村娘と喪失の棺20
奪われた体力がまだ完全には戻らず、自由に動くことができないベネトナシュは、目が覚めている間はナンシーがどうしていたかを聞きたがった。
「村を出てからは、いろんなことがあったよ」
シーラに助け出されてから、彼女に身元を預かってもらい、冬を越す春の間まで<力>を使う訓練をしていたことをナンシーは話す。
「王都だと、村だと雪が積もってる季節にツァゼッタの花が咲いてるのをみて、すごくおどろいた。空の様子も全然違って、ずっと晴れてるし。この前は、赤くて金色になってる夕焼けの向かいに、青紫になった空が広がってて、そこに銀色の月が浮かんでいたの。周りには、星がみえてた。夕焼けと月と星が一度に見えるなんて、夢みたい。この辺りや王都に住んでる人は、毎日あんなに綺麗でふしぎな空を見てるんだね」
ナンシーのとりとめない話を、ベネトナシュは瞳を閉じたまま黙って聞いている。口元には安らかな笑みが浮かんでいた。
「うちの村を年中覆ってる分厚い雲を作り出してる湿った空気は、全部王都を囲んでる山に遮られて、王都まで届かないからな。そりゃ晴れてるだろう。その頃、俺はたぶんロメスの街を出ようとしてた」
訓練をしている間にシーラに仕えているエルゼと仲良くなったこと。シーラの館に入った夜盗を彼女が水晶の矢を打ち出し退けたこと。
「エルゼ?そいつ、男?」
「女性だよ。シーラさんの家に男のひとは居ないよ」
「へえ」
自分から訊ねたわりに気の無いベネトナシュの返事に、覆いかぶさるようにノックの音がした。ナンシーが応えると、扉が開いてシーラが入ってくる。
「失礼するよ」
「シーラさん。お疲れ様です」
「ナンシーもね。果物をもらって来たよ。どうぞ」
「すごい、綺麗。ありがとうございます」
皿の上に並べられた果物は、綺麗に切りそろえられて花や鳥のかたちになっていた。シーラに頼まれた人はとてもはりきったのだろう。
「俺も身体が自由ならこれくらいできる。ありがたくいただくけど皿を置いたら帰れよ」
「そうしたいけどキミに直接確認しなければならないことがあってだね」
ベネトナシュは上目遣いに一瞥し、シーラはうるさそうに額に垂れた癖のない髪をひとすじ払う。
「何だよ」
「蜘蛛女神の手下、フラウドラと名乗るものは、ナンシーを殺してこい、と言ったんだよね」
「ああ」
「おかしいな。扉を閉める者だから何としてでも殺しにくるだろうと思っていたのに」
「だから俺をさしむけたんだろ」
「キミも頭の回転がだいぶ鈍くなったね。一度死んだようなものだから仕方ないのかもしれないが。キミの話を聞くまで向こうはナンシーの顔も居場所もわからないのかと思っていたが、どっちも把握しているようじゃないか。なら何故すぐに手を打たない?」
たしかにそうだ。扉を閉められて困るなら、それが可能なナンシーを生かしておく理由が無い。顔と居場所が判明している時点で、すぐに排除しに来るはずだ。しかも相手は神で、どんな手段でも使えるのだから。
「……みえない、といっていた」
「何だって?」
「俺が持ってたナンシーのお守りを、見えないと言っていたようだった。正確には、『見えない……そう、私にはない……だから、存在しない……』『私にはない……だから、存在しない……でも、これがあるせいで完璧にできない』とも」
シーラは銀色の睫毛の向こうからじっとベネトナシュを見ている。探るように。
あの時の事は、詳しく話したくない。死体の吊るされた部屋。腐肉のような交わり。ナンシーの耳に、触れさせたくないと思う。
「ナンシーに関する一部分のことは、蜘蛛女神は認識できないのかもしれない」
「……なんらかの理由があって直接にはナンシーに手をだせないから、キミを使ったのか。そうなると死体で塚を穢して瘴気を発生させたのも悪あがきの足止めといったところかな」
シーラはまだ訊ねたいことがあるかもしれないがこれ以上この話をしたくないベネトナシュは彼女が口を開く前に訊き返す。
「それで?上は処遇を決めたのか?」
