村娘と喪失の棺18
「北西のアダドの森を抜けて海に出る」
村を出たシムシュに追いついたナンシーが何か言う前に、振り向かず彼は告げた。
「アダド……八聖人が船で約束の地を目指して海をわたっているとき、邪神から助けてくれた神さまの名前と同じ……そのとき、船を葉で覆って皆を守ったから、その名前からとったんでしょうか?」
シムシュとナンシーの足の長さは違うために彼に足早に歩かれるとナンシーは小走りにならなければならない。
「現存している書物には最低限の短い記述しかないから『同行していた御先神のアダドを邪神の生贄にして一行は見逃してもらった』という説もある。昔あった、海難にあったらひとり人柱として投げ込む用に死んでも良い者を積んでいた風習をしめしたものだと」
「ひどい」
ついてきてほしい、と言った割には彼はナンシーを確認する様子はない。
半分は話の内容、もう半分はシムシュに向けて言っている。
「アダドの森は元は海風と塩害から村を護るために植えられた防風林だったらしいが、今はかえりみる者も無く樹海と化してるわけだ」
足を進めると吊橋が見えてきた。その向こうに、鬱蒼とした黒い森が広がっている。
「ねえ、」
本物の神官戦士さまでないなら、あなたは誰なの、と問いかけたかったが、シムシュはさらに言葉を重ねる。
「あの森の中にも塚があるらしい。どうして八角形に塚が建てられているか、知ってるのか?」
歩く速度はまったく落ちない。なのに、ナンシーの言葉を遮って、問いかけてくる。
「八聖人の伝承をもとにしているから、それに準えて八方位に塚を建てた……境界を区切って、敵が侵入してこないように。そう伺いました」
シーラの言葉を思い出しながらは答える。
「自分で考えたんじゃないんだな」
「……そうです」
シムシュの言葉に、責めたりバカにする気配はない。何も知らないことが悪いのではない、自分で考えないのがいけないのだと、そう言っているように感じるのは、気のせいだろうか。
「なら自分で考えた方がいい。何故、村にある塔を中心にした正確な八角形の位置に建っている?伝承をなぞり、村からみた方位を示すだけなら正確でなくてもいいはずだ」
「正確な図形であること、に重要な意味がある……?」
会話を続けるものの、振り向かないまま、彼は吊橋を渡ってゆく。
「何にでも支点・力点・作用点がある。点はそれひとつでは何も形成できないが、二つの点をつなぐと直線が誕生する。これは力の方向を示すことができる。
点が三つ存在し、それをつなぐことで三角形ができる。これは境界を区切り、<閉じ込める>ことができる最も単純な形だ。その三角形を重ねると、平面から立体を現すことが可能になり、次元がひとつ上になる」
その足取りはとても速いのに吊橋はあまり揺れない。ギィギィと、風にゆれるだけのようにすら感じられる。
「三角形を重ねれば、確かに力は強くなる。だが、角を多く持つと、また意味が異なってくる。角の数が三十、四十となれば、すでにその図形は円に近くなる。円という形が持つのは力の<増幅>だ」
橋を渡り終えた時、シムシュはじめてナンシーの方を見た。
「お前が<力>を上手く使えないのは、それがわからないせいだ」
美しい顔はつよい陽を背にしているせいで陰になっておりその表情は見えない。
一瞥したと思えば、そのまま身を翻し森へと入っていく。
「シムシュさん、待ってください!話したいことが、聞きたいことが別にあるんです!」
彼の足は止まらない。
森に入ったとき、更にその足は速くなった。
「待って、」
鬱蒼と木々が覆い茂り、晴れた日でも暗い。
道も曲がりくねっており、見失わないように追いかけていると、ようやく彼は足を止めた。
ナンシーはほっと息をついた。
「なら」
立ち止まったシムシュにナンシーが駆け寄ろうとすると、まばゆい光が一瞬はしり、目が眩んだ。
「力づくで、いう事をきかせてみたらどうだ」
シムシュの手には剣が握られていた。
ふだんは魔物を相手にしているそれの切っ先が、ナンシーに向けられている。
