村娘と喪失の棺11
冬の間はずっと、居坐機で機を織り、植物の茎で作られた繊維で籠を編んだり、細工物を作る。
それがイリューサットの冬での女たちの主な仕事だ。
織物で作られた服のほかに、湖で採れる貝から抽出された紫色の染料で染められた糸で編まれた毛糸細工や、皿のように半分に切られ乾燥させたキュクルビタチェ(瓢箪)の一部に、鉱石の欠片を敷き詰めたモザイクタイルで作られた儀式用の板は工芸品として持て囃され高く売れるため、村の貴重な収入源の一つになっていた。
(あしたは、晴れるのかな……?)
クェイトル(巻きスカート)を織り終わって、ナンシーはため息をつく。これで今日の仕事はようやくすべて終わりだ。
なんとはなしに首にかけた紐をたぐり、襟から紐細工で作られた蝶々をとりだしてみつめる。
ベネトナシュの瞳と同じ色の紐で編まれたそれは栞で、ナンシーがベネトナシュに送りたいと思って冬の間作ったものだった。
なくさないように、青と黄色の余り紐で作った紐に括り付けて、いつも首から下げている。
(早く、渡したい……)
ナンシーはいつもベネトナシュにいろんなものを貰ってばかりいる。
すこしでも何か返したい、そう思った
紐で編まれた蝶々はこの辺りでは幸福の象徴だ。ナンシーはこんなものしか用意できない。
でも、渡したい。要らないっていわれるかもしれないけど、それでもいいから、会いたい。
だから晴れ間がみえたとき、言いつけられた用事を終わらせたナンシーは飛び出していた。
クランフラウの樹の下にたどり着いたとき、ナンシーはおや?と思った。
ベネトナシュがいない。いつもナンシーより先に来ているのに。
しばらくの間待っていたけれど、人の気配はなく、鳥の声が鳴り響くだけ。
ナンシーは不安になってくる。
探しに行ってしまおうか。そう思ったとき。
「探してるんだろ?あいつを」
「えっ?ウィヤル、さま……?」
声をかけられて、ナンシーはそんなつもりはなかったのに驚いて相手の名を呼んでしまう。
名前を呼ばれたウィヤルは、ひどく感じの悪い笑い方をした。
「来いよ。あの方はお前にも用があるんだってさ」
「あの方って、だれ?」
「王都からの貴賓だ。村を調べるためにお越しになられた」
ウィヤルが敬語を使っているということは、身分のある人なのだろう。
だが、そんな人物がナンシーに用があるというのはどう考えてもおかしい。
「村を調べる……考古学者の人?でも、なんで私に?」
「俺はお前を呼んでくるようにあのお方に言われただけだ。理由が聞きたいなら自分で聞け」
村の遺跡を調べる人たちのことは、ベネトナシュも興味を持っていて、ナンシーもよくその話を聞いた。
土が酸性のために難航しているが、土に埋もれた神殿などがあり、そこからたまに発見される壁画や石板がとても貴重なこと。遺跡の調査はとにかく物量が必要なためにたくさんの人を雇う必要があること。
だが、ベネトナシュから聞いた遺跡や考古学や発掘についてのさまざまな話を思い出しても、今の状況に対する答えはない。
ウィヤルは嫌な感じがする。
正直ついていきなくない。でも、ベネトナシュのことを知っているというのがウィヤルしか居ないのなら。
「ついてこないのか?なら、いいけどな」
また笑い、背を向けてひとりで歩き出す。
このとき、無理にでも引っ立てるような動きをウィヤルがしていたら、ナンシーは必死で抵抗しただろう。
だが、まだまともな動きをみせていたので、ナンシーはその後を追った。
このひとにはあまり大それたことはできないと、そう思っていたせいもある。
ウィヤルの――村をおさめる者の一族は代々、神官の家系であると同時に交易を担うことで、水源や農地に恵まれていないこの土地の村に富をもたらしていた。
工芸品や宝飾品を運ぶこの仕事は常に盗賊に襲われ命を落とす危険と隣り合わせで、村長になる予定の者は戦士として代々その恐怖と戦う掟だった。
だがウィヤルにそんな度胸はない。
彼はいつも自分の立場から逃げたがっていた。だが、自分が生きていくためにどうすればいいいかわからないから、逃げられない。
その苛立ちや無気力や劣等感がウィヤルという人間の大部分を侵食しているのが、ナンシーにはみえた。
ナンシーは自分が弱いぶん、みえてしまうともう他人の弱さをあまり責められない。
ウィヤルと同じ立場に生まれて、自分と村の利益を守るために命を懸けろとか人を殺めろといわれてまともでいられる自信もない。
だから、同じ立場におかれたら彼のようになってしまうかもと思ってしまう。
それと彼の悪行や間違いを受け入れることは別なのに。
何も知らなかった頃は、自分の弱さも、他人の弱さも、怖かったし、混乱していた。
今も、怖いし、まともな判断なんてできる自信が無い。
ナンシーにとって怖くないものは少ししかない。
ただ、ベネトナシュに会って、彼から言葉を学び、本を読むようになって、
自分の感情を整理したり他人と自分の境を言葉によって分け、はっきししてくるようになった。
できるかどうかは別として、考えて、判断するということがわかるようになってきた。
以前は、何もかもをみないように、考えないようにしていたし、今も、みたくない。
でも、ベネトナシュに関わることならば、考えてみないわけにはいかない
だからウィヤルが村長の家とは別の道をたどりだしたとき、ナンシーは訊き返していた。
「……?あの、ベネトナシュはどこに……?」
「いいからついてこい」
ウィヤルの怒鳴り声に、本能的に後ずさる。ウィヤルについていくのは危険だ。
逃げようとすると、それよりも早くウィヤルに腕をつかまれる。
激痛がはしった。
「――っ!嫌!!」
こんなことをしてくるのは、異常だ。ベネトナシュはそれに巻き込まれているのか。
なら、助けたい。
たとえ自分には何の力が無くても、誰かの力を借りてでも――
胸元に下げていた蝶々が、熱を持った気がした。
そして、一瞬の閃光。
足元が大きく揺れる。立っていられない。
――地震?
