかる。
魔術を使えるのは選ばれた人間の証とされているため、社会的・政治的に優遇される向きがあり、魔術をもたない人間が必死に魔術を求めることがあるのもわかる。
ただ、「自分の欲望や目的のために魔術を求めるものがいるのがわかる」だけでベネトは魔術それ自体の魅力はわからない。
仕組みが分かり分解できて何度壊れても元に戻せるもののほうにベネトは魅力を感じるからだ。
わからないものをそのままにしておくのは癪なので、調べようとしたことはある。
「魔術は秘蹟である」とする教会の教えや権威に反発をおぼえていたことや、「魔術の才能は遺伝する」とされているのに祖父母や両親と違い、魔術が使えるという兆候が何ひとつなかったことに焦っていたとか、いろいろなことが自分の中であったが、「わからないのが癪」というのがベネトにとって一番しっくりくる動機だった。
王都には、「学習すれば魔術を身につけることができる」を標榜する集まりがいくつかあるという噂をしって、ベネトはまず噂を調べてそういう場所をみつけることから始めた。
いくつか見つけたその魔術集団は、どれも男しか入団を許さないというものだった。
母親も魔術師だったベネトは最初首をかしげたが、魔術を教えてるのが本当でもインチキでも金を集めるための題目にすぎない場合、財産をより持っている男を選ぶ理由はわかったので飛び込むことにした。
その集まりとして指定されていたのは、貧民窟だった。
まともな格好をしていては物乞いはまだしも暴力と強盗の恰好の標的になるため、場所に合わせてベネトも襤褸をまとい、顔に泥を塗ってそこへ向かう。
ゴミや自らの吐瀉物と一緒に埋もれている酔っ払いや意識を失ったまま汚れた石畳と同化してもつれている娼婦の間をかきわけて、秘蹟を与えるものが集うという噂があった酒場を目指す。
そこは安宿と一緒になっていて、受付には落ち窪んだ眼窩が骸骨をおもわせるみすぼらしい男がいた。
驚くことに男は革張りの貴重な書物――古代マラニヤ語で書かれ教会から異端とされた一派の経典のひとつ『螺饒音図』――を読んでいた。
ただし、本は逆さまだったが。
ベネトが受付に近づくと、男の眼球だけがギョロリと動く。
「ぼうず、ここは会員制だよ。ガキのくるところじゃない。帰んな」
それは予想していた答えだったので、ベネトは受付に金貨を出した。
顔と同じく骨のような手が目にも止まらぬ早さで金貨を懐にしまう。
「俺はこの本を読むのに忙しいんだ」
骸骨男は逆さまに持った本で顔を覆った。
ベネトは黙って通り過ぎる。
受付を通った先にひろがる風景は他の貧民窟の安宿とそう変わりはなかった。
割れた酒瓶と饐えた悪臭を放つ黒い塊。そこに集る青蠅と暗がりや天井をせわしなく這っているゴキブリ。所狭しと並ぶ扉に使われている薄い木板はすべて死人を運ぶのに使われていたのかと思えるほど薄汚れており、その向こうから獣のような唸り声が聞こえてくるのも変わらない。
――いや。
近づくにつれて、どん、どん、と何かを規則的に叩きつけるような音と振動が響いてくる。
それにつれて唸り声は、徐々に苦痛を大きく含むものになり、金切り声に変った。
金切り声を追うように遅れて聞こえてくる、連続的な韻を踏んだ低い声の重なり。
ィエナァロヴォデクツ・ファデシュムラウトツウェラ・セン・レヒム
ィエナァロヴォデクツ・ファデシュムラウトツウェラ・セン・レヒム
ィエナァロヴォデクツ・ファデシュムラウトツウェラ・セン・レヒム……
不気味に、低く、単調に続く意味のない言葉の連なりに聞こえる。
けれどもそれは現在、教会で使われている経典にしるされた祈りの詞を古代語に変換し、さらに逆から読んで発音したものだった。
小さな頃に文章を解体して逆から読むと別の意味になる文を作ったりして遊んでいたベネトにはそれがすぐにわかった。
だが、何のためにそんな行為をしているのか。もっと確かめようとして、音が聞こえてくる扉の隙間から、ベネトは部屋の中を覗いた。
