村娘と喪失の棺10
祭りが終わってから季節は進み、イリューサットを囲む山々の頂にはいつしか雪がかぶせられていた。
その間、人々は村の南東を囲む火山の熱で温められている大地を頼るほかは、家にこもりじっとしているしかない。
白銀に染まった山の際が朝と夕べには薔薇色に染まるのを何度も繰り返していれば寒さはゆるんでいき、村をうずめていた雪がすこしずつ溶けはじめ煉瓦と土壁でつくられた家々が盆地にまた姿をみせるようになる。
完全な春にはまだ遠いものの、雪解け水が流れ出した頃。ベネトナシュは水に浸かった残雪をよけながら外を歩いていた。
村が雪に塗り込められる前、ナンシーと最後に会ったときに「村の戸が開けられるほど冬の寒さが和らいできたら、またあのクランフラウの樹の下で会おう」と約束していたからだ。
何週間ぶりかの温かい陽射しを浴びた喜びで興奮しているのか、しきりに鳥が騒いでいた。その鳴き声に混じって、人間のざわめきが聞こえてくるのに気づく。
珍しい晴れ間だからほかの村人がベネトナシュと同じように大勢外に出ているのは不自然ではないが、妙に浮かれているというか驚いている感じだった。
気になったベネトナシュは、その方へ向かう。
人が集まっているのは、村でも数少ない、舗装された大通りのあたりだった。
木に登って人だかりの向こうを確かめると、馬車が止まっている。
馬車自体、村ではなかなか見ることはできないが、それは更に珍しく屋根など所々に釉が使われ、艶のある黒色をしていた。
派手な異国の意匠に村人は祭りさながらに沸き立っている。
(なんだ……随分と趣味が悪い……)
思ったよりもつまらなかったのでベネトナシュはすぐに興味を失い、木を降りて集まった村人たちから離れようとした。
だが一瞬、馬車の窓枠越しにストロベリーブロンドの少女がみえて足を止める。
いつかの記憶がよみがえる。
異国風に結われた髪型や着ている服は違ったが、それは確かに以前、踊りながら男性をバラバラに切断したあとつなぎ合わせていた踊り子だった。
ナンシーとの約束にはまだ時間がある。
一瞬だけ、「行くな」という声が聞こえた気がした。
けれども、ベネトナシュは馬車のあとを追っていた。
(べつに何かしようとかじゃない……ただ、少し様子をみるだけだ)
その言い訳が、何に対してなのか分からないまま。
馬車はそのまま道を進んでいき、村長の家の前で止まる。
付き人らしき礼服に身を包んだ金髪の男に手を取られて、踊り子は長の家に入っていった。
さすがに中にまで入るわけにはいかず、ベネトナシュはその場を去ろうとした。
そのとき、嘲る声が背後からかけられた。
「マジで来たのかよ。あの方の言った通りじゃねえか。バカじゃねえの。ハハッ」
振り返ると、なにが可笑しいのかウィヤルが笑っていた。
「……何だ……?」
痙攣のように笑いを繰り返しており、呂律が回っていない。
異様な雰囲気にベネトナシュはその場から離れようとしたが、それと同時にウィヤルは銀色のナイフを取り出してみせた。
「おい、どこへ行くんだよぉ?」
「関係ないだろ」
「バカにしてんのかぁ?」
ウィヤルの弄ぶナイフが光を反射して、チロチロと顔を舐めるのが鬱陶しい。
苛立ちを感じ、言い返してやろうかと思ったとき。
いつかのナンシーの言葉を思い出し、ベネトナシュは思いとどまり言葉を選ぶ。
感情的な問題は抜きにしても、相手を刺激するのは賢くない。以前ならともかく、今はそう思える。
「危ないだろ。そのナイフ」
「何だぁ?ビビってんのかぁ?ヒャハハハッ。それとも、オレには、使うことができないと思ってるのか?」
「そんなことは言ってない」
言いながら、ベネトナシュはウィヤルとナイフをみつめる。
ナイフを手にしたウィヤルの手つきは如何にも不慣れだ。獣を捌いたことすらないだろう。
情緒を反映した定まらない視線や立ち姿や動きから体術を習得した様子もない。
つまり、何かがあった場合は感情が爆発した拍子に、力任せの単調な動きで突っ込んでくるはずだ。
「オマエっ!やっぱり、バカにしてんなァ!!」
瞬間、銀色の切っ先がひらめき、ベネトナシュはウィヤルの手首を叩いてナイフを落とす。
ついでに顎に一撃いれてやると、脳が揺さぶられたウィヤルは立っていられなくなり蹲る。
どうしてこうわかりやすいのかと呆れる半面、ここまで衝動的な言動をするような奴だったかと訝しく思う。この様子はまるで、あのとき悪夢のような場所で自らを傷つけていた者たちと同じ――
「ベネトナシュさまですね?」
丁寧だが、今まで聞いたこともないような人間味が感じられない声がかけられ、ベネトナシュは声の主を探した。
だが、人の気配はない。
(何だ……気のせいか?)