激しい地面のゆれにウィヤルの手が離れ、代わりにナンシーがまとっていた上半身を覆う毛織物が掴まれ、引き裂かれる。
ふいに、ナンシーの足元から、地面の感触がなくなった。
下をみると、そこにあったのは。真っ暗な闇。
大地に大きな裂け目が入っている。ありえない。
おちていく、と思った。
でも、どこへ――?
地底の底にあるという死者の国なのか。
(いやだ、まだ、死にたくない……!!)
ぎゅ、と目をつぶり、上衣がなくなったことによりむき出しになった紐細工の蝶々を祈るように無意識に握りしめる。
前は、そんなこと思わなかった。
痛いのは怖いし嫌だけど、自分の存在が無くなることという意味で死を恐れてはいなかった。
誰も私のことを好きじゃない。私も大切とか好きとか思える人なんて居ない。
だから、何もかもなくなっても怖くないし痛くない。
――でも、今は――
握りしめた指の間から、泡立つように緑色の光が漏れたような気がした。
そのまま、気を失う。
※ ※ ※
頬に温かい光があたるのを感じて、ナンシーは目覚めた。
(わたし、生きてる――?)
落ちた時に全身を擦ってしまったのか、あちこち痛いけれど動かせないほどではない。
ナンシーの背丈の五倍くらいの高さの穴から光が帯のように差し込んでいる。
あたりはどこもかしこも岩だらけだ。
どうにか地上にあがる方法はないかと調べていると、一か所だけ、岩を削って作られた人工の壁があった。
ナンシーは吸い寄せられるように壁の方へ歩いていく。
遠目からは模様にみえたが、壁にあったのは一面に描かれた宗教画だった。
緑、青、赤、白、黒。あざやかな色で、いけにえにされた人から噴き出した血から楽園がうまれる様子や、ヘビやチョウチョの姿をした神、獣の皮をまとった神官が描かれている。
村の地面の下にこんな場所があるなんて、ナンシーは知らなかった。さらに壁の絵を視線でたどる。
右側に描かれているのは青空と、真珠のような光沢をもつ青白い蜈蚣。
普通の蜈蚣にはあるはずのない一対の翅がひろがったその姿と周りに蛇のようにまつわる雲は、いろんな神話に出てくる生命の樹のようにもみえた。
それと対になるように左側に描かれているのは夜空と、身体中にまるで卵のように生首をまつわらせた巨大な蜘蛛。
首から血が滴っているのか、それとも蜘蛛が吸いあげているのか――赤い糸が蜘蛛を中心にひろがっている。
その周囲に無数に散らばらっている、金属光沢をもった翠色の蝶の翅。
ううん、あれは、蝶の翅ではなく、詞。
ベネトナシュに言葉を習った今のナンシーには、それが読める。
「ほろんだ星のかけら、そのひとつひとつが、ふりそそいで――」
ナンシーがしるされた詩を詠みあげると、しぜんと詞が飛び立ち、謳になっていく。
それは、蝶がひらひらと舞うようにあたりに響きわたり――
(……?壁が……)
石壁がゴウ、と音を立てて動いた。まったく仕組みはわからないが、仕掛け扉のようなものだったらしい。
扉からは冷気が吹き込んできており、その先の暗闇にはわずかに光がみえる。
光につられて、ナンシーは扉をくぐった。
扉を抜けた先は墓石のような鍾乳石が上に下にせり出していて、人工的な道はほぼなかった。
ナンシーはためらったが、後ろを振り返ると。扉は消えていた。
もう前に進むしかない。
上の鍾乳石から滴る水でできた泥濘に足をとられながら、光に向かって、畦石池や石筍をくぐりぬけていく。
どれくらいそうして歩いていたのか。
鍾乳石が取り払われたような跡が前方にみえて、ナンシーはそちらへ向かった。
どこかに続いているのか、さらに近づいたときに扉が見えた。
隙間から光が漏れており、先ほどと同じように金属光沢をもった緑色の蝶が扉には舞っている。
ナンシーは先ほどと同じようにそれを詠みあげた。
扉が、開く。
冷気がさらに噴き出してきた。
ナンシーの眼前には大広間が現れる。
中央には階段があり、それを十二体の骸骨が取り囲んでいた。