隙間から見えたのは、逆さまになった十字架に両手を釘で打ち付けられて絶叫している全裸の男だった。
身体には古文献に散見される≪魔力径≫がペイントされ、それは全身に蜘蛛の巣状に広がっている。
長時間頭を下にされたせいで鼻から血を流している男の足に釘を打ち込んでいる男は、金槌を振るのに合わせるかのように逆さ経文を唱えている。
それを取り囲み、見守る男たちも、また。
釘を打たれた十字架のもとにはうずくまった男がいて、煙の立ち上る香炉の前で笛を吹くようなしぐさをしている。
だが、笛にしては持っているものが細い。手の動きも、何かをしごくような動きだ。
目を凝らしてよく見るとその手は血に塗れており、棘だらけの針金で作った縄のようなものを掴んで自らの舌に貫通させて引っ張っていたため、男の顔半分もまた血に汚れていた。
ベネトは扉から身体を離し、後ずさる。
部屋の中であつまっている者たちのなかに角膜白斑や眼球萎縮などの眼球の機能に異常がある人間は見受けられなかったが、部屋の異常性を目にしながらそれを認識しているものはひとりも居ない。
みな、好きなように幻をみて、自ら、あるいは他者を傷つけ、その痛みに酔っている。
連中の目に止まったら、逆さ磔にされている男と同じように自分も生贄にされかねない。
最初はゆっくりと、足音を立てないように来た道を戻り、声が遠のいたとわかるのと同時にベネトは走り出していた。
頭では、誰も追いかけてきやしないとわかっている。
目が開いていても塞がれているように、あの連中には苦痛のうめき声が天上の音楽のように響いていることだろうから、
いまとなっては遠くかすかに響くベネトの靴音も何か都合の良いものに変換されている可能性が高い。
それでも、足は止まらなかった。
走ることで、今さっき目にしたおぞましいものすべてを、身体に吹き付ける風が拭い去ってくれることを期待したのか。
そんなありえない発想をしている時点で自分も目にした光景に感化されている。
あとで調べて知ったのは、混沌こそが魔術の本質だというのが連中の主張だということだった。だから言い伝えの魔物は魔術にも長けると。
あそこで行われている行為が正しいとしたら、魔術というのは人間が理論や技術によって制御しているのではなく、苦痛や混乱が魔術を生み出していることになる。
「それ」はベネトには理解できない。
いや、したくないのか――それは、自分が未熟だから?偏見があるから――?
混乱を引き摺ったまま、ベネトはもうひとつ、噂に聞いていた「貴族が主催し平民に向けて魔術を披露する集まり」を調べた。
貴族には立場があるから、どこから漏れるかもわからない醜聞を警戒して貧民窟よりはひどい行為をしないだろうという計算もあった。
日付と場所をベネトが突き止めて赴いた場所は、
数百年前に尊い身分だったものが建てたというきらびやかな宮殿が天変地異に見舞われ、
土砂に埋もれたことによって生成された海辺の洞窟だった。
仮面をつけローブを身にまとった案内役に招待状を照合されると、後をついてくるように指示されベネトは従う。
入り口はごつごつとした岩壁に覆われて暗く、その奥には何もないようにみえた。
だが、奥の方から明らかにあたりにただよう潮の香とは違う、何らかの人工的な香料の香りがした。
案内人は、それを目印にして暗闇の中を進んでいるようだった。
暗闇を進んでいくにつれて潮騒は遠のき、かすかな明かりが見え始めた。皮膚をこする岩壁はやがて、すべらかに加工されたタイルに変っていく。
奥に進むとさらに人工的な香りは強くなっていき、それにともない燭台の明かりの数も増えて周囲の景色がはっきりしてくる。
浮かび上がる壁面装飾は華やかだが、どれも装飾過剰でグロテスクにみえた。
装飾をよりいっそう豪華にするために柱と共に規則的にあらわれる壁龕のもとに収められているのは、教会で列聖されているものたちの像ではなく、切断された腕や頭蓋骨など人間の死骸で装った異形のものどもだ。
とても嫌な予感がした。
