村娘と喪失の棺14
瞳を開けば、宙には無数の星がまたたいている。それらはひとつひとつが願い。思い。眺めているだけでも、重くて心が押しつぶされそうになる、それはやがて本当に落ちてきて、<わたし>は逃げ出した。
逃げ出した<わたし>を私は眺めていた。
ナンシーはいつかの風景に居る。以前、彼が居た頃、みていた夢。いつからか見ていない夢の場所。星々に囲まれている。星たちは囁く。
「アミンダロイジェレの樹の下には死体が埋まっているの。あの樹の花は、本当は真っ白な花弁なの。けれどきれいな薄紅色をしているのは、死体の血を吸っているせいなのよ」
星々のきらめきが耳をくすぐる。
「死体を探しに森へいきましょう」
「だって、それさえみつからなければ、まだ生きているかもしれないのだもの」
「なら、探すのをやめましょう」
「いいえ、探してみつけましょう」
「だって、たとえばらばらにされていたとしても、全部あつめて糸でつなげば生き返るはずだもの」
瞬く星々は全部が違う存在のはずなのに、聞こえてくる声は聞き覚えがあり、すべて同じだ。
おかしいと思う。同時に、それはまぎれもなく自分の心と同じだった。しぜんに足は歩き出す。周囲の風景はどんどん遠ざかり、変質していき、どこまで歩いたのか、いま自分を取り巻く風景がどうなっているのかわからない。
それでも歩いた。
死体を、探さなければ。
「森へ行くの?」
振り向くと、其処には青い影が立っていた。背中からは蜈蚣の脚のように突き出た無数の白い羽が生えている。
その後光は、虹の円環。彼の周りには青空が広がり、大きな白い雲の姿をした蛇が眷属として従っている。
「森へ向かう旅をするの?それが望みなの?」
彼が問いかけるたびに、風がざわめく。
「僕のいたところでは、治る見込みのない病に罹った人に、白い装束を着せて旅に出して、森に入らせたり山に登らせていたんだ。遍路とか巡礼っていう。その事実を伝えた物語では、旅の最後には徳の高い聖人に出会って病は治るのだけれど、現実は――」
口をつぐめば、風はとまる。
あなたが憂うる必要はないでしょう、と、自分のなかから別な誰かの声がした。
影は、その言葉にどこか苦しそうに微笑んだような気がした。
風がまたそよいで、言葉が続く。
「自分ひとりではけして治せない病を、癒すことができる聖人に出会えることを祈っているよ。でも、現実は、僕の想像を超えてはるかに邪悪だ。<あなた>が押しつぶされてそんなふうになってしまったように。最後に残ったともしびが……」
びょう、と風が吹く。
違う。これは、空気がものすごい勢いで抜かれている音。
どこから。だれに。なぜ。
「……旅にでるのなら、出会って、救ってほしい……生き埋めにされたものたちを……それが、きっと、あなたの助けになるから……かわりに、僕は星降る街で出会えることを祈るから……」
同時に、青い影とそれを取り巻く風景も削り取られるように凄まじい勢いで掠れていき、声も消えていく。
※ ※ ※
そこでナンシーは目が覚めた。カーテンの隙間から差し込むわずかな光にまばたきする。
何か夢をみていたような気がするけれど、内容は思い出せない。
すこし仮眠するだけのつもりだったけれど、あの時からかなり時間が経っているような気がする。シーラは「一日眠ったら」といっていたけれど、自分はどれくらい眠っていたのだろう。
借りていたベッドから起き上がったとき、ドアがノックされた。
「ナンシー、起きているかい?」
気づかわし気な、シーラの声だ。ドア越しでも彼女の声は良く通る。
「はい」
「体調は大丈夫?おかしなことはない?」
一瞬、内容を思い出せない夢のことがよぎる。
でも、それは体調に関係がない。
「どこも悪くは無いです。すみません、どれくらい私は眠っていたんでしょうか」
「二日くらいだよ」
「そんなにたくさん……」
「<力>を使った後に一週間寝込んだ人間もいるし、キミの意識の回復は早い方なんじゃないかな。キミが眠っている間に報告や調べ物をちょっとしていたけど、ご家族は無事のようだよ。今は同じ被害にあった村の人達と、避難施設にいるそうだ」
「知らせてくださって、ありがとうございます……お手数をかけてしまって、すみません」