そして、階段の下には不気味だが美しい扉のようなものがあり、その向かい側には、槍で手足を貫かれている人影。
「ベネト……!!」
顔をみなくても、わかる。そして駆け寄ったナンシーは言葉を失った。
遠目からでも服と床が血に塗れていたのはわかったが、顔がズタズタにされていたからだ。
「い、や……ね、ねえ……ベネト、ベネトなんだよね?わたし、」
わかる、という返事の代わりなのか、無事な方のベネトナシュの手が空を彷徨い、
ナンシーの首からの紐でゆらゆらと揺れていた紐細工の蝶をとらえる。
「うん……わたし、ナンシーだよ。ベネト、いま、助ける。絶対、助けるから……!」
ナンシーはその手を包むと、自らにかかっていた紐を、祈る気持ちでベネトナシュの首にかけた。
そうすることで必死に正気を保つ。
余りの惨たらしい現実から目を背けたい。気を失ってしまいたい。逃げ出したい。
でもそんなことをしたら、ナンシーはベネトナシュを助けられない。
「……れの、ことは、いい……逃、げ……」
ベネトナシュは何事かを伝えたいようだったが、口もとの皮膚も喉も切り裂かれており、もう息をするのも苦しそうで声は殆どかすれて聞き取れなかった。
ナンシーは今、どうすればベネトナシュを助けられるのかを必死で考える。それだけしか頭になかった。
ベネトナシュを縫い付けている槍をどうにかしなければ、治療もできない。
だがどうみてもナンシーの力で槍を引き抜くのは無理だ。
(でも、なら、土を掘れば)
槍の刺さっている深さをみるに、辺りに落ちている岩を使って掘れない深さではない。
ナンシーが岩を拾おうとしたそのとき。
「……おや?薄汚いネズミが、また一匹。なぜでしょう?あの無能の姿が無いが」
「あら……すこし、予定と違ったわ。記された詞を詠みあげなければ、あちらの方の開かないはずなのに、文盲の村娘が扉をどうやって開けたのかしら。ふしぎね」
嗄れた男性の声と、美しいが嘲笑うような女性の声に、ビクリとしてナンシーは顔をあげる。
気が付いた時には陶器のようにすべらかな白い指が、そっとナンシーのあかぎれだらけの手に触れていた。
さらり、とストロベリーブロンドの髪がナンシーの顔の横でゆれて、濃密な香水の香りが漂う。
「大丈夫。まだ息はあるわ。……もうすぐ途絶えるかもしれないけど。
ねえ、可哀相でしょう?彼を助けてあげたいでしょう?助けてくれる?」
声の響きはぞっとするほど優しく、何も考えずにすべてを預けて従ってしまいたくなる。でも。
いまの自分の行動に、ベネトナシュの命がかかっている。
絶対に迂闊な返事はできない。
「彼を助けたいなら、あの扉を開けて」
白魚のようにゆれる指が示したのは壁から半ば突き出ている扉だ。
それはよく見ると黒い石の中に七色に光る何かを抱いていて、聖人をおさめた言い伝えの聖櫃が直立しているようにもみえた。
「私がどうして……それに。、その扉を開けるとどうしてベネトナシュが助かるの?」
「頭の回転の鈍い小娘ですね。お前が扉を開けばそれを助けてやる、と言っているのですよ」
それ。
階段の傍にひかえていた不気味な仮面の男は、無感動にベネトナシュを指さす。美しい少女は、何が可笑しいのか笑っている。
目の前のひとたちは、ベネトナシュをモノのように思っている。
「ベネトナシュを傷つけたのはあなたたちなの?先に、ベネトナシュを治して。そうすれば」
ナンシーは最後まで言うことができなかった。
「イライラするなァ!いいから、開けろよ!モリ―様の言うことを聞け!」
叫びながら、幽鬼のような形相のウィヤルが入ってきたからだ。
「クソ、どいつもこいつも、バカにしやがって……」
ぐわんぐわんと広間に反響した声で、ナンシーの頭は痛む。
少女は何事もなかったかのように踊るような動きでナンシーから離れ、当たり前のようにウィヤルに命令する。
「あら、帰ってきたのね。じゃあ、また役目をあげるわ。その子に扉を開けさせて。扉の位置くらい、覚えているでしょう?」