蹲ったウィヤルに視線を戻すと、さっきまであったその姿が無い。
驚いて顔を上げると、いつの間にか金髪と黒髪、二人の男たちに囲まれていた。
黒髪の男がウィヤルを麻袋のように担いでいる。
金髪の方は先ほど見た、踊り子に付き添っていた男らしかった。
さっきまで、ベネトとウィヤル以外の人の気配などまったく無かったのに。
「何だよお前ら」
「そこの男があなた様の説得を失敗した場合、お連れするように言いつかりました」
ナイフをちらつかせる説得など聞いたことが無い。だがそんなことより気になることがある。
「言いつかった、って誰にだよ」
「申し上げられません」
「さあ、こちらへ。ついてきてください」
二人の男たちは別々に喋っていたが、声もベネトナシュに対して要求してくる内容もほぼ同じだ。
黒髪と金髪の違いがあるとはいえ人形のように奇妙に整った顔といい、生気の無いガラスのような緑の目玉といい、体型といい、身にまとった黒の繻子の服まで、双子というにはあまりにも冒涜的な、人間の個性を極限まで潰して同じ人間を大量に生産したかのように同じだった。
ある意味この上もなく美しいが、ベネトナシュは違和感と嫌悪しか感じない。
そして、そういうものに囲まれて喜ぶ趣味はないし言いなりになって後をついていくつもりもない。
「俺はお前らに用なんてない」
言い捨てて、囲みを抜け出す。それは簡単なはずだった。
こんな観賞用に作られたかのような者がイリューサットの野山を駆け回るベネトナシュの動きを追えるはずがない。
「手間をかけさせないでください」
金髪の男はわざとらしく眉根をひそめ、髪をかき上げるようなしぐさをした後、ベネトナシュの方へ腕を伸ばす。金属が擦れる音と、ガシャン、という発条の音。黒い繻子の衣装の袖口から光る針が飛び出すのが見えた。
「――いッ……!」
とっさに喉を掌で庇ったが、針は掌に突き刺さる。鋭い痛みは一瞬で、
何かを流し込まれたとわかるのと同時に徐々に感覚が無くなっていく。
倒れたウィヤルと同じく自分が麻袋のように担がれるのがわかっても、身体がまったく動かず、ベネトナシュは抵抗できなかった。
――意識が、途切れていく――
※ ※ ※
(……寒い……)
冷気を感じて、ベネトナシュの意識は戻った。
ひらいた目に入ってきたのは薄い氷のような水晶が何層にも重なってできた壁に覆われた、巨大な空間だった。
光が差し込む様子が無いのに明るいのは、水晶の表面がときおり呼吸するように淡く光っているせいのようだ。
視線をめぐらすと、人骨や臓物や血飛沫のようなものが螺旋状にうねりながら彫刻された太い柱が、天と地を支えるかのように聳えているのがみえた。
周りをもっとよく見るために立ち上がろうとしたとき、ようやく自分の両手が鎖で戒められていることに気づいた。
(くそ、めんどくさい……)
冷たい地面と砂利で削られ赤くなった頬を肩口でぬぐい、なんとか立ち上がろうとする。
そのために手をついたときに手の甲に痛みがはしった。
顔を顰めるが、ベネトナシュに撃ち込まれた太い針は掌までは貫通していなかったようで傷があるのみだ。血は止まっている。
(この邪魔な鎖をどうにかしねえと……)
鎖を引き、突き出た水晶岩のひとつに何度も擦り付ける。
だが期待したほどの強度はなく、鎖の状態は変わらないまま皮膚と骨が先に悲鳴をあげた。
(クッソ、やっぱ無理か……)
あきらめて水晶岩から視線を移す。
周りはどこもほぼ水晶に似たで覆われているが、その下にはうっすらと彫刻された石壁や壁画らしきものがみえる。