「ほかの事実確認のついでだったから、たいした手間じゃない。外に出るつもりなら、着替えを用意させるけど」
「お世話になってしまってすみません。ありがとうございます」
「それと、お腹はすいてる?」
「いえ……今は」
「じゃあ、お茶だけだね。下でこれからのことを話そう」
シーラが離れた後に、使用人らしき人が来て、ドアの前に着替えが入った籠を置いてくれた。
籠を受け取り、新しい服のかわりに脱いだ服を畳んで入れる。あらためてみると着ていた服は、ところどころが破け、泥に汚れていた。着ていたときは全く気が付かなかったけれど、この格好でいたのかと思うと血の気が引いた。
服を用意してくれたシーラに感謝しながら袖を通す。
王都の様式の服を着るのは初めてで、時間がかかってしまった。
シーラは下で待っているはず。急いでドアを開けると、廊下に人が立ってこちらを見つめていたのでナンシーは驚いた。
「お客様を案内するよう、仰せつかっています。エルゼと申します」
落ち着いた声と鳶色の瞳が印象的な女性だった。立ち姿が凛としているせいか、メイド服をまとっているのに騎士のような雰囲気があり、おじぎをしてしまう。
「あ、ありがとうございます。ナンシーです」
「お名前はすでにシーラ様から伺っております。それと、頭を下げていただく必要はありません」
「ご、ごめんなさい」
「そのような言葉も不要です。ついてきてください」
踵を返した後姿を追う。
窓から差し込む光でつやつやと光っている手すりをつかみながら階段を降りるまでは良かったが、いくつも扉が並んでいるとナンシーには、もうわからない。
すっかり忘れていたが、シーラの邸宅は広いのだ。案内がなければ応接間にたどり着けず、迷っていただろう。
おとなしくエルゼに従って歩いていると、彼女はみおぼえのある装飾がなされた扉の前で足を止めた。
「ナンシーさまをお連れしました」
「ありがとう、エルゼ。あと、星光翅の茶葉で淹れたお茶を頼むよ」
「かしこまりました」
会釈をして去っていくエルゼと入れ違いに部屋に足を踏み入れると、壁に飾られた祈りの言葉たちがナンシーを迎える。
前に案内されたのと同じだ。なのに違うように感じてしまうのは、金細工と真珠貝で作られた時計や孔雀石で作られた文鎮、光を透かす複雑な刺繍を施されたカーテンなど、以前よりは部屋の様子を細かく観察できる余裕があるからだろうか。
「もしかして私の許可がなければ座ってはいけないと思っている?お客様なんだから、遠慮なくどうぞ」
促されて、豪奢なクッションが置かれたソファに座った。
「これから、また、村に……あの場所に行くんですよね」
無意識に拳を握りしめる。シーラは微笑んだ。
「たった今座ったばかりなのに、すぐさま立ち上がって駆け出しそうな雰囲気だね。だけど、今すぐにというわけにもいかない」
「……?……シーラさんのあの魔法で、扉の近くまで行くんじゃないんですか?」
シーラは優雅にかぶりを振る。
「私もそうできたらと思うのだけれど、そうもいかない。というのも、王都の探知能力者が調べた報告結果によると、扉から噴き出たものたちの数が指数関数的に膨れ上がっているからなんだ。キミを助けに行ったときはまだ私一人で蹴散らすことができる数だったけど、今は無理だろうね。
そういうわけでキミが扉にたどりつくまでの時間をかせぐどころか、扉を閉めるわずかな時間ですら私ひとりでは確保できるかどうかあやしい。もっとも……」
美しい瞳が、測るようにみつめてくる。あの視線だ。ナンシーを通して、神を探るような。
「どう?キミは、その<力>で近寄る邪魔者をすべて蹴散らせそう?」
役目を背負っているのだから守られる、ではなく、ナンシーも戦わなければいけない。もしものときに何がどれだけできるのかわからなければシーラも命を落とすのだから、質問は当然だ。
「……シーラさんに近づいてきた恐ろしい怪物を何体か落とした記憶はあります。……どこまでできるのかまでは……」
戦う意思はある。ただ、自分の力を、自分でも把握できていない。
そのもどかしさが言葉を詰まらせる。
そのとき、生じた沈黙を見計らったように扉がノックされた。
「お茶をお持ちいたしました」
シーラが入室を許可すると、茶器が載せられた銀製盆を持ったエルゼが姿を現す。
