村娘と喪失の棺2
それからナンシーは少年がベネトという名前で呼ばれていることや、両親が流行り病で亡くなったために村のはずれで変わり者の祖父とふたりで暮らしていること、村の外からきたよそものの夫婦から生まれた子であるため、病が流行る前から疎まれていたという話をぽつぽつと聞いた。
ナンシーはいままで他人の噂話には加わらないようにしていたし、興味も持たないようにしてきていたので、ベネトが村の広場の一件以外にもちょくちょく揉め事――本人にとっては正当性のある主張をしただけ――をくりかえしていることも初めて知った。
同じ村に住んでいるけども、たぶん彼はナンシーと全然違うものをみて、考えながら過ごしているのだろう。
広場での出来事があってから数日後。
ナンシーは叔母に頼まれた仕事を終えて、大きなクランフラウの木陰に腰をおろして一息ついていた。
家事やら畑仕事やらで朝から働きどおしだったこともあり、風がそよそよと葉をゆらすたびに眠気をさそわれる。ナンシーはうとうとしはじめた。
そうして完全に眠りに落ちそうになったとき。
ツヤツヤとした光沢をもった葉がひと際ざわついた。クランフラウのおおきな白い花びらがほんのりと甘い香りを漂わせながらいくつか散った。
上に居る何かが枝をゆらしているらしい。
驚きで目がさめて、なんだろう?と思って見上げると、木の枝の上で長くなりながら本を読んでいるベネトがいた。
視線が合うと、嫌そうな顔をされる。
「……?なんだ、お前か……関わるなといったろ……」
「なに……?その本……」
ベネトの手にした本の表紙が、木漏れ日と一緒にきらめく。
本はベネトの手におさまるくらいの大きさで、背表紙の上から見えている青い紐がベネトの首にかかっていた。表紙は青と金の複雑な文様で飾られている。
そんなきれいな本をみたのは初めてだったので、ベネトの迷惑そうな顔をみてもナンシーはつい尋ねてしまった。
ぎろり、とにらまれる。
無視されるかな、と思ったけれど、意外にも答えが返ってきた。
「《聖骸の書》の写本の一部」
「え?」
「こういうやつ」
ベネトがページをひらいてみせた。
そこには宇宙のはじまりとおわりを現す生命の樹が描かれており、枝にはこの世を象る言葉が果実のように生えていた。樹の下には、その果実をかじろうとしている獅子と鮫が口を開いていた。
そしてページの一番下には、絵の解説らしき言葉が書かれていたが、ナンシーには読めない。
ただ、文字の一つ一つが華麗な装飾をほどこされているのはわかった。
「……と、いけね。そろそろ戻らないと」
驚きで口をあんぐり開けたままになっているナンシーと、ベネトの目が合う。
それも一瞬のことで、彼は獣のようにすばやく枝を伝い幹を滑り降りる。
まだぽかんとしていたナンシーの横をすり抜けて、ベネトは去っていく。
目の前を彼が通り過ぎた時、ナンシーは走り出して、後を追っていた。青と金のきれいな文様、緑や赤で装飾されていた獣たち。そして、読めない文字が離れない。
彼は、どんな気持ちでそれを読んでいたのだろう。
ベネトを追ってたどり着いた場所では、たくさんの本が干されていた。
「これ以上干してもいたむだけか……こっちは片付けねーとな」
ベネトはしばらくひとつひとつ本の状態を確かめる作業に夢中になっていたが、ナンシーに気づくとあきれた様子で、言った。
「なんでついてきたんだ」
「あ……ごめん」
「あやまれ、なんて言ってない」
ベネトのするどい視線は、じっとこっちをみている。
何かを見定めるように。
「本が、とてもきれいだったから……」
「本に興味があるのか?なら、片付けるのを手伝え」
「えっ」
「そっちに干してあるやつは全部、小屋に仕舞う」
言われるまままに干されていた本を片付ける作業をナンシーは手伝うことになってしまった。
「これは?」
「人間の眼球の進化の本。動物と虫と構造がどう違うのか、なぜそのような構造になり魔力はそこを通るのか、とかかいてある」
「こっちは?」
「宮廷の儀礼作法の細かい取り決めとそれの元になった天体の運行について書かれた本」
表紙をただみせただけなのに、ベネトはすらすらと答えるのでナンシーは驚く。
「……読んでもないのに表紙だけでわかるの?」
「全部読んだからな」
「全部?……それで内容も覚えているの?……すごい」
「驚くようなことか?お前だって昨日食べたメシの内容くらい覚えてるだろ」
「それとこれとはぜんぜん違うよ!」
「同じようなもんだろ。俺は昨日食べたメシの内容は興味ないからほとんど覚えてないけどな」
ナンシーが噴き出すと、ベネトもすこし笑った、ように見えた。
そんな風にしてふたりの作業はすすんでいった。
「大きさでしまうのかと思ってた。本の内容ごとにわけてしまってあるんだね」
「大きさでしまったほうが見栄えがいいんだろうが、ここの本は金を取って他人に貸すこともあるからな。本の大きさで分類してたら内容がわからないし、それじゃ商売にならない。……つーか、背表紙に記号がつけてあるだろ。それをみて対応する場所にしまっときゃいいんだよ。なんでいちいち中身を訊くんだ」
「なにがかいてあるのか、気になったんだもん」
ベネトは作業の手をとめた。
「知らないことを知るのは楽しいか?」
「うん。でも、それって、誰でもそうじゃない?」
