村娘と喪失の棺15
突然現れた男性を目にしたまま、しばらくナンシーは動けなかった。
なぜか、目の前のひともナンシーをみつめたまま黙っている。
暴れまわっていた飛竜が居なくなり、ばら撒かれた炎を消すために人々が掛け合う声や水音も遠い。
目の前の男性も、ナンシーをみつめたまま動かない。
「ナンシー!無事なら返事をしてくれ!!」
呼ぶ声がして振り向く。
騒ぎと、ナンシーが居ないことに気付いたらしいシーラが駆けてくるのがみえた。
「ナンシー……?お前が……?」
紅玉髄の瞳がいっそう細められ、男性はさらに眉を顰める。
心底不愉快だ、とでもいうように。
どうして。
ナンシーは彼のことを知らないのに。
ばかな振る舞いをしたとしても、そこまで嫌悪を露わにされるようなことをした覚えはない。
「ああ……煤で汚れてるじゃないか。それで、こちらの彼は何者だい?」
ナンシーの傍に跪いてシーラがあちこちの異常を確認しているあいだも、彼の表情は険しいままだった。それに気づいて、シーラも瞳を眇める。
「私を、助けてくれた人です」
男性はシーラに向き直る。一瞬の緊張。そして。
「こんにちは。貴方も、救世の巫女のご一行の方ですか?」
ナンシーは自分の耳と目を疑った。
その声はナンシーを見た時に出た忌々しそうな声とはうって変わって涼やかで、その顔はケチをつけようがないほど綺麗に微笑んでいたからだ。
「そうだけど。其方は?」
「シムシュと申すものです。高地より巫女様の一行をお助けするように命じられ、はせ参じた神官戦士です」
というか、もう口調からして違う。自分がさっき聞いたのは、幻聴だったのだろうか?
「そうか……。私はユリアン。飛竜をやったのはキミだね?あんなに巨大なものを、どうやって切断したのかな。見事にバラバラだけど」
吹雪のような冷たいシーラの視線に晒されても笑みはそのままで、さざ波ほどの変化すらなかった。
「魔力で。すべて圧力を加えずに切り離しましたので」
「……ああ。道理で。止血しながら切開した、みたいな切断面だものね。一部の魔物の血液は酸だったり高温だったりするから、その処置は適切だ。でも……おかしいね。遣わされる予定の人間が使うと書かれていた種類の属性と違う」
疑いを濃くしたシーラの声は艶があるぶん凄みを帯びて低くなり、更に睨まれても、シムシュと名乗った男性の作りもののように綺麗な顔はくずれない。
「伝達に欠けがあったのだと思われます」
「そんな言葉で済まされても。キミが本当に王命で遣わされたなら勅許状を持っているはずだろう。見せてくれるよね?」
「どうぞ」
シムシュは懐から瑪瑙で出来た筒を取り出してシーラに渡す。
「おや。印璽どころか、紙もインクも本物だ……偽物なら紙は粗悪でインクの臭いがもっと汚いはずだけど……」
「司令官に見ていただく大切なものなので、納得したら返していただけますか?」
「ああ。大切なものだからね。早く検分してもらうために、みてもらったほうがいい。最高責任者のブルクハルト様は、巫女殿をお守りするため街の南の避難施設で警護にあたっていらっしゃるよ」
シーラがややぞんざいに指し示すと、シムシュは綺麗におじぎをする。
「ありがとうございます」
頭をさげたとき、黒髪に隠れたその白い貌に皮肉げな笑みが浮かんだようにみえたが――見間違いかもしれない。そのまま彼は去っていった。
「……疑われたのが業腹だったのだろうが、きれいな顔とは裏腹に中々嫌味な物言いをする男だね」
後姿が消えるのをみてとったシーラは、ほつれた髪をかきあげて帽子におさめながら言った。
「……どういうことですか?」
「最終的に彼のことを判断するのは上官で私じゃないからね。軍律では上が黒といったら黒だ。だから一理はあるんだが」