前にシーラが直々に淹れてくれたお茶を載せたお盆と茶器とは、装飾がかなり繊細で違っていた。来客用のものを選んでくれたのだろう。
「ありがとう。エルゼ。あとは用がある時にベルを鳴らすから、構わなくてもいいよ」
「そうですか。では」
テーブルに置かれたお茶は、晴れた日の湖面のような透き通った青い色をしていた。
ふたりのやりとりもほぼ耳に入らないほど、ナンシーは驚いてしまう。
「そんなにみつめなくとも。口にするものの色をしていないと思っているかもしれないが、毒じゃないよ。むしろ身体にいいんだ」
「いえ、宝石を溶かしたみたいな、とても綺麗な色だと思います。ただ、みたことがないから、つい」
「このお茶、色が珍しいだけで味と香りは殆どないんだ。甘くしたいなら、こっちの瓶にリヴェラの花の香りを付けた砂糖が入っているから、どうぞ」
お茶と共に置かれた、表面に繊細な切れ込みと彩色が施されたガラスの小瓶を示される。
蓋を開けると、粉雪のようなきめ細かい砂糖に、星の形をした青紫の花びらが混じっていた。甘酸っぱい香りは、花びらからしている。
「じゃあ……ありがとうございます。いただきます」
一杯だけ、銀色のスプーンで星が混ざった真っ白な砂糖をすくい、サラサラと青いお茶に流す。
自分が子どもだったら、夢中で何杯も砂糖をいれてドロドロにしてしまったかもしれない。
でも、ナンシーには、お茶を飲んだら、やらなければならないことがある。
「どうすれば、シーラさんくらい強くなれるんですか」
シーラから返ってきたのは、意外な言葉だった。
「向上心とやる気があるのはいいけど、自分の強さを過小評価しすぎにみえるよ。私とキミの力は同程度だと思う。というか、私以上なんじゃないのかな」
「そんなはずは……」
「いや。強い。だから、てっきり回復も早いんじゃないかと思って、半分冗談で一日休めば、なんて口走ってしまったんだ。初めてであれだけのことをしたのに、二日で回復したことに驚いているよ。ただね」
シーラは何故かそこで言葉を切って、笑った。
「さっきの言葉で誤解させてしまったようだけど、仮令キミと私がどんなに強かろうと、ふたりだけで勝手にあの扉を閉めに行くわけにはいかない」
「え……?」
「キミの村だってこの国の立派な一部だからね。そこで起きた災厄を鎮めるために王は統治者として力をお示しにならなければならない。具体的に言うと、軍が動く」
王様。軍隊。遠い存在すぎて、ナンシーの頭になかった。だから今知って、必死で考える。
「軍隊が、討伐の為に村に向かう?」
「そう。扉を閉めることができるキミはそこについて行くことになる。私も道案内として従うことになっている。キミが休んでいる間に報告を行ったとき、その役目を命じられたよ。先に言えば良かったね。私はそんな事務的な報告よりキミの気持ちを聞きたかったので、ついそっちを優先してしまった。すまない」
「いいえ……それはいいんですが、私はこれからどうするべきなんでしょうか」
けれどシーラとナンシーでは持っている情報の量が違う。なので結局、たずねることしかできない。
「することは旅支度とご家族への報告くらいじゃないかな。国事だから出立の式典などがあるけど、さすがに馬鹿正直に『この娘が異変を収めることができるただ一人の存在です』なんてお披露目するわけにいかない。狙ってくれと言っているようなものだから式典は影武者をたてて行われる。
ただ、王様との謁見はあるね。上の方々が事実を把握してないでは話にならないから」
「謁見……」
緊張して顔色を変えるナンシーを、シーラはなだめる。
「まあ、気楽にね。服などは向こうが用意してくれるし、向こうも忙しいから、わずかな間だ」
「シーラさんは、そういう式典に慣れてるんですか?」
「まさか。私は権力とは無縁の人間だよ。この職に就いたのも政治となるべく関わりたくないからだし」
その割にはものの見方が世慣れている気がする。けれど、シーラが特別というわけでなく都に住んでいる人というのは自然とそうなるものなのだろうか?ナンシーにはわからない。
「上の人の都合で相応の振舞いを求められるという点では、キミと同じだ。よろしくね」