「私個人としてはキミをここで放り出した方がいいと申し上げたかったけど、実際にそうなったらナンシーがキミを心配してついて行ってしまうからね。疑わしいなどの反対意見や懸念もあったが、残念なことにキミの存在は据え置きだ」
「人を商品棚に恒常的に陳列された木彫りの土産ものみたいに言うんじゃない」
「土産ものだったらはるかに可愛げがあったんだけどどうでもいい。重要なのは、どこかの誰かの面倒なゴタゴタで中断していた塚の浄化も、明日から再開できるようになったということかな」
ふたりのやりとりを見守っていたナンシーが顔をあげる。
「じゃあ、私が明日から、残りの塚を回ることになるんでしょうか?」
「そうなるね。だから準備に取り掛かって欲しい」
「ちょっと待て。俺を置いていく前提で話を進めてるだろ」
「どうしてキミを待たなきゃいけないんだ。ただでさえ行軍の予定は遅れているのに」
「俺もかなり回復した。明日からなら、もうナンシーについて行ける」
シーラはベッドを見下ろす。
「キミは寝ていたまえ。どうしても必要とされているのはナンシーだ」
「護衛は誰がするんだよ。他の奴は信用できないだろ」
「私が行こう」
「軍の仕事はどうするんだよ。王都の連中とつなぎができるのもシーラだけなのに」
「キミがどうにかやっていてくれ。シムシュを名乗っていたときに割と誰とでも節操なく接していたから関係構築もゼロからできるだろう。私はもう疲れたよ。どうせ仕事をするならナンシーの傍でしたい」
シーラの目は半ばうつろで、肉体はともかく精神疲労が限界に近そうだった。
自分たちの命が明日なくなるかもしれないという状況なのに、権力を持っている上のものほど現場の実情と無関係な派閥争いで常に足の引っ張り合いをしているせいで急を要する様々な決定が滞っているらしく、直接口には出していないがそれがシーラをかなり消耗させているのは毎日彼女を目にしているナンシーにも見て取れた。
「なんだよそれ。思いっきり私情じゃねーか」
「キミだってそうだろう。しかも仕事で従軍している私と違い、混じりけの無い私情だ」
今までふたりのやりとりを黙って聞いていたナンシーが、心配そうにシーラに声をかける。
「シーラさん、とても疲れているんですよね。いつもありがとうございます。シーラさんのおかげです」
もしやナンシーが連れ合いとしてシーラを選ぶのでは、とベネトナシュの胸に不吉な予感が飛来した。
「でも、私たちのことを信用してくれて、誰よりも考えてくれるシーラさん代わりは、誰にもできないんです。ベネトの能力がシーラさんの仕事をするに問題が無かったとしても、ものすごくキツイことをうっかり言ってしまうから、必ず誰かと揉めます」
「…………」
ベネトナシュは一瞬、反論しかけたが黙るしかない。シーラはいちいち神妙に頷いている。
「揉めるだけならまだいいけど言っちゃいけない相手に絶対に言ってはいけない事も言う可能性があります。今の状態で危険すぎます」
ナンシーが言葉を切るとシーラはその肩にそっと手を置いて優しく微笑む。
「……そうだね。私は私の仕事をするよ。ありがとう、ナンシー。励ましてくれて」
そうしてドアを開けて去っていく。その後ろ姿を見送り終えたナンシーがベネトナシュの方を見ると彼は布団に顔を突っ伏していた。
「どうしたの、ベネト」
「……なんでもねえよ」
「身体、だいじょうぶ?」
「身体は無事だよ。精神にキただけで」
「そっか。なら、明日はよろしくね」
翌日、ナンシーはベネトナシュと共に出立し、塚を巡った。シーラの言葉通り遅れているので、今日中にすべて終わらせてしまわなければならない。
今度はちゃんとシャベルを用意してある。
塚の根元を掘ると以前と同じように羽根が埋まっていた。触れると光を放ち、消える。蝙蝠の形をした影は来なかった。
「御先の羽根……」
「何だって?」
「光が消えるとき、そう、聞こえた。このひとたちは、みさき、だって」
「なるほど」
「私はわからないよ」
「あの影は元々この土地で崇められてたんだろう?祀っていた人間が<御先>だ」
