村娘と喪失の棺22
上の人の話し合いで方針が決まるまでは軍に動きは無い。
一時は雪の中を行軍するのではとか、村自体を破壊した方が被害も少なく効率的なのではと言われていたけれど、噂では数日後にはまた行軍が始まりそうだという事だった。
(それなら、冬になる前に村に着けるよね、たぶん……)
非現実的な雪中行軍の不安から解放された。ナンシーはそう思っていたが、休憩所で顔を突き合わせているベネトナシュとシーラがどちらも憂鬱そうな顔をしているのをみて何かが起きたのを察した。
「どうしたの?」
「厄介ごとが一つ片付いたと思ったら、また面倒なのが来る」
「偉い人がまた何か言い出した?」
「そうとも言えるような、違うような……ルニアーク伯爵家のところのロノウェ殿がここに来るんだ」
「どんな人なんですか?」
「『人間に興味は無い』を公言して憚らないお人だよ。自分の興味があることしか話さないしそれに関する事でしか動かない。いつもは領地に引きこもって好きな事に没頭している筈なのに、どういうつもりで軍についてくる気になったのやら」
シーラは長い睫毛を伏せてこめかみを押さえる。その伯爵に会った事があるのか、ベネトナシュもため息交じりに言う。
「大方、魔物に興味があるとかだろう」
「……なるほどね。未曾有の天変地異も彼にとっては単なる興味の対象で娯楽な訳だ」
「そんな……ケガをするどころか、自分の命も危なくなるのに?」
レイソルの村に向かう12の軍のうちナンシーが所属している巫女の軍に幸い死人は出ていないが、戦いで片目や指を失った人も居る。
昔、五体満足でなければ貴族位と王位に就けなかった慣習もあり、貴族は普通、身体の欠損をとりわけ嫌う。
「社会常識がほぼ通用しない方だからケガ程度には頓着しないだろうね。ロノウェ殿は従軍経験が無い割に顔も身体も全身傷だらけなんだ。
何かおかしな実験をたくさんしたせいだと言われている。定かではないがお付きも何人か死んでいると噂されている。お付きが彼の実験のせい何人もで死んでるかどうかまではわからないがその可能性はありそうだったし自分の身体を使った実験はやっていると本人が公言しているね」
シーラから語れる断片的な人物像の時点でナンシーの理解をかなり超えている。ベネトナシュが続けた。
「伯爵身分だからかなりのワガママが通る上に何をしでかすかわからない。止められるとしたら公爵や上の身分だろうが、奴らは基本下々のいざこざには興味が無いからな。自分の利権と生命に関わることではない限りは」
ふたりが頭を悩ませる理由が良くわかった。災害が来る前の雲模様をたずねる気持ちでナンシーは訊いた。
「ベネト、その伯爵っていつ来るか知ってる?」
「明日には到着して会議で紹介されることになってる」
「できることは会議の内容を確認することくらいか。ナンシー、明日はキミと一緒だからよろしくね」
「同じく出席する俺の存在を当たり前のように消してないか?」
それから三人で明日の会議用の資料に目を通し、ナンシーとベネトナシュはシーラの付き人身分であることを現す印が入った帽子を受け取ってその日は終わった。
翌日。
ナンシーはシーラに付き従って会議の行われる街の議事堂の大広間に入った。伯爵が登場して紹介されると思っていたが、そのような人物は現れないまま会議は始まり、行軍の日程や他の軍との合流予定日などが告げられて終わった。
伯爵の姿どころかそれに関する話も無いまま。
会議室を出たナンシーは不思議に思い、表に続く大回廊を歩きながらベネトナシュにたずねた。
「ねえ、ベネト。今日到着するって聞いたけど、予定が変わったのかな?」
「ああ、たぶん……」
ベネトナシュが言いかけた声に、異様に威勢のいい声が重なった。
「おや、珍しい!ユリアンティラ子爵が従者らしきものを連れている!」
「ルニアーク伯爵……」
シーラとベネトナシュのその声で、ナンシーは声の主が噂の人物だと知る。
彼は変わった形の眼鏡をかけていて、レンズの横から伸びて耳にかかる金属の部分は蜻蛉の羽根を象っていた。
琥珀の瞳と紫水晶のような髪色も珍しい。