「シムシュさん、」
冗談でしょう?といいかけたとき、耳の横の髪の毛が幾筋か散った。
背後で枝が落ちる音が聞こえた。
「死にたくなければ」
もう一度、彼は構える。
「俺を殺せ」
ナンシーは<力>を張り巡らせ、剣から放たれた攻撃を散らす。
咄嗟のことで加減がわからず、シムシュも跳ね飛ばしていた。
反射的に、彼から逃げる。何かを考える前に距離を取っていた。
(なんで、いや、違う……落ち着いて)
呼吸がまともにできないほど走っていては殆どものが考えられない。
まわりの景色すら目に入っていなかった。
まったく足が疲れないから限界まで走っていることにしばらく気が付かず、身体の方が先に根をあげて地面に躓き、転びながらもようやくナンシーは息を整える。
(髪の毛が、切られただけだ。本気なら、私が気が付かないうちに、もう私は死んでる)
出逢ったときも、煙で視界が悪かったとはいえ気配すらなく飛竜の首を落としていた。けれどいま彼の持っている殺気は本物で、だから混乱する。でも。
シーラは言っていた。ベネトナシュだったとしても、記憶や人格を奪われてるかもしれない。それどころか、入れ替わった人物はベネトナシュとまったく関係ない、彼の記憶などを植え付けられた人間かもしれないと。
そういうことがあるかもしれないと彼女が教えてくれていたから、まだ対処できる。
ナンシーがやることは別に変らない。彼を捕まえて本当のことを問いただすだけだ。
余計なことを考えるから、何も判断できないし集中できず混乱し失敗する。
糸を通すときのように、集中する。衣類を織り上げるように、目的のために、考える。
今度は、失敗しない。これが、最後だ。
円を描くように力を張り巡らせることで対象を捉えるための<力>を増幅させ、立体を意識して構築する。
そうして編んだもので、自分の周囲を覆う。
彼が自分を攻撃してきたら、その動作に反応し、すぐに動きを封じられるように。
「逃げても何も変わらない。変えられないと気づいたか?」
言葉と共に、茂みの奥から、おそらく魔力で推進力を増幅しているのだろう――飛ぶようにこちらめがけて駆けてくるシムシュの姿が見えた。
それは数十秒も無い間にナンシーの目の前まで迫ってくるように見えたが、ほんの五、六歩の距離で光の編み目がナンシーの足元から出現し、シムシュの身体をとらえた。
(やった、これで……!)
戦わなくてすむ。
ナンシーはそう思ったが、編み目は彼の振るう剣によってすぐに断ち切られた。
(ウソ……)
想像以上の攻撃力に、声も出ない。
「バカげてる。これだけ張り巡らせたなら、罠にかかった瞬間に相手を切断できるようにでもしておけ」
返す刃を弾き飛ばすと、彼の身体も飛んだ。
だがシムシュは器用に木々を蹴って三角跳びを行い、態勢を立て直す。
しなる枝を伝うその動きはベネトナシュにそっくりだ。
だから、次にどう動くかわかる。
一度失敗したからといって、もうひるまない。
(まだだ……終わりじゃない。よく見て、狙って……)
狙うのは、攻撃してきた後のタイミングだ。
剣を振りかぶってしまえば、他の動作には咄嗟に移れないはず。
彼もそれは承知しているようで、なかなか隙は見せないが――
剣がふたたび振り下ろされ、斬撃が光になって飛び散り、辺りを切り裂く。
それらに目が眩んでも、攻撃を何度も繰り返され、みていれば、タイミングはもう読める。
「防戦一方では、活路は費えるぞ」
何度も同じ攻撃を続けているうちに、動きに乱れが生じてきた。雑になっている。
(今だ)
捉えた。集中力が切れて単調になっている動きは読みやすい。
とくに、長い足をもてあましているのか、彼は移動するときに足の注意が甘い。
通常、剣をふるう時は力をのせる関係上足にも意識が行くものだが、魔力を使って攻撃しているせいかほぼ注意が逸れていた。
一度剣を躱したと思わせ、死角からしなる糸をとばし、予め樹木を使って張り巡らせていた糸を更に使ってそれを捕まえる。
「……!」