「そうなんだろうけど……どういうこと?」
「先導するもの。御先。世界中でよくカラスの姿としても描かれる。コウモリ野郎とも呼ばれる。征服者が現地民を侵略したとき、裏切りを行い征服者を勝利に導いた者の呼び名。報酬を約束され、一時は栄華を得るが、裏仕事で政権の暗部と弱みを握っている歴史の生き証人であるために権力者にとっては邪魔でしかない。事が終わるか時が経てば必ず疎まれ始末され、運よく生き残っても一族は奴隷におとされる」
「利用されて殺されたのじゃ、恨みを持つ存在になっても当たり前ってみんな思うし……そのひとたちの怨念を供養するために、塚は建てられてるんだよね」
ベネトナシュは頷かなかった。
「……どうだろうな」
「……だって、羽根が埋まってるよ」
「その怨念すら利用している可能性がある。塚はその仕掛けの一部かもしれない」
「……利用……なんのための?」
「まだわからない。これで終わるかもしれないし」
それから残りの塚を巡る。
羽根が消えるときに断片的に流れてくる映像や感情の意味がナンシーにはわからなかったが、ベネトナシュから話を聞いた後だとおぼろげながら「そういうこと」かと理解できるものへと変わった。当時は黄金や宝石よりも高価だった鉄とそれを生み出す技術を奪われ、人質をとられ、逆らえば殺すと言われて権力者の走狗となり、かつての同胞からは裏切り者と罵られ、敵と味方の嘲りと憎悪を一身に受けた後に最後には処刑されるか生贄として身体を利用される。そして、いつわりの名誉を与えられ埋められたあとは塚で封をされた。
「ナンシー、顔色が悪い」
「大丈夫」
負の記憶や感情に触れるは、毒に触れるのと同じ。
聞いてわかるのと体験するのではまるで違う。消耗が思った以上に激しい。
「……無理しなくていい。別の方法だって探せるはずだ」
「まだ、大丈夫。本当に無理になったら、言うから」
「……わかった」
そんなやりとりをした頃には残りは三つになっており、昼も過ぎていたので休憩にすることになった。
前に来た時と同じように、ベネトナシュから昼食を受け取る。ナンシーは、あらかじめ作ってきたハーブのお茶を彼に差し出した。
「ロディスに似た香りがするけど……なんの葉?」
「ジェネラレス」
「あの鋸みたいな葉っぱのやつか。炎症薬にも使われてるけど、お茶で飲むのは初めてだ」
「おいしい?」
「普通」
「私もそう思った」
「なんで訊いたんだ」
「ベネトナシュはどう思うかわからなかったから」
互いに顔を見合わせて笑うと、ふと黙る。午後の陽で温められた風が、ふたりの間を駆け抜けていった。
「そんなに経ってないのに、ずいぶんと前のことのような気がする」
「前の方が良かった?」
「ううん、顔だけじゃなくて、喋り方も別人みたいだったし……やっぱり、いろいろ怖かったよ」
もらったご飯は相変わらずおいしいけれど、中身が同じベネトナシュだったとしても、やはり顔も喋り方も別人だと困る。
「そっか。俺も、怖かった」
「え……?」
ベネトナシュが、怖かった?ナンシーは首をかしげる。彼にそんなものがあったとは。
「あの呪い、記憶が戻るにつれて、もとの人格は薄れて消えていくようになってた。最初は別人を装っていたのも確かにあったけど、他人に対して異様に愛想が良かったのも呪いによる人格の緩やかな消滅が原因だ。話してて自分が自分じゃないと感じることが何度もあった。でも、止められなかった」
「記憶が戻るにつれて、もとの人格もはっきりするんじゃないんだ。どうして……?」
「記憶があることと本人であることは同じ、じゃないからな」
「神さまだけあって、他人の記憶も植え付けることができるんだもんね……」
だんだん自分が自分でなくなっていく。それは、生きているのに、毎日すこしずつ殺されていくのと同じだ。しかも、持っている記憶は、自分の同一性を保証してくれない。とても恐ろしいことだとナンシーは納得する。
自分も、あの、夢を――ひとみをひらけばむすうのほしがまたたき、そのひとつひとうがねがいでかがやいていて――わたしはそれをうけとめきれず――