顔の造作は整っていたが、貴族らしい白い肌に似つかわしくない裂傷の痕が顔や首、手など服に隠れていないすべての部分に刻まれていた。
「どういう理由で傍にいるのを許したんだい?君、氷の子爵として有名で付き人や助手にしてくれって懇願してくる信奉者にとりわけ冷たかったよね?」
「彼女……ナンシーは、他のそういう人種とは違うので」
「他と違って君の傍に居ることが許されるくらい、とりわけ優秀とか?そうは見えないがだとしたらとても気になるな!」
ルニアーク伯が珍獣を観察するようにナンシーに近寄ると、ベネトナシュがナンシーの前に立って伯爵の視線を遮った。
「ルニアーク伯爵。会議が終わったとはいえ、これからは身分のある方々との食事会があるのでしょう?急がなくて宜しいのですか」
「オぅヤ!、君は!ベネトナーシュ君だね」
「……伯爵さまに名前を覚えていただき、光栄と恐縮の限りです」
ルニアーク伯爵はベネトナシュの名前を独特に伸ばして呼ぶ。
呼ばれたベネトナシュの口ぶりは神妙だったが、彼の顔は何故覚えている、とばかりにとても迷惑そうだった。
「覚えているに決まっている!『狂奔の黄の偽書』の写本の断片を売っている店を教えてくれた人!でも『瞋恚の赤の偽書』のページは売ってくれなかった意地悪な人だ!僕だって赤青黄の偽書がぜんぶ欲しいのに!一生恨むリストに入ってるよ!」
伯爵は笑顔だったがベネトナシュを捉えた目はまったく笑っていなかった。
「そうだ!ベネトナーシュ君がここに居るということは、何か珍しい書物や情報があるということかな?」
「ルニアーク伯爵。この旅は、危険です。領地にお戻りになられた方が」
そのままベネトナシュにずっと憑いてきそうな気配を感じたのか、珍しくシーラが助けるように声をかける。
「あれ?君がそれを言うのかい、ユリアンティラ子爵。得体の知れない魔物としか思えないモノが其処らに徘徊し始めている。もはやこの世界に完全に安全な場所など存在しない。君もそう思ったから、書物から離れてあれだけ毛嫌いしていた軍についてくる役目を承ったのではないのかね?」
「……私には私の事情がありまして」
「僕だって事情があるぞ」
「御身を危険に晒してまでやらなければならないことですか?私のように平民とそう変わらない身分と違い、貴方様は伝統あるルニアーク伯爵家の血筋を受け継ぐお方です」
捲し立てるロノウェに静かに返すシーラ。どうなることかとナンシーが見守っていると、ナンシーの聞いたことがない涼やかな声が続いた。
「ユリアンティア子爵。もっと言ってやってください」
声のした方を向くと、ロノウェとは対照的な、金色の髪をした青年が歩いてくるのが見えた。襟飾りを留めるブローチは騎士身分を示していて、大きな翠色の瞳は意志が強そうだった。
「言う事は言うけど相手が聞き入れるかは別問題だね」
「クリストフ。僕のかわりに食事会に出ておいてくれと言っただろう。何で戻ってきたんだ」
「ご冗談を。ちゃんと、『遅れて参ります』と言っておきましたよ。今日行われた会議の記録もあずかってきましたから、後で目を通しておいてくださいね」
現れた人物と伯爵とのやり取りをシーラは笑顔で見守っていたが、すぐに何かに気づいたようにナンシーの方を向く。
「ああ。ナンシーは初めて会うんだったね。こちらはクリストフ・ティレスタム男爵。伯爵に代々仕えているお家の騎士様だよ」
「只今ユリアンティラ子爵に紹介にあずかりました、クリストフです」
「ナンシー、です」
回廊の天窓から差し込む光で、クリストフの金髪と翠の瞳が眩しく輝いている。
顔立ちが整っているのでおとぎ話から抜け出た騎士のようだ。
「ナンシー様、でよろしいのでしょうか。ユリアンティラ子爵と、どのような間柄で……?」
「ナンシーは私の恩人だよ。身分は客人」
「そうでしたか」
紹介を受けて、クリストフはナンシーに対して貴婦人に対する礼をする。
その礼儀正しさにナンシーは驚いてしまう。
「正式な礼をするにしても、手をとるのはやめた方がいいぞクリストフ。ベネトナーシュに噛みつかれるからな」
「…………?はい。わかりました。ロノウェ様」
クリストフはナンシーを見て、ルニアーク伯爵とベネトナシュを交互に見る。最後にナンシーを見たが、ナンシーも伯爵の言ったことの意味は良く分からない。