地殻変動によって埋まった古代の神殿の一部だろうか。ならば何故、水晶のようなものに埋もれているのか。そもそも、この発光する鉱物はいったい何なのか。調査された様子はない。
気にはなるが、拘束されたまま得体の知れない場所に居座って悠長に調べ物をしたいとは思わない。
脱出口を探すために更に辺りを見渡すと、ほの暗いなかでひときわ明るい箇所があった。
ベネトナシュは光の方へ向かった。外へ続いているのかもしれない。
だがその期待は裏切られた。
ベネトナシュを迎えたのは大広間で、そこには十二の跪いた骸骨が円形に並んでいた。その中心には上り階段があり、頂上には玉座らしきものがみえた。
「ねえ、起きたのなら、こっちに来て」
玉座の方から、どろっとした蜜のような不快な声が浴びせられる。近寄りたくはない。嫌悪の感情が、ベネトナシュの足を止める。
「生贄風情が。お前が聾だとしてもお呼びに従わないのは万死に値する」
続いて聞こえてきたのは地獄の底から響くような嗄れた男性の声だった。ベネトナシュは足を進める。
奴隷のように呼ばれたからではない。恐怖でもない。
むしろ怒りと好奇がわきあがり、声の主を確かめてやろうと、ベネトナシュは額づく骸骨の横をすり抜けて階段の方へ向かう。
空中に待っている埃や霧のせいで玉座のあたりの様子が分からなかったが、階段に近づくとはっきりとしてきた。
玉座に座っている女の姿は予想通りのものだったが、その傍らに控えている男の姿はどんな想像よりもおぞましかった。
男は死人の皮で作ったかのような血まみれの襤褸を様々な動物の骨でつなぎ合わせ、金属光沢をもつ蝶の翅や甲虫の死骸で飾られた衣装をまとっていた。
大きな蜘蛛の仮面で顔を覆っているため、表情はわからない。
だが蜘蛛の牙からのぞく口もとは声とは裏腹に皺ひとつなく、顎の線は整っていて若々しかった。
「なぜ立っている。頭を垂れろ」
仮面からはみ出した血染めのような蓬髪が苛立ちに揺れる。
同時に、ベネトナシュは背中を蹴り飛ばされて強制的に膝をつかされ、頭をつかまれた。
「図が高いってよ」
背後からベネトナシュの頭を押さえつけているウィヤルの笑い声が聞こえてくる。
「お前……村をおさめる家の者のくせに、得体のしれない場所で、こんな怪しい奴らとつるんでんのか」
押さえつけられながらもベネトナシュが睨むと、ウィヤルはバカにしたように笑った。
「ハァ?なんでも知ってますって顔のお前でも、知らないことがあったんだな!この神殿はオレの家の地下にあって代々受け継がれてきたものだし、元々はこの方々のものだぞ」
驚いたが、ここを管理するために長という職業が生まれ、家がここに建てられたというのは自然だ。
だが、あの二人が死体で飾られているこの神殿の所有者というのは。
「ねえ。楽しそうね。私も、おしゃべりしたいわ。つまらないことって、たまには楽しいものね……顔をあげさせて」
女の声が響くと、ベネトナシュは髪をつかまれ、顔を強制的に上げさせらる。
馬車に乗るときに見かけた衣装よりも更に趣味の悪い、服とはとても言えないような露出をした薄衣を纏った姿が目に入り、ベネトナシュは顔をしかめた。
「私のことは覚えている?」
「怪しい集まりでいかがわしい見世物に出てた踊り子だろ」
吐き捨てるように言うと、仮面の男が怒気を発したのがわかった。
掴みかかってくる気配を感じたその瞬間、踊り子に手で制されて、仮面の男は下がった。
一方、少女の方はベネトの言葉に何の表情もない。
「おさえて、フラウドラ。そう。覚えていたのね。その後のことは?」
「……お前らが、なにかしたのか?」
「ふふふっ。愉しかったのに、何も覚えてないのね。そうね、私の事はモイラ……モリ―って呼んで」