「ナンシー、どうしてんだ?やっぱり、苦しいんじゃないのか」
「ううん、なんでもない」
あれは違うんだ、私じゃない、あれは夢――どんな夢をみていて、なんの夢だったかもわからないけれど。
「ベネトナシュが治ってよかった」
「治る、っていうと風邪みたいに聞こえるな」
「同じようなものじゃない?」
「全然違う。風邪は体力があれば誰かの助けがなくとも、自分で回復できる。でもあの呪いは絶対に俺ひとりじゃどうにもならなかった。治したのは、ナンシーだ」
それから残りの塚を巡っていった。
羽根を掘っているうちにもっと体調が悪くなったらどうしよう、と思ったが、断片的な情報が系統立てられ理解するごとに苦痛はやわらいでいく。あの苦痛は、混乱がもたらしていたのかもしれない。
最後の塚も、何事もなく済んだ。
「これで終わったな」
「うん、でも、気になることが……」
「……瘴気の原因は、蝙蝠の眷属とは無関係ってことか?」
「やっぱり、ベネトも気になってたんだね。あの影、『瘴気と呼ぶあれはこの身の一部ではない。だから止められない』『この地にあらかじめ在り、封じられていた忌まわしいモノが出た。それがお前たちが瘴気と呼んでいる』って言ってた……ベネトがさっき聞いてきたことと関係がある?だから、シーラさんから聞いたことだけじゃなくて自分で考えろって……『どうして八角形に塚が建てられているか』って、前に聞いてきたの?」
そのときは、ナンシーに、<力>の使い方を教えてくれてるのかと思っていた。
「閉じ込める結界を意味する数が三、神殿が四、世界が八ってじい様が言ってたからな……」
「自分で考えたんじゃないんだね」
ナンシーがすこし意地悪く返すと、ベネトナシュは笑って返す。
「そう。じい様の意見だし、ナンシーを当てにしてる」
「私を?どうして?」
「俺にはわからないことがわかって、俺には見えないことが見えるから」
「そう……かな?」
羽根のことだろうか?でもあれはナンシーが視ている、というより、向こうがみせてきている、に近い。誰にでもみえるが色んな理由で気づかないこと。
「でも、俺なりに色々調べてたよ」
「時計塔をみてたのと関係ある?」
「八つの塚はすべて時計塔を中心にして配置されてる。あの場所は、時計塔が建てられる前から何かある。その何かを封じるために、時計塔が建てられ、八つの塚が配置されたのかもしれない」
「……?」
「怨霊を怨霊で封じる考え方は珍しくない。生きてる人間が邪魔な者同士を争わせて始末するの方法をそのまま使ってるだけだから」
馬を走らせながら会話をしていたナンシーたちだったが、突然、その馬が嘶いて動きを止める。いやいやと首を振る様子に前方を注意してみれば、紫色の霧が漂ってた。
「瘴気?……ヤバいな」
「……そんな、浄化したのに、なんで」
「しかも街の方からだ」
いったい街はどうなっているのだろう。馬をなだめて霧が濃い場所を避けたりベネトナシュが切り払いながら歩みを進める。
(今は剣で払えるけど……これ以上濃くなったら……)
自分が魔力で編んだヴェールで馬とベネトナシュを護れるだろうか、そんなことをナンシーは考えていたが、普段なら時計塔が見え始める距離まで街に近づいたとき、巨大な何かが塔のかわりに聳えているのがみえて呆気にとられた。
「なに、あれ……」
「なんだあのデカい化け物は……」
遠目には、骨で出来た無数の腕のような枝を四方八方に伸ばし中心に苦悶の表情が刻まれた巨大な樹木にしか見えなかったが、近づくにつれその表面はざわざわと揺れ動いており全てが無数の節足動物――それは髑髏を背負っていた――で構成されているとわかった。
「街の人達は?どうなってるの」
「今は自分の身が危ない」
思わず駆け出したナンシーをベネトナシュが引き止める。すると、頭の中に直接声が聞こえてきた。
(サ、サ、ゲ、ヨ)
ほんのすこしの言葉なのに頭を高速で岩に叩きつけられているような眩暈と苦痛が広がる。吐き気がした。