「……相変わらず、苦労しておいでのようで」
そんな様子をみていたベネトナシュの声は皮肉そうだったが、クリストフは彼を見て笑顔になる、
「ベネトナシュ。きみも従軍していたんだな。意外だ。いや、ロノウェ様がいらっしゃるんだから、そう意外でもないのか」
「どういう納得の仕方をしてるんだ」
「良かった。ロノウェ様はきみを気に入っているから、これからも頼むよ。では、これから食事会の支度をしなければならないので失礼する」
そう言ってクリストフは黙って立ち去ろうとしていたルニアークの横に立つ。
「い、嫌だ!愚にもつかない連中と無駄な時間を過ごしたくない」
「身分ある者の責務は果たしてください」
的確にルニアークの逃げ道を塞ぎながらクリストフは表へ追い立てていく。
「……ああいう人なのだよ。ルニアーク伯爵は」
「でも、止めてくれる人がそばにいるなら、大丈夫なのでは?」
「うん。でもね、クリストフは優秀だけど、それでルニアーク伯が止まるかは別問題だからね」
ナンシーとシーラから離れて、ベネトナシュも消えていく主従を見ていた。
(……いっそ知識を求める善人とでも吹き込んでおけば実物を見た時に幻滅して警戒しといてくれたか?でも事実とかけ離れたことを言うのもな……食事会の内容も……公の場で決められた事でも、裏での取り決めで操作されるし……)
そうして彼は主従の後を追う。
「おや黙って去っていったよ。相変わらずだなあれも」
「気になることがあったんでしょうね」
「やれやれ。キミが不快に思わないなら私は何も言えないよ。さて、ナンシー、これからの予定は?」
「お守りを作って、完成させたいんです」
「本当に全員分作る気なんだね。無理はしないように」
それからナンシーは部屋に籠り、作業に没頭した。
どれくらい同じ作業を繰り返していたのか。その間に意識が遠くなり、まぶたが閉じる。
顔に当たる月明りで、机に伏していたナンシーは目覚めた。
お守りを作っているうちに、眠ってしまい、ずいぶん時間が経っているようだった。
窓枠が夜風にきぃ、と軋む。
ナンシーは誘われるように扉を開けていた。
どこを目指しているという意識も無く、昼間に会議が行われた議事堂にほど近い森林公園にナンシーはやってきていた。
月の光をたどって、公園の中央に植えられた大きな木にたどりつく。
そこにはいつか見たような、でもその記憶が無いモノが立っていた。
青い外套は月の光を受けて銀色に光を反射している。
シゲン・ナリシュヴァラ。
初めて見た時はわからなかった。でも、今は、なぜか、分かる。
「あなたが、シーラさんの崇めている神さま?」
「そう。この世界では居ないことになっているから、僕に直接であった者しか僕のことは知らない。出会っても忘れてしまうから、覚えているのはわずかな者だけだ」
「どうして忘れてしまうの?」
「この世界ではすでに死んでいるから、ともいえる」
「神さまでも死ぬの?」
「きみたちが死者を覚えていれば死者はその記憶の中で生き続ける。そうしていられるのは毎日とはいわずとも誰かが忘れないように思い出しているからだ。それをしなければどんなことでも忘れさられて消える。とはいうものの……現在、この世界で今崇められている者のように、『ほんとうの名前をけして呼ばれない』のと引き換えに権力の座に就いた者もいるけど」
「……私があなたを覚えていられるのは、あなたの一部でもあるから?」
「ああ。だいぶ、思い出したんだ?」
「13の中に8がある。蜘蛛の脚は8本で、蜈蚣の脚は必ず奇数対」
ナンシーが指摘すると同時に、ざあ、と風が吹く。
銀色の月の光に照らされて輝きながら散ってゆく木の葉たちとともに、シゲンの被っていた帽子が夜空に舞った。
以前とは違い夜だというのに、ナンシーには彼の顔が今度ははっきりと見えた。
月明りに照らされて宝石のような青い瞳が輝いている。だが四つの瞳のうち二つは額のあたりに在り、頬のあたりにはどろりとした赤い瞳が切れ込みのように覗いていた。