「シーラさんに見せる必要はないと、あの人は思ってたから、怒った……?」
「ただ単に軍律に厳しいのか狭量なだけかもしれないが、怪しいじゃないか」
不愉快そうにしていても、ほそい顎に長い指をかけるシーラの仕草は白鳥のように優雅で美しかった。
「はあ……まあ、裏表がありそうでしたけど」
「おや。どうしてそう思うんだい?」
「シーラさんと私じゃあの人態度がまるきり違いましたよ」
「どういう風に?口説いてきたり?」
思いがけない言葉にナンシーは目を見開いたが、シーラは冗談を言っているふうではなかった。
「まさか。理由はわからないけど、イライラした様子でした」
なぜかシーラの表情は深刻になる。
「ふうん……危ないなあ。そういう人には、近寄ったら、だめだよ」
「嫌われてるってわかってる人に自分から近づいたりしません」
「なら良かった」
その後はふたりであたりの消火活動を手伝い、シーラは仕事に戻り、ナンシーは飛竜の所為で購入できなくなった物資を別な場所で調達してツァディ軍駐屯地へと帰途につく。
駐屯地に続く道を歩いていると、何故か人だかりができていた。
「あなたが暴れていた魔物を倒してくれたんですよね?」
「シムシュさん!素敵なお名前……!」
原因はシムシュだった。彼が大勢の女性に囲まれている。見た目が良くて街を救ってくれた存在となれば、そうなるだろう。
近づくなと言われていたが、それ以前に集まった女性たちは分厚い城壁のようになっていて、とても自分から近づくことなどできそうにない。
遠目でみるとシムシュは自分を囲んだ女性たちに笑顔で応対している。声をかけてきた相手に答え、丁寧に質問を返している。
(なんで私だけ……?というか、あのときのあれは幻想……?)
絶対に見たし、聞いた、と思う。けれど、いま見ている現実とあまりに違うと、もう夢だとも思えてくる。ベネトナシュを思い出したことも。
そして、ありえないことを考えた。
でも今の現実をみて、やっぱり違うと思う。他人に愛想笑いができる人じゃなかった。誰とでも平等に接することも。
だから、違う。あの人は。これが現実。
足早にその横を通り過ぎて駐屯地に戻った。
それからナンシーはシムシュには近づかないように注意を払った。
現実と妄想を混同してしまいそうになる自分が嫌だったし、今でさえ、男女ともに人気が高いユリアンティラと「命の恩人である」「力量が近い」という触れ込みでいつも一緒に居るせいでやっかみの対象になりかけることが多いのに、今以上のことになりそうな行動はしたくない。
そして、ツァディの街を発つことを明日にひかえた日の朝。
シーラはいつものように持ち運び用の祭壇に向かって朝食前の祈りを捧げていた。
ナンシーは、街に居る間に見つけていたクランフラウの樹が植えられた公園へ向かっていた。
街にはいくつも花々や木が植えられた公園があったが、クランフラウはこの地域ではあまり好まれている樹ではないらしく、みつけるのに苦労した。
みつけた公園自体、さびれた感じで最後に見かけた時と同じように辺りには誰も居ない。鳴き交わす鳥の声だけが響いている。
(え……)
クランフラウの樹の下で、誰かが眠っている。
風にそよいでいる黒髪。もたれた姿が、花のような。
(やっぱり、シムシュ、さん)
足を止めて、その場から離れようとしたそのとき。
光が、瞼をかすめた気がした。
彼の首に嵌められた輪を飾る赤い宝石が、こちらをみるように動いた、ような気がした。
(……?光の反射のせい……?でも……)
彼の首にまつわる、精巧な銀の透かし細工で作られた首環。その蜘蛛の脚の部分が動き、シムシュの喉に食い込んだ。
(…………!?)