それは思いがけず上手くいったが、複雑な枝のしなりの軌道まではナンシーは読めず、彼の身体は逆さづりになった。
運命札にある<吊られた男>のように。
「あっ……!」
ナンシーが慌てて駆け寄ると、彼は逆さづりのままナンシーを見ていた。
「成程。ずっとこういう機会を伺ってたわけだ」
「違うの、ここまでするつもりじゃ……今降ろすから……!」
「降ろす?バカバカしい」
低く喉が鳴る。銀細工で出来た蜘蛛の足先が食い込んだ箇所から、血が流れ落ち滴っている。
「なんで笑ってるの」
痙攣したような笑いには死相が浮かんでいる。目を逸らしてばかりだった頃にはわからなかったけれど、今ははっきり見える。
彼の乱れた着衣から、逆さになった重みと痙攣した動きのせいでずるり、と短剣が落ちた。
「それで刺せ。回復の魔法を無効にする術がかかってる」
ナンシーには言われたことがひとつも理解できない。
<力>で作った糸をあやつり彼を大地にそっと降ろす。
呆れたようなため息が聞こえた。
「……ねえ、神官戦士さまじゃない、なら、あなたは誰なの?」
ナンシーがその顔を覗き込んでも、彼は瞳を閉じている。
口許には、皮肉そうな笑みをたたえたまま。
「……誰でもねえよ。オマエとは何の関係もない」
「おかしいでしょ。知りもしない人を刺せないよ」
「オマエとは永遠に何の縁も無い他人だ。だから刺せる」
まったく人の話をきかない。辛抱強く、ナンシーは問いかける。
「どうして、こんなことを」
「もういいだろう。殺せよ」
疲れたような声。ナンシーに、楽にしてほしいと願っている。
「……お前に殺されるなら、楽になれる」
弱弱しく手を取られる。その手にそっと短剣を握らされたとき。
物凄い怒りを感じた。
「勝手すぎる」
怒りは刃のように研ぎ澄まされる。
「そりゃそうだ。皆、自分の都合だけだ。そんだけ怒ってれば、できるだろ」
短剣を握らされた手に、さらに彼の手を重ねられる。
瞳が、合った。
「じゃあ、私も、勝手にするから」
「そうしろ」
シュッ、と音がして、ナンシーの撚った光の糸が、一閃する。
光の糸は、短剣を締め上げて砕き、破壊していた。
「絶対に、あなたを死なせないから」
「……は」
「何おどろいてるの。最初からそう言ってるし、だから私を連れてきたんでしょ」
彼の顔が白を通り越してもう蒼褪めている。でも、絶対に、死なせない。
その原因は、目を逸らしていない今ならわかる。
彼の首に巻き付いているのは銀細工の蜘蛛のトルクではなく、完全に忌まわしい魔物だ。
貴婦人の首を彩るためにかけられた鎖をたどるように、銀色の蜘蛛の脚に指をかける。
その脚はナンシーの指が触れると、嫌がるように数本があがいた。
でも、複眼の下にある獰猛な牙は彼の首に食いついたまま離れず、宝石のような赤い腹を蠢かせながら相変わらず吸血している。
(この蜘蛛、自分からは、離れてくれないんだ)
なら。
突き刺さっていた八本の銀色の脚を、すべて切断した。
「……っ」
脚は彼の肌と半ば同化していたのか、痛みにその眉が歪む。
苦痛の声が漏れたとき、突き飛ばされてもおかしくないと思った。
けれど、ナンシーの服の裾をぎゅ、と握られる。
「ごめん、でも、もう少し」
赤い宝石とその上にある頭だけが、彼の喉にまだ食いついている。
腹と頭のつながりを完全に断ったとき、銀色の頭もぽろりと落ちた。
地面に落ちた瞬間それは白い砂になって消えて、風に溶けた。
彼は大きく息を吐く。
「ね、ねえ、大丈夫なの?もう、痛くないの?」
瞳は閉じられたままで、 答えはない。
でも、息はあり、胸はとくとくと規則正しく脈打っている。
(生きてる……気を失ってるだけ?)
確かめようとして、胸から視線を上げる。不意に、懐かしい香り。
「え……?」
首のあたりはズタズタになっていたが、真皮まで達しているものは無いようだった。そこまではいい。
声を失ってしまったのは、その更に上を見たからだ。
その貌は、ナンシーの知るベネトナシュだった。