だが、ベネトはそれでも確かめないと気が済まない。
通路の奥にある扉を開けると、おそらくこの宮殿が機能していたころはパーティーホールとして使われていたのだろうとおもわれる広間にでた。
そのひときわ目立つエクセドラに神像のように佇んでいるのは、内側から光を放っているかのような美少女だった。
ストロベリーブロンドの髪は雨上がりの雫をとらえた蜘蛛の巣のようなヴェールで覆われ、
透けた布地の向こうからでも分かるほど大きく深い海の瞳がみえる。
その目が一瞬、こちらを捉えたようにみえたのは、気のせいだろう。吞み込まれそうなほど深い瞳だった。そう。青く、深く、美しく
――輝いて見えるのに、誘うように美しいのに、そこで在ることを赦されるのはいっさいの虚無のみ――なぜかベネトの背筋は、ゾっとした。
ヴェールを留めるために頭上に輝く髪飾りの細工も繊細で、赤く光る六つの眼球のような宝石がちりばめられてそれぞれ揺れていた。
至極僅少な七色の衣の裾は、少女が微動だにしなくとも洞窟から吹き抜ける風を受けて生き物のようにはためき、翻っていた。
だがベネトが驚きに目を剥いたのは少女の現実離れした美貌ではなく、その手たずさえられた大きな鎌だった。
握りに施された豪奢な装飾に目を奪われたのではない。信じられないことに、その刃は青に紫に透き通っていた。
しかもそれは明らかに鉱物ですらなかった。まるで陽炎が刃の形としてとどめられているようだった。
のみならず、その刃は衣と同じようにゆらゆらと揺れているようにみえる。
少女の前には聖櫃を模したこの上もなく冒涜的で美しい祭壇があり、その上には腕輪や首飾りで飾られ、目隠しされた半裸の男が横たわっている。
音楽が鳴り響き、それにつられるように男の身体が宙に浮く。つなぎとめる縄も鎖もありはしないのに。
少女は蠱惑的に微笑み、男の唇に、首に、腕に、臍に、太腿に口づけをほどこしていく。
そうして。美しい鎌を振りかぶり。
足を。胴を。首を。最後に両肩のつながりを次々に絶っていった。
少女の手にした凶器がひと振りされるたびに、絶叫と血が迸り、壁と床を染める。飛び散った血に染め抜かれた腕輪が、明かりに反射してギトギトと輝き、カラカラと鳴って床に落ちた。
貧民窟よりもはるかに美しい場所に突然現れた光景は、残酷すぎて、ベネトは吐き気を覚え、視線をそらそうとした。すると。
――貴方は、棺の蓋に手をかける覚悟があるの――?
――それとも、怯えた処女のように、すべてを見ないフリで済ますの――?
そんなはずはないのに、吊り下げられた男に刃を入れながら、少女はこちらを見ていた。血飛沫を花模様のように纏い、微笑んでいた。
そして、聞こえるはずのない問いかけが、確かにベネトに響いた。
可愛らしいはずなのに、脳に直接釘を打ち込まれてぐちゃぐちゃにかき回されるような吐き気を誘う声が。
その強烈な不快感はなんらかの強制力があるようで、ベネトの顎はクイ、と見えない細い指に持ち上げられるかのように動いた。
眼前ではつながりを失った胴と首と手足は少女のみごとな手際により狙ったかのようにすべて一か所に落ちていて、血だまりを作っている。
そこから流れ出した血液は、床に掘られた溝を伝い赤い線となり、大きな五芒星を描いていた。
噎せ返るような血と臓物の香り。
もう、ダメだ。頭がおかしくなる。
美しい建築物なのに、屠殺場のようだ。
ここはどこなのか。現実なのか。それとも悪夢なのか。境目が、わからなくなる。
天井から吊り下げられた香炉からあふれる煙が充満し、視界も塞がれる。満ちていく精油の香りが、血腥さをうずめていく。
奏でられる音楽が、おどろおどろしいものから、きらびやかなものに変わる。
そうして香炉の煙がとりはらわれると、切り刻まれたはずの青年が中央に笑顔で立っていた。
自分がいまみたのは、幻だったのか――?
今日の「受講」は終わり。次の「受講」をお望みの方は登録と授業料を――そんな呼び声を遠くききながら、ベネトはその場を後にした。