自分のみたものが信じられない。けれど、銀の脚が皮膚に突き刺さった瞬間、彼の表情が苦痛に歪んだ。
(嘘……でも……本当だったら……)
間合いを図るように、すこしだけ、近づく。
すると声だけでなく、彼の手が、その血管と骨が、ベネトナシュに似ている、ように見えた。
彼の手を実際に見て、触れた、その最後のときは。
記憶を追う。でも頭の中にあることは現実ではない。
(どんどん曖昧になっていく……)
違う部分を確かめようとする。たとえば、その貌。
描いたかのように美しい曲線の眉。その下の、閉じられた瞳。化粧もしていないのに瞼は艶めかしく色づいていて――その長い睫毛のうえに、銀色のものが光っている。
(水滴……?違う、雨なんて降ってないし)
ちいさな銀色の蜘蛛が、シムシュの睫毛の上を渡っていた。銀色の糸を引きながら。それは、彼の身体中にまつわっている。
彼はそのことに気づいているのだろうか?無意識にナンシーはシムシュの身体に巻き付く銀色の糸に触れようとしていた。
赤い瞳と、目が合った。
咄嗟に逃げようとする。
「どうして逃げる」
「す、すみません」
「何をしようとしてたんだ」
逃げる足を止めたのは、彼の声がいつもとはまるで違い、苦しそうな喘鳴が混じっていたからだ。
「何もしていません」
「何もしていないのに何故謝るんだ」
振り返ってシムシュをよく見る。顰められた眉。よく見ると、やはり蜘蛛の脚が喉に刺さっている。しかも、その銀色の管は血を吸い上げて腹に溜めているようにみえた。
今自分がみているものが理解できない。妄想かもしれない。おぞましすぎる。でも、信じられないことばかり起きている。
だから、たずねてしまった。
「その銀色の首環……ほんとうは、生きてるんですか?」
シムシュの顔に、仮面がはがれるように驚きが広がり――その無防備な表情は何故か、ベネトナシュを思い出させた。
ナンシー以外の人には愛想よく振舞うその白い貌とは似ても似つかないはずなのに。
形の良いくちびるが、何かをかたどりかけた。
「シムシュ様ー!どこですか?」
けれど、その言葉があらわれる前に、彼を呼ぶ声がしてすべて掻き消える。
「……ここでみかけたって本当なの?いくら探しても居ないじゃない」
「この公園さびれてるし幽霊か幻覚じゃないの?」
「失礼ね!たしかに見たわ」
シムシュを探している女性たちがいるようだった。その声にナンシーも我に返る。装飾品が生きているなどありえない。シムシュの表情をみると、苦しそうな気配はまるでなかったかのように消えていた。
風にゆれる緑の葉が陽光を散らし、その姿は相変わらずひとつの美術品のようだった。
貧相なナンシーだけが、その絵画的な空間の調和を乱している。二人でいるこの現場が彼女たちの目に入ったら誤解される。怒りを買うかもしれない。
「変なことをいってしまって、すみません!失礼します」
混乱して、何一つまともに考えられない。その状態から、逃れた。
いつかのように。
物資の検品や搬入を済ませた後に料理そのほかの雑事を手伝い、一日の仕事をようやく終えてあてがわれた部屋にナンシーが戻る。
するとシーラが先に帰ってきていた。彼女は机に書類を広げたまま、まっくらな窓をみつめて考え事をしていた。
ずいぶん真剣な様子で、声をかけるのをためらっていると、シーラの方が気づいて、お帰り、と言ってくれる。ナンシーもただいまと返して、あらためて声をかける。
「シーラさん、考え事ですか?」
「うん……あのシムシュというのがね……」
「お仕事のことかと思った……」
「いやまぎれもなく仕事のことだよ。どうもあれはやっぱり怪しい」
シーラ相手にはそつない対応をしていたようにみえるので、ナンシーは不思議に思う。ナンシーがみていないところで、彼は何かしていたのだろうか?