「そう。昔、僕と……きみたちが彼女と呼ぶものはこの世界に在り、二つではなく一つだった。けれど、今この世界を統べるもの……きみたちが現在あがめることになっている神と八度戦い、四度目に二つに裂かれた」
「村の地下にあった蜘蛛と蜈蚣の絵、あれはその時に描かれたもの?」
「そう。別々になった後も、同じように崇められた、と――そのときは思っていたのだけれど、本当は違った」
「神さまでも、勘違いする?」
「そう。存在する以上、いろんな制約を受ける。だからそのときは気が付かなかった。僕たちは別の存在になった時点で違うものを見ていたことを。同じものを敵とみなしして覇を争っていたから、余計に気づけなかった。そしてふたりともが敗北し、八度目には原型をとどめないほどバラバラに引き裂かれ、ここから追放された。断片として漂っている間、いろんな星を巡ったよ。僕を翼をもつ蛇、あるいは太陽として崇めてくる人々もいた。『彼女』を知恵を持つ者の守護者、運命を織る者として崇める者もいた」
四つの目はここではないどこかを懐かしんでいるようだったが、ふたつの赤い瞳はその記憶も視線も追っていない。彼の感情や意志とは無関係というように、ただ、蠢いている。
「どんなに粉微塵に砕かれようとも、もともと存在した《わたしたちの源》がこの世から消滅するわけではない。大きな塊は宇宙空間を漂いながら億劫の月日が経つにつれてまたつながり、現在の僕のかたちに成った。けれど、細かすぎる破片はこの地に残って眠ることになった。
この地に残った破片は人に宿り、それが成長すればいずれ追い払った者が舞い戻ってくる可能性があった。だからそれを恐れたあれは、破片が宿った小さく罪のないものたちを殺そうとした」
全ての瞳が、ナンシーをみつめる。
「その一部が、私?」
「そう。ある意味、彼女でもあり僕でもある。一部だけだけど――僕自身も希釈された本体といえるかもしれないから、そうなるとあまりきみと違わないね。同じかもしれない」
「ぜんぜん違いますよ」
彼は、笑ったように見えた。その気配がしただけかもしれない。
「なるほど細かい。きみたちが蜘蛛と呼ぶ彼――彼女にみえるのかな?は人間をみるのが大好きだったから、同じ視点で見たいと思ったのかもしれないね。ぼくにはその考えはない
「人の姿をしているのに?」
「好きでしているというより彼、あるいは彼女がひとの姿を借りれば僕もそうなる。僕は殺されて蒼褪めた夜に沈む太陽。ある時と場所では月の名で呼ばれ、今では彼女が奏でる運命の楽譜を始まりの原で弦を奏で鳴らす者だ」
目の前の存在が神の力を奮って地上にあふれ出た魔物を一掃し、扉を閉じることはない。言外にそう告げている。
人を救うのは、人の意志だと。
けれど、ナンシーには力が要る。
「一部だけだけど、すべてを思い出せば、私はあなたの《力》が使える?」
「そうだね。でも、きみは気付いているの。《力》を使えば使うほど――」
シゲンの言葉が終わるよりも先に、叫ぶような声が聞こえた。
「ナンシー!」
ベネトナシュが、自分を呼ぶ声。
目の前の存在は、掻き消えていた。最初から、何もなったかのように。
月夜の公園にひとりたたずむナンシーに、ベネトナシュが駆け寄ってくる。
「危ないだろ!ひとりで……なんでこんなところに」
「ごめん。でも、ベネトナシュだってひとりでよくいなくなるよね」
「俺がひとりになるのとナンシーじゃ、危険が……いや、悪かった。ひとりになりたいなんて、いくらでもあるよな。でも、ことづけくらいしてくれ。護衛が要る」
痛い所をつかれ、ベネトナシュはひるむ。思ったより気にしていたらしい。
ナンシーは棘をおさめて、改めて言葉を返す。
「でも、ベネトが忙しいときもあるよね」
「俺が他の護衛を見繕ってやるから」
「いつのまにそんなことができるように」
「ここに数十日でも居れば顔なじみもできるし居る奴がどんな奴かもだいたいわかる」
ベネトナシュは、やろうと思えば割となんでもできる。ナンシーはそれをよく知っている。
「ねえ、ベネトナシュ」
「……何かあったのか?」
「ううん」
何でもできるから、彼は知ったら――ひとりでなんとかしようとするのだろう。
ナンシーの為なら、なおさら。
だからナンシーは口を噤んだ。