「死体や、腕を切り落として使えればとても楽なのだがね、意志を持った、生きている人間でなければその扉は開かないのだよ。何度試して失敗したことか」
傍にいたベネトナシュの唇がかすかに動く。その唇はにげろ、という形にはなっていたが、損傷した喉によりひゅうひゅうと空気が漏れただけだった。
ナンシーはウィヤルに物凄い力で腕をつかまれ、扉の前にひきずられていく。
「やめて。扉を開けたら、どうなるの」
「知るかよ」
ウィヤルの哄笑とともにナンシーの手が扉に押し付けられる。
振れただけで、金色の鎖が霧散した。
それはある意味夢幻のように美しい光景だったが、ナンシーは恐怖を感じた。
「どうして、い、嫌……っ!!」
扉が開いた。
それと同時にナンシーとウィヤルは開いた扉から飛び出したモノたちに突き飛ばされ、転がる。
「な……!?」
扉からあふれる低いうなり声、金属をひっかいたような鳴き声。絶叫。
それはウィヤルの驚く声を簡単にかき消し、声の主たちがつぎつぎとあふれ出てくる
それは臓物と吐瀉物と砕いた骨のような醜悪な臭いを発する奔流と化しており、正確には何があふれているのかわからない。
うねりは広間の壁を突き破り、砕かれた岩が次々と落ちてくる。
穿たれた穴から空を目指して、眼球から刃が突き出て翼も剣になっている巨大な竜や、人間の女性の胴体でありながら胸から臍のあたりが牙を連ねた化け物の咢となっている四枚の羽をもつ鳥が飛んでいくのが、みえた。
「な、なんです、モリ―様、これは」
「あら。生きていたの?」
怪我をしたのか、這いつくばりながらにじり寄るウィヤルを、モリ―と呼ばれた少女は虫けらをみるような目でみると――綺麗に微笑んだ。
同時に、空中から宝石と美しい金細工で飾られた儀式用の王笏と見紛うような三日月鎌が現れる。
「お前はなかなかいい働きをしたから、褒美をあげましょう。約束通り、
誰もが見惚れる綺麗な赤い花に生まれ変わらせてあげる」
二人のやりとりが離れたところからみていたナンシーは、次に赤い線がはしり、ウィヤルが引き裂かれるヴィジョンが視えた。
「やめて!」
ナンシーが我知らず叫んだのと、モリ―の鎌が弾かれたのはほぼ同時だった。
キィン、と音を立てて鎌は宙を跳ね、ウィヤルの足元に突き刺さって消える。
操る鎌がはじかれ、赤い花が咲かなかったことに、モリ―は可憐に首をかしげた。
「あら……?ああ、《代償》が働いたのね。だから、無力なものにも力が宿った」
ひとり頷いたモリ―が、ナンシーをみる。
彼女の瞳は、血塗られて燃えるように赤かった。いや、目の前にあるのは人ではない。
ナンシーは恐怖で息を呑んだ。
黒い骨のように広がった八本の脚。残酷な衝動を現すかのように赤黒く膨れた腹に不釣り合いに細い胴。
そこに在るのは六つの赤い瞳をもった、巨大な女郎蜘蛛だ。
「そうでなければつまらないものはとっくに馬車に轢かれたカエルみたいに押しつぶされているものね」
モリ―は崩壊し続ける大広間の中の糸をたどるように器用に飛び回る。そして、ベネトナシュの隣に舞い降りた。
「誰も破壊と再生の円環からは逃れられない。それは人も世界も同じ。
この世界の神が破瓜をおそれる処女のように私を拒み
変化の歩を進める因子を病や淘汰によって残らず消し去ろうとしてもすべては無駄なこと」
モリ―は信じられないような力で、ベネトナシュに刺さっている槍を片手でズチャ、と引き抜く。
そしてすでに意識を失っている血まみれのベネトナシュに頬ずりをして、口付けながら血を啜る。
ベネトナシュの隣にひかえるのを申し付けられていたらしいフラウドラが訊ねる。
「その襤褸をどうするおつもりで」
「人形遊びがしたいからその材料にするの」
「左様ですか」
自ら生じさせた銀色の糸を伝って、ベネトナシュを抱き上げたモリ―がフラウドラと共に上っていく。
ナンシーにそれをとめる術はなく。ここから逃れる術もなく。
獲物を探して地を這う四つの手足だけがなまめかしい女性の手をした犬や、巨大な鰐蛇が徘徊するこの場所に取り残された。