「は、はい……。でも、シーラさんと自分が同じとは、とても……思えません」
「そうかなあ。ところで、お腹がすかない?」
「いわれてみれば……」
「ほら、同じだ。ブルスケッタと果物を用意させよう」
シーラがクリスタルのベルを鳴らすとエルゼが現れる。ナンシーはエルザについて先に食堂に行っているように言われた。
「ありがとうございます、シーラさん、エルゼさん」
「いちいちお礼を言っていただかなくとも結構です」
ふたりのやり取りを微笑みながらシーラは見送る。
扉が閉まると、書棚から金属製の板を一枚取り出す。そこには文字が光として浮かび上がり、蜘蛛女神の伝承が書き連ねられていた。
しばらくそれを読んでいたシーラはため息をつき、顔を上げる。
壁に貼られた祈りの言葉が目に入った。
――愛だけをすべて、神だけがみておられる――
にくしみの裏にひそむ愛を理解するからこそ崇めている。けれど。
「神ですら愛に苦悩する、と」
慣れた手つきでガラスの皿に載っていたスライスされたレモンを、お茶に入れる。
するとサファイアのようだったお茶の色は、アメジストの色に変化した。
「人ならば尚更だろうね。変わらずにはいられない」
それでも、変わらぬことを願っているよ。
甘い願いだ。自覚はある。だからそれは口にする前に、舌の上で砂糖と共に溶けた。
※ ※ ※
それからの日々はナンシーにとって目まぐるしい変化の連続だった。
軍に付き従って出立する準備をするため、ナンシーはシーラの家にとどまることになった。
ともに暮らすうちにナンシーの過去やそのときどう思っていたかなどを聞いたシーラは、一緒に暮らしていた相手だとしても辛いならことづてだけで済ませて会わなくてもいいかもしれないね、と言ってくれた。
ナンシーも一瞬、いっそ自分があの災害で死んだということにした方がいいのではないかと思ってしまったが、そんなわけにもいかない。
気持ちが通じなくても、育ててくれた人たちという事実は変わらない。
避難施設から近隣の村に移って居を構えていた彼らは、やはりナンシーを死んだものと思っていた。だが付き添いのシーラと軍人の姿を交互にみて、これからのことをおおまかに告げられると、非常に名誉な役目をもった者が家族から出たと喜んだ。
こういう人たちだと予めわかっていたので、ナンシーには喜びも悲しみもない。
礼儀正しく頭をさげて、最後に今はシーラと共に居ることを告げて別れた。
自分を引き取ってくれていた家族への報告が済んだ後は行軍の日程表をもらい、それとにらめっこをしながら荷造りを行う。同時に、<力>の使い方に慣れる訓練を毎日していた。
何ができるのか、どこまでが自分が倒れる限界なのか。
毎日ためして見極める。
メイドのエルゼとはその間にだいぶ仲良くなった。
シーラの邸宅に夜盗が入るという事件が起きたが、エルゼが犯人を打ちのめし捕まえていた。
彼女の能力は、水晶の矢を無数に打ち出すというものだったのだ。
盗人どころか魔物でも敵わないだろう。
「エルゼは、ついてこないの?」
「私の仕事はこの家を守ることですので」
そんなことがありながら日々は過ぎていき、いよいよ出立まであと二日となったとき。昼食が済んだ午後、シーラに出会ったナンシーは驚きに声をあげた。
「シーラさん……その格好は」
「まあ、ふたりとも女だと何かと面倒に巻き込まれやすいからね」
シーラは纏めた髪を軍帽に収め、男装していた。
そういいえば、数日前に軍で支給された服をナンシーに見せて、この房飾りは実は魔除けが編み込まれているとか、金属装飾にも魔力増幅装置が仕込まれているとかしきりに興奮していたのを思い出す。
「呼び名も、まあシーラでも悪くはないけれど、できればユリアンティラと呼んでくれ。父方の姓だ」
「ユリアンティラ・シーラさん……」
「他にも親族の名が付いているから私の正式な名前はとても長いんだ。……ユリアンティラも長いな。ユリアン、でいい」
「ユリアンさん……」
「さん、も要らないな。呼び捨てでいい」
「ええっ」
「そもそも敬語を使っているのがおかしい。自然に消えるかと思ったけれど今日までこの状態だ。この機会に変えてほしい」
「ダメですか」
「ダメというかおかしい」
「そうかなぁ……」