「シーラさんは、どうしてそう思うんですか?」
お茶を用意しながら、ナンシーは訊ねた。
「まず最初に会ったときの受け答えだよ。どうもね……あれは魔術を使う者の考え方じゃない。ああいう<力>を自然に操る人達は、物を切断するときに圧力だの、質量や摩擦やそれにまつわる函数、といったことを考えない。その必要がないからね」
「私みたいに、途中から使えるようになったのかも?」
「高地の神殿に仕える者が……?あの銀の首環も私の知ってる様式ではない。尾を口に咥えた竜が一般的な意匠で、昆虫のものはみたことがない。私が見た勅許状が、同じ素材で作られた偽造品でないことを願うよ」
「でも、勅許状の偽物を用意して、身分を偽って……なんのためにそんなことを?」
シーラはいっそう眉を顰める。
「<扉を閉める者>を殺すために仕向けられた暗殺者の可能性は捨てきれないね」
「うーん……そうなのかなあ……?」
「おや。どうして?そう思うんだい?」
ナンシーが淹れたお茶を受け取ると、今度はシーラが訊ねる。
「いま、王国軍は六つの『救世の巫女』とそれを護衛する十二の小部隊をちょうど鳥の羽が広がったように展開させながらレイソルの村に向かってるんですよね?」
「うん。誰が本物の巫女様か悟られないように行軍するためにね。最終的には広がっていたすべての軍が、レイソルを中心にして同心円状に近づいていき、魔物を抑え込むようにしてレイソルを囲む陣になる予定だ。
いにしえの兵法書風に言うなら攻防一体のボドヴ・カハの陣で行軍して最終的に練兵の粋を集めたアリアンフロドの陣へと変ずるわけだ」
「この行軍、暗殺者によって巫女様が亡くなられたら止まるものなんですか?上のひとはその事実をふせて代わりを立てるだけなのでは?」
お茶の香りを楽しみながらすらすらと兵法書の一端をなどを諳んじていたシーラだったが、ナンシーの言葉には困ったように笑う。
「……キミも国の策謀や体面など上の考え方を理解するようになってきたというか、怖いことをいうね。確かに、まあ、そうだよ」
「なら軍にもぐりこんで暗殺、というのは無意味なのでは?」
「重要なことを忘れているよ。人間同士の戦争なら政治やメンツが絡んでくるからそういう理屈になるけど、いま戦ってる相手は人間じゃなくて人ならざる邪神が率いる軍勢だよ。なので、当然、軍が進軍しようが総大将や名目を失って消滅しようがどうでもよくて、本物の巫女様だけが紛れもない脅威なのだから、そこが狙いになる」
「……つまり、今の行動は本物の巫女様が誰か調べるためにやってる?」
「あわよくば仕留めるためにね。私が心配している理由がわかっただろう?」
その表情をみて、シーラは、本当にナンシーの事を心配してくれているのだと知った。
「暗殺説を否定するくらいずいぶん信用されているし、キミの心を掴むために寄こされたのかも?」
おどけたように可愛らしく首をかしげてみせるが、目は笑っていない。
「だったらあんな態度とらないと思うんですよ……」
その目を見て、なぜか、朝での出来事をシーラに話すことができなかった。
だって、全部妄想だ。あの蜘蛛が彼の首に突き刺さっていたことも。
苦しそうな一瞬の表情にベネトナシュを視たことも。
朝、偶然にシムシュに出会い、すこし話をした。
それだけが客観的な事実。
「どうなんだろうね。確かにキミとシムシュが出会ったときの空気はいま思えば、私から見ても凍り付いていたし、数的データとしてみても彼とキミが接触している時間は少ないから、客観的にみればそうなのだろう。一般的に好意があれば何が何でもどんな理由があっても接触しようとするだろうし、キミだけに冷たい。そういう事実がある。
けれど私にいわせれば客観性とか数字を神のように崇めるというのも考えものだよ。そういう人間は結局、客観性や数字という虚ろな器の中に無限の肥大した自身のエゴやゆがんた主観を投影していることが多いし、わたしたち自身がただの人であり主張される客観性も無数の主観の積み重ねに過ぎないことを忘れている」
「……そのお話は、すこし、難しいです」
「ああ、ごめん。キミの気持ちをふさぎこませたいわけじゃないんだ。キミは何でも否定せず黙って聞いてくれるから、調子に乗っていろいろ話してしまうのかも。ごめんね」
「いいえ。シーラさんは、悪くないです」
やりとりをしているうちに消灯を知らせるベルが鳴り響き、ふたりは灯りを消して寝台に入る。
――「ほんとうのこと」は?
わからない。混乱する。見極めることができない。だから、逃げてきた。
でも、それを繰り返した結果、ベネトナシュは――
胸が痛い。たぶん、それは、思いがいろいろなもので生き埋めにされているから。