モリ―と名乗った踊り子は小首をかしげて可愛らしく微笑む。それに伴い、髪飾りにまつわる血のように赤い宝石がゆれた。ストロベリーブロンドの髪が、露わになっている乳白色の肌にさらりとこぼれおちる。
蠱惑的なしぐさだったが、ベネトナシュにとってはこの場にそぐわないその様子は不気味で、こちらを拘束しながら言いたいことだけを一方的にぶつけてくる嚙み合わない会話は不快でしかなかった。
「聞きたいのは、お前の名前じゃない。こっちの聞いてることに答えろよ。俺の記憶が無いことと関係あるのか」
「関係ないわ」
絢爛に笑顔を咲かせ、歌うように言い切る。
「だって、べつに記憶を奪うつもりはなかったのだもの。あなたが扉を開けることができる可能性があったからすこしちょっかいを出した結果、そうなっただけで」
「扉……?」
「そう。この玉座の下にね、扉があるの。みせてあげて」
命令を聞いたウィヤルにベネトナシュはひったてられる。玉座の下には、厳めしい石造りの扉があった。
それは黒曜石のような光沢をもっており、石の内部では七色の光が怪しく渦を巻いている。
金色の装飾のように鎖で戒められたそれは外側に突き出ており、聖人の遺骸をおさめた言い伝えの聖櫃のようにもみえた。
「俺はなんも見えねーけどなあ……お前みたいな『穢れた子』には見えるんだろ?」
「見えない……?」
言葉通り、ウィヤルは見当違いの方をみている。女の笑い声が響いた。
「ほら、あなたには<視える>。その扉はね、魔物たちが住むところにつながってるの。人はそれを地獄と呼ぶらしいけど、愉しいところよ。でもここの世界の神は、扉を閉ざしてしまったの」
「地獄に通じる扉?何故そんなものを開く?」
「何のため?理由が必要?あの蒼褪めた神のようにつまらないことを訊くのね?愉しいからに決まっているでしょう?欲望と破滅は進化と再生への決められた手順よ。それを繰り返して、世界はより美しく強くなるの」
モリ―は珊瑚のように可憐な唇からうっとりと言葉を紡いでいるが、彼女の熱狂につれてベネトナシュは急速に興味を失っていきまともに聞く気も失せた。
魔物たちの住む地獄は薬物中毒者か何かの幻覚の産物としか思えないし、事実だったとしても開く理由が無い。
「なんで俺がそんなバカバカしいことに協力しなきゃならないんだ。自分でやって勝手に栄えてろ」
「だって、私たちでは誰一人扉に触れられもしないのだから、仕方がないでしょう?」
「は……?お前には見えてるんだろ?」
「あることは知っているけど、視えないわね。この世界のすべての理に干渉するまでの力はないから。
開けられるものならすぐ開けているわ。この日のために、ずっと準備してきたんだもの。だから、力を貸して。ここの神が世界が滅ぶ可能性に怯えて病で根絶やしにしなければならなかった者たち、その生き残りのあなたなら開けられるわ」
「良かったなあ?特別な役目だぜ」
選別のための病。物語にはお決まりの展開と定型語。でもそれは物語だから有効に機能するのであって、現実の事象の理由としてそれを聞かされて「自分は選ばれた」と喜ぶバカは居ない。
「聞こえなかったのならもう一度言ってやる。お前らの言いなりになるつもりはない」
すぅ、とモリ―の瞳がほそまる。美しく残酷な、三日月鎌のかたちに。
「そうなの?それは残念。でも……確か、この村にはもう一人いたってきいたわ。それを連れてきましょう」
ナンシーの姿が脳裡をよぎったとき、ベネトナシュは渾身の力で自分を拘束しているウィヤルを振りほどいていた。
同時に、先ほど何度も鉱物に擦り付けた摩擦がダメージにはなっていたのか、鎖が引きちぎられる。
(させるか……絶対に……!)