男装してユリアンと名乗ったシーラだったが、美貌は変わらないので結局、旅が始まっても男女関係なくモテていた。
勅命を受けたナンシーもとくに変わっていなかった。ユリアンティラ・シーラと縁故のある、魔物と戦う能力を持っているため討伐隊に加わった村娘という扱いで、『扉を封印する乙女』として厳重に護られた神輿に乗っているのは他の人物だからだ。
「封印の乙女っていうくらいだしきっと女神みたいな美人なんだろ?一回でいいから見てみたいなー」
「バカヤロウ。すべての災いを鎮める神の力を持った乙女だろ?俺らみたいな下賤の者がみたら目が潰れる」
煮炊きを手伝いながら兵士たちのやりとりを耳にする度、あの神輿に乗ってなくて本当に良かったとナンシーは思う。
行軍は続き、王都マラニヤの三重の壁を越えて、四つの村を過ぎ去った頃。
物資の補給と人と馬を休ませるため、軍はツァディの街に寄った。
「ナンシー、物資の補給を手伝うの?私も行くよ」
シーラはそう申し出てくれたが、彼女には、軍の記録係を手伝う仕事がある。
「大丈夫です。すぐに戻るから」
破損した小さな部品を購入してくるよう申し付けられたナンシーは、金属部品の店が並ぶ専門区域に向かう。地図をみると、馬車が通る大通りより、住宅街を突っ切っていった方が早い。
家々の庭や窓を飾る珍しい草花や名前も知らない蝶がひらめいているのを眺めながら目的地へ向かっていると、叫び声がした。
「逃げて!みんな!逃げて!」
前方に黒い煙が上がっている。
「そんな、なんで飛竜が?」
ただならぬ気配と叫び声に、家々の人々が飛び出してくる。
その様子を見て咄嗟に思い浮かんだのは、逃げなければ、ではなく、助けなければ、だった。
「あっ、お嬢ちゃん!あぶない!そっちは!行ったらダメだ」
制止の声も振り切って、逃げだす人々と逆方向へ駆けだしていた。
<力>を使い、吹きつけてくる熱風から身を守りながら目的地にたどり着く。
そこでは黄緑色に眩しく光る鱗と、蝙蝠のような羽を持った蛇が、気まぐれに飛び回りながら口から炎を吐いていた。
蠅が腐肉を啜るように、その飛竜はドロドロに溶かした金属を好んで食べているようだ。だから金属を扱う店が並ぶこの通りが狙われたのだろう。
ナンシーはその姿を捉え、見えない糸を貼り、捕まえる。
そのはずだった。
なのに。
拘束は効かず、飛竜は見えない糸を振り切り暴れ出す。
(どうして……?)
もう一度、よく<見る>。
瞳を覗き込むと、其処には<力>を形成する三角形――タウトリアデルタが無数に回転しているのが見えた。
<力>の形を正確に理解するために意識を集中させて被写界深度を絞ると、それが十二個の五芒星で形成された星型の図形なのだとわかる。
(ただの飛竜じゃない……?)
防いでいても髪が逆立つほどの熱風が吹きつけた時、数秒で接近されていたことにようやく気付く。
一つ一つが断頭台の刃のような歯を間近に見て、死を悟った。
(…………?)
耳をつんざくような絶叫。覚悟した痛みが、無い。
それどころか、ナンシーの間近に迫っていた飛竜の首は、落ちていた。
断末魔を追うように、切断された胴体がドスンと地上に落ちて、砂埃が舞う。
「なんだお前」
忌々しそうな声と共に、ナンシーの目の前に誰かの影が着地した。
風に砂埃が払われ、かわたれどきを迎える空の色のような髪が揺れているのがみえる。
「何なんだ。助ける力も無いのに、なんで飛び出してきた」
振り向いた貌は、白皙。目鼻立ちは繊細で、乱暴な物言いとは不釣り合いにとても美しかった。不愉快そうに眉を顰めた様子でさえ。艶やかな紅玉髄の瞳が此方を見据えている。
「おい、聞こえてるのか」
そう訊かれても、ナンシーは、言葉がでない。
「………………………………ごめんなさい」
声がでなかったのは、自分を助けてくれたひとがこの世のものとは思えないほど美しかったからではない。
苛立たしそうにみる目つきと、声が、初めて出会ったときのベネトナシュにそっくりだったからだ。
――■■ひと■では■■て■■ない■を、■■ことが■■る■■に■■■■■ことを■■■■る■。でも、現実は、■■の想像を超え■■るかに邪悪だ――
ふと耳に触れた風が、砂埃の名残のように、聞いたことがある筈が無い音を吹き込んだ。