「……」
暗緑色の瞳が日差しに透けて橄欖色に光る。金緑にゆれるその色彩は祝福の香油の色だ。ベネトがじっとみてくるので、ナンシーはちょっとどぎまぎする。
「ど、どうしたの?」
「お前がそういうことを言うのが、意外だっただけだ。耳と目をふさいで、何も見ないようにしているようにしか見えなかったからな」
「そうなんだ……そっか……って、なんで!?」
「狭い村だ。いやでも住んでる奴の顔と名前と性格はすぐ覚えられる。お前が名前はナンシーで叔母の家に引き取られたとかもな。ついでに俺の名前はベネトナシュ。お前は知らないだろうけどな」
「し、知ってるよ!みんなそう呼んでたもの」
「あっそう」
ナンシーのように自分のこともわからないうえに人のことをよく見ていられない人間からすれば驚異的な観察眼と記憶力だ。
そして続いた言葉には、さらにおどろいた。
「思ったこと、もっと口に出した方がいいんじゃないか」
だけど、ナンシーがベネトの方をみたとき、彼はもう作業に戻っていて、どんな表情でそういったのかまでは、わからなかった。
それから、なんとなく、ふたりは黙ったまま作業をつづけた。
干されていた本は、どんどんしまわれていく。
「……だいぶ片付けたな。全部終わったら、茶でも淹れてやる」
「え、ホント?」
「なんでそんなことでウソつかなきゃならないんだ。そこに椅子があるから、座って待ってろ」
本をしまってある小屋のそばには、プラタナスの樹が植えてあって、その下にはテーブルと椅子が置かれていた。ベネトは手慣れた仕草でテーブルクロスを敷いて、コップを用意する。しばらくしてお茶が出てきた。
ベネトが淹れてくれたお茶は、あざやかな夕日のような色をしていた。
ナンシーのしっている泥水のような色のお茶とはちがう。
そして、干した果物を混ぜてあるのか、甘酸っぱい。
「これ、贅沢品なんじゃ……」
「俺が飲みたかったからジジイの蔵からかっぱらってきた。どうせ、ほっといたら誰にも飲まれずカビが生えるだけだ」
「これ、おじいさんのなの?」
「そう。人を働かせておいて、まだ夢のなかだろうな。まあ昨日一晩中仕事して堪えたみたいだから、大目にみてやるけど」
「仕事……?」
「本を複製する作業。昔は王都で働いてたから、たまにジジイに挨拶しに王都のやつらがくる。この茶はその土産の一部だ」
王都で働いていたのなら、どうしてこんな辺境の村に来たんだろう?とナンシーは思ったが、訊くことはためらわれた。代わりに、また本のことを訊く。
「今しまった本も、全部ベネトのおじいさんのものなの?」
「もとはジジイの兄の財産だったそうだ。そいつは書庫から一生出ずに死んだらしいな。ジジイはそれをバカにしてたけど似たようなもんだ」
村の人たちは、他人はもちろん年上の身内に対してもそういう言い方はしない。
「ベネトって、えらそうだね」
ナンシーは思わずいってしまっい、そのあと後悔したが、ベネトはとくに気分を害したふうではなかった。
「お前が卑屈なだけじゃないか。相手が自信なさそうにしてる様子で喜ぶような奴はロクな奴じゃないぞ。おかしな奴らにタカられないように気を付けるんだな」
悪い人じゃないんだろうけど、言われた方が素直にありがとうとは思いづらい。
でも自分と違う意見をいわれてもすんなり受け入れられる人だとわかったので、ほかの人相手と違ってナンシーも自分の思ったことをそのまま口にできる。
「あと正しいこと言ってても言い方がひどいよね」
「そうかもな。だが伝えるべきことにいちいち余計な装飾をつけてたら、伝わるものも伝わらない」
「相手をいい気持ちにするためにウソをいう必要はないけど、正しいことを言ってても気持ちを傷つけられたらきいてもらえないんじゃない?もっとやさしい言い方にすればいいのに」
「やさしい、ね……」
紅茶をすするベネトの口の端には笑いのような気配がにじんでいる。バカにしているのか面白がっているのか。
でも、ナンシーが思ったことをそのまま言ってても、このひとは怒らない。
「たくさんのひとに伝えたかったら、老若男女にモテモテになるべき」
ナンシーの言葉にベネトは啜っていたお茶で噎せた。
「あのなあ……」
文句をいいかけたが、口元をぬぐいながらナンシーの笑顔をみるとベネトの顔も自然、笑顔になる。
彼女が笑っている記憶が、ベネトにはあまりない。
村で何度かみかけたことはあったけど、いつもうつむいているか、表情が殆どなかった。
だから、めずらしいものをみつけた気分にベネトはなる。
「ったく、人のこと笑いやがって」
「笑ったんじゃないよ。笑顔になったんだよ」
「うまいこといいやがる」
気を取り直したように残りのお茶をすするベネトの仕草は、乱暴な口調とはうらはらに妙に上品だった。
「でも、まあ、お前のいう事も合ってるかもな。伝道師や預言者のたぐいで成功してる奴は、その傾向がある。他人には好かれた方が得だ」
そんなふうなやりとりをして、ナンシーはベネトと別れた。
去り際に、ナンシーの胸には「また明日あえるのかな」という気持ちが浮かんだけれど、どうしてもそれは言葉にできなかった。
約束して、こわれてしまうのがこわい。
それはたいていのことを「仕方ない」で受け入れてきたナンシーがはじめて思ったことだった。