自由になった四肢を使って全力で駆ける。ナンシーの傍にいって、自分が守らなければ。
幸い、出口は塞がれていなかった。逃げ切れる。はずだった。
「残念ながら。お前は運命からは逃れられない」
フラウドラの声とともに中空に金属の槍が出現し、それはベネトナシュの右手と左足を貫通した。
「――ッ!」
声もあげられず、ベネトナシュは顔を歪める。立っていられないほどの痛みだったが、
ぎちぎちと肉に食い込んだ槍が崩れ落ちるのを許さない。
「どんな風に貫いてやろうと思ったが、キミは矜持が高いようだからその格好がお望みだろう」
「ハハハハハッ。良いザマだな!いつも、常に自分が正しいみたいな顔しやがって……」
ウィヤルの憎悪に満ちた反応を痛みで朦朧とする意識の隅で認識しながら、ベネトナシュは考える。ウィヤルはもともと、あまり思慮深いとか人格者とは言えなかったが、この状態の他人をみてのその反応はすでに狂っている。
それでも、ベネトナシュの知る彼は善良ではないにしろどこにでも居る人間で、モリ―やフラウドラのような見るからに底のしれない闇のような連中よりは人間の心が残っている可能性が高い。自分のひとりの命ならまだしも、ナンシーの身がかかっている。いくら楽になりたくてもここで気を失うわけには絶対にいかない。
怒りと嘲笑を浴びながら、ベネトナシュは呼びかけた。
「そいつらが、なんなのか、お前には、わかってるのか」
「神とその使いだ。……老いさらばえて変化と滅びに怯えたまま生き永らえるこの世界の脆弱な神ではない、もっと力のある、素晴らしいお方だ」
ウィヤルに敬虔さなどはない。動機は信仰心などではありえない。
神と呼ばれたモノは何か見返りをチラつかせたはずだ。それを指摘してやれば、あるいは。
「その素晴らしい神は、何をしてくれるって、約束したんだ」
「転生だ。素晴らしい世界に、優れた能力を持って生まれ変わることができる。俺は崇められる」
ここではないどこかへ。
その答えはウィヤルの苛立ちや不満を目にしていたベネトナシュの想像を超えていなかったが、理解はできなかった。
「ねえ、つまらないおしゃべりはもういいでしょう?次期神官さまにお役目をあげるわ。もうひとりの生贄を連れてきて」
ウィヤルが滑稽なほど恭しい仕草をして離れていく。
ベネトナシュはやめろ、と叫び出してその後を追いたかった。だが手足を縫い留めている槍は、残された片手で引き抜こうとしてもびくともせず、うめき声が僅かに漏れただけだった。
フラウドラが腐臭をまつわらせて近づいてくるのがわかる。
「さて、とても痛いだろう?苦しいだろう?死にたくないだろう?ならば心の底から死にたくないと≪願って≫くれ。救かりたいと。神は悍ましく慎ましき麗しの存在。お前のなりふり構わない見苦しい願いがなければ、お力をふるうことはできない。扉を開いた後には願いの力が少々要る。お前はそれを搾り取るための贄だ」
低い笑い声とともに侮蔑の言葉が投げられる。
「だ、れ、が……おまえらなんかの……」
口をふさぐように、フラウドラと呼ばれた男の枯れ枝のようにガサついた手がベネトナシュの顔にかけられる。
本来爪がある箇所はぎらぎらと光る鋸状の刃になっていた。それが頬に、眼球に、突き立てられ、引き裂かれ。
絶叫が響いた。