(ミ、ナ、ワ、レ、ノ、カ、テ、ト、ナ、レ。セ、カ、イ、ハ、ワ、レ。ワ、レ、ハ、セ、カ、イ)
「はっ。手垢のついた寝言いいやがって」
ベネトナシュの瞳は怒りで輝いていた。手にした剣は抜かれており、背後に光輪のように魔力で作られた剣が現れている。
「ベネトナシュ、戦おうとしてる?」
「あれをのさばらせておいたら自分がやられる。ナンシーは下がって」
魔力で加速したのか、馬よりも速くベネトナシュが駆け出す。
「他人の頭いきなりかきまわしやがって……気持ち悪いんだよ!」
木の根元に近い辺りまで来ると、叫びと共に光る剣が矢のように一斉に放つ。だが表面を蠢いている節足動物がジュゥ、と音を立てていくつか消滅しただけで、すぐに同じ生き物に埋め尽くされた。
「たいして効かないか」
「攻撃してどうにかするのは無理だと思う。あれが動いてる原因を断たないと……」
馬に乗ってきたナンシーを見上げて、ベネトナシュはばつの悪そうな顔をする。
「だよな」
「あと助けられる人をまず助けないと」
「そうは言っても、たいていは逃げてるぞ」
家々の窓や扉は固く閉ざされ、ほとんどの人が避難したらしく人影はない。
「遠目だとわからなかったけど、びっしりしてるの……ヤドカリ?なんで……?」
あのヤドカリに覆われている本体が何なのかもナンシーにはわからない。
だが、ベネトナシュは思いついたように指さす。
「わかった。こいつ、海洋貿易や投資で莫大な富と権力を築いたもののそれが仇になって罪を着せられ、この泥炭地を拓くしか生きる方法が無かったアンブロージョ・グアルニエーリだな。利益だけを追求したその商売は人に寄生しているとも死体すら商品にするとも言われていたため、蔑称が死肉宿借」
「ソ、ノ、ナ、デ、ヨ、ブ、ナァァァァ!!!!!」
樹木が張り巡らせた枝を揺らし、木漏れ日のかわりに瘴気が降り注ぐ。ベネトナシュは素早く飛び退っていたので、其処にはもう居なかった。
「当たりか」
「当たりかじゃないよ。直撃して死んじゃったらどうするの」
「来ると分かりきってれば避けられる」
「もう……そのアンブロ―ジョさん、に呼びかければ、全部おさまるんだよね」
「どうやって」
「とにかく呼びかけてみる」
「俺の方法より余程命知らずだろ」
「受け答えができるし、人間の意識が残ってるんだよ。たぶん、まとわりついてるヤドカリって侮蔑が具現化した呪いじゃないかな……自分が受けた痛みや怒りを、世界中にまき散らそうとしてる。いろいろぐちゃぐちゃに混ざり合ってるものを、一つずつほどいて行けば最後は人間の意識だけになると思う」
言いながらナンシーは光る糸を作り出し、探るように木に伝わせていた。もう彼女の意識はそっちに集中しつつある。
そうなると、ベネトナシュは黙ってナンシーの護衛をするしかない。
光の糸はヤドカリの群れの隙間を縫うように動き、下に入り込んで内部をさぐる。そのうちに、脈打つ核のようなものを見つけた。ナンシーは、其処に意識を集中する。引き込まれていく感覚。気が付くと、ナンシーは小さな部屋に居て、その中央では男性がうずくまり、ひたすら金貨を数えていた。
「アンブロージョ・グアルニエーリさんですか……?」
声をかけられて、男は振り返る。よく言えば天真爛漫、悪く言えば自分勝手さがあふれる顔だった。
「え?なに?きみ、誰?」
「あなたのお怒りで被害を被っている者のひとりです」
「え?なんのこと?オレ?怒って……いや」
ゾッとするような憎悪が、その顔に刻まれる。
「ドゥルベコ、オレが貸してやった金で出世できたのに俺を裏切りやがって……ジョルジェテやポルドイだって汚職と犯罪しまくっても大臣でいられたのも俺の金で不正が揉み消されたからなのに……ソラウのやつらもだ。流刑地だったソラウを開拓して豊かにしたのは俺なのに、税の取り立てがキツイとか奴隷にも生きる権利はあるとかいって最後には俺を殺しやがって……どいつもこいつも……金を払わない奴と金を儲ける能力が無い奴が殺されるのは当たり前だろ。なんで金を稼いでるオレが処刑されなきゃならないんだ」
ナンシーの想像を超えて闇が根深い。渦のように、よくないものを引き寄せて無限に取り込んでいる。
ひとつひとつ吐きだされる汚泥のような所業と己を省みない物言いに呆れながらも、ナンシーには、逆回しの奇蹟をう――かはわからないが、やるしかない。
目の前の存在を、無くすんじゃない。別なものに変えるのではない。力の方向だけを、うまく逸らさないと――自分で、逆に回るように。
「あなたに罪を着せた人は、死んでます。大昔に。誰も居ません」
「ドゥルベコも、ジョルジェテも?ポルドイも?」
「もう居ません。あなたを殺したという領民も」
「よし、じゃあ、オレは自由だな!なんか、オレが自由になろうとするたびにつついてくるカラスも消えたしな!」
どうなるかわからない。次の言葉を告げるのを、ナンシーはすこし躊躇ったが口にした。
「そうですね……自由、かもしれません。あなたは死んでます。もう」
「え、何だって?」
「死んでいます」
「でも、俺はここに居るぜ。数字も、毎日動いてる。ホラ、わかるだろ?この金貨」
最初はナンシーにも金貨に見えていたが、彼が見せてきたのはちいさな甲殻類の死骸だった。昔は通貨として使われることもあったらしいが。
「あなたは商売で世界に多大な影響を及ぼしていたんですよね?でも今は?あなたの商売はなんですか?良さそうな土地や気にしている先物取引はありますか?最後に誰かと商談したのはいつなんですか?」
「えっ、そりゃ…………」
アンブロ―ジョの声が途切れる。うって変わって静かになり、突然、笑い出した。
「はっ、はははははっ……」
ひとしきり哄笑した後、ナンシーの方を見る。その顔は相変わらず天真爛漫、自分勝手だったが、この世への執着は見えない。
「道理で!おかしいとは思ってたんだよ!数字しか数えられないんだもんな!モノが!ねえんだよ!でも数字が動いてるから気づかなかったわ!ありがとうな!もう行くわ!こんなとこに居ても仕方ねえからな!」
肩を乱暴に叩かれるような感触。はじき出された、と思った瞬間、ナンシーはベネトナシュに護られながら先ほどと同じように立っていた。
「ナンシー!おい!大丈夫か?」
「ベネト……私、どれくらいこうしてたの?」
「え?四〇数えるかぐらい。六〇は数えるまでは経ってない。……成功したのか……」
表面を覆っていたヤドカリはすべて動きを止めると剥がれ落ち、砂になって消えた。
そして呪われた樹木は元の時計塔に戻っていた。
「本当に、ナンシーがやったんだな」
「私が何かした、というか……向こうが勝手に納得したというか」
「でも納得させたんだろ?」
「ベネトがあの人のことを教えてくれなければ、納得してもらうための言葉どころか相手に訴える名前もわからなかったよ。自分の名前すら覚えてくれない、わからない人間のいう事なんて誰もきかない。というかそんなに有名な人じゃないのによくあんなにすらすらと出てきたね。ベネトは全部暗記してるの?」
「まさか。直前にもしかしてって思って調べてたから、わかっただけだぞ」
おどけたようなベネトナシュにナンシーは笑う。
けれど、心には影が差す。
ひとつのものを封じるために、それに対抗する勢力を供儀として捧げる。
それを何度も繰り返していくうちに、元の歴史も、それにまつわる神が持っていた神格や属性も何もわからなくなる。
それが、呪い。
誰なのかわからなければ正しく鎮めることも祀ることもできない。
(扉を閉めれば、すべて解決すると思ってた……でも……)
この作業を繰り返さないと何もかもが本当に解決したことにならないというのなら、途方もないことだと思う。
自分一人では、できない。
いつか、同じように――
「疲れただろ?とりあえず休もう」
ベネトナシュが差し伸べてきた手を取る。
昔、ひとりだった。いつか、ひとりになる。でも、今は、ひとりではない。
それだけは忘れないようにしなければと思いながら、ナンシーはベネトナシュと並んで歩きだした